am01:22~

   am01:22


「大丈夫か?」

 護送者は淡々と尋ねて、南条彩香に手を差し伸べた。

 しかし少女はその手を握らず、春日歩に抱きついた。

 彼女は少年以外自分から他者に触れることはない。

 春日歩はこの時、怒りを感じるべき状況だったのかもしれない。

 自分たちを囮にして身を隠し、そのことになんの罪悪感もない。

 しかし少年に怒りは沸き起こらず、直感的に理解した。

 この男は絶対に自分たちを見捨てることはなく、例え自分の命が危険に晒されようと、例え護衛に嫌悪や憎悪の対象なろうとも、与えられた仕事を達成することに全力を尽くすのだと。

 そして、少女はそれを知っていた。

 それはもしかすると南条彩香が心の境界を超える力で伝えたことなのかもしれないが、少年は判別することにこだわらなかった。

 護送の男は、今度は春日歩に手を差し伸べた。

 少年は差し伸べられた手を握った。

 所長が鈴木鳶尾の死体をカメラに写しながら、ぶつぶつと状況分析に没頭している。

「そうか、念動力はその力ある意思の知覚外には作用しない。意識的な死角から攻撃されると容易く命中するのか。なるほど、なるほど。しかしどうしてわかったのだ、研究者の誰もそんな可能性に気が付かなかったというのに」

 心理的な隙を突くのは、戦闘の基本だ。

 状況にもよるが、少人数の場合、味方の位置する方向への敵性存在をほとんど確認しない。

 その仲間が敵の存在を感知するだろうという意識が働くためだ。

 そうして所長門野誠一を視覚、意識の両面の障壁にして隙を窺っていると、鈴木鳶尾が少女に暴行を加え始めた。

 それは敵を誘き出すための罠だとわかりきっており、素人判断としか言いようがない。

 そして戦場において強姦は珍しいことではなく、そのまま弄り続ければ、本当に行為に及ぶ気になることも心理学的に証明されている。

 また挿入する瞬間と事が終わった直後がもっとも隙が多く、狙撃手はこの二つの瞬間を狙うという。

 だから護送者は、それまで待機した。

 護送者が、意識の死角からの攻撃が精神障壁を通過すると考えたのかどうかは不明だ。

 あるいは、ただ彼の知識にある戦闘の常識に従って動いただけなのかもしれない。

 少なくとも、質問に答える必要はなかった。

「おい、早く答えんか、どうしてわかったのだ?……ん? おや?」

 門野誠一は不意に重大な損失に気が付いた。

「あ? ああ?! の、脳が!? な、なんということを! 貴様なんてことをしてくれたんだ! 脳を破壊しおったな! よりによって脳を! ああ、なんということだ! 脳は重要なサンプルなのだ! これでは剖検に回しても、まともなデータは得られん。どうして違う場所を撃たなかった? どうしてよりによって脳を撃ったんだ! ……ん?」

 実験体の脳サンプルの消失を嘆く門野誠一はふと、強奪者と春日歩の冷たい視線に、研究に没頭して失われた現実感が戻ってくる。そして自分の置かれた状況にようやく気が付き始めた。

 護送者は懐から拳銃を取り出すと、春日歩に差し出した。

 戦争において捕虜になり拷問を受けた者は、万一救出された場合、そして拷問を実行した者、あるいは命令したものが生存していた場合、その報復に関しては拷問を受けた者が決定する権限を持つというのが、暗黙の了解となっている。

 春日歩は力ない腕を振り絞って拳銃を受け取り、見よう見真似で構えた。

 だが力が入らないのか上手く持ち上がらない。

 護送者は背後から手を添えて、銃を構えるのに力を貸し、扱い方を耳元で囁くようにレクチャーする。

「両腕を真っ直ぐ伸ばして支えるんだ。肩の力を抜いて、脇を締める。そうだ、それで良い。ここが照準点、ここが照準孔。二つを標的に重ね合わせる。引き金は引くのではなく、絞るんだ」

 春日歩は研究所所長、門野誠一に狙いを定める。

 知的好奇心を満たすために、実験と研究のために、苦痛を与え続けた男。

「撃った瞬間の反動に気をつけろ」

 護送者が少年の背中を、大きな体で包み込むように支える。

 照準線の向こう側で慄いている門野誠一がなにかわけのわからない言い訳をしている。

「あ、ま、待て、私にはやることがあるのだ。死ぬわけにはいかん。お、お前たちのデータを解析せねばならんし、それに……」

 続きは銃声に消された。額に赤い孔が開き、頭蓋骨を破って後頭部から脳症混じりの血が弾けた。

 春日歩の腕と肩は衝撃の余韻で痺れ、硝煙が鼻腔を刺激する。

 その瞳に歓喜の光はなく、達成感に満ちているわけでもなく、殺人に悲観しているのでもなく、ただ害虫が一つ消えたことに安堵している時のそれに似ていた。



   am01:25


「あ、ガハッ」

 浜崎純也が呻き声を上げた。

 護送者が駆け寄って容態を見るが、雑巾のように絞り捻られたその状態では、助かる見込みがないのは明らかだった。

 まだ息があること自体奇跡に近い。

 もしくはその苦痛は彼の罪業の拷罰なのか。

 傍らで顔を覗きこむ春日歩と南条彩香に、浜崎純也は力を振り絞って声を出す。

「今まで、すまなか、た」

 少年は返答に逡巡した。

 浜崎純也も研究所の人間だ。

 門野誠一と同じように、人間の尊厳を全て剥奪しモルモットに貶めた、怨憎の対象だ。

「……いいよ。あんたは俺たちを外に出してくれた。だから、もういいよ」

 だが少年が返した答えは、寧ろ素っ気無く、しかし彼の心に安らぎで染みて行く。

「ありが……」

 浜崎純也は、最後の言葉を言い終えることなく、事切れた。

 しかしその顔に微笑が浮かんでいるように見えた。

 浜崎純也の微々たる贖罪は終結した。



   am01:35


 精密機器を大量に載せた二台のバンと、戦闘実験体四人が乗るメタリックシルバーのコンパクトセダンが工場跡に付近に到着した。

 安全のため数百メートル離れた位置に停車させ、仲峰司と奥田佳美が斥候になり工場内の探索に向かう

 廃棄工場より少し離れた位置に待機している研究員に、小型無線機で連絡を取りながら慎重に偵察する。

 荒城啓次の見通しでは、敵は浜崎博士を含めても二人程度だというが、油断はしなかった。

 研究所から実験体を奪取する、その最少人数で最大効果を発揮した手際の良さからして、明らかにプロだ。

 入り口付近の工場脇に、鈴木鳶尾が私物として所有しているバイクが駐車してあるのを二人は見つけ、仲峰司が手早くチェックする。

 後部の荷台に機材を入れる金属製の容器が括り付けてあったが、中は空だ。

 廃棄工場入り口付近に計測装置が作動していた。緩衝材を内包した銀色のバックに入っている機器の画像を軽く視認して、仲峰司は不審に思う。

 状況から推測すれば、№45を計測しているはずだが、通常はモニターに波型に表示される画像が、一直線を描いていた。

 疑問の回答は後に回し、仲峰司は反対側の入り口脇で待機している奥田佳美に合図を送る。

 即座に彼女は工場の中に飛び込んだが、しかし待ち伏せや応対射撃などの反応はなく、三人の死体とスクラップ同然のグリーンのエアロ仕様のスポーツカーが放置してあるだけだった。

 中峰司は始め、それを実験体の二人と、遺伝子工学博士に偽装していた男だと思った。

 だが入り口付近に転がっていた男を確認して、間違いだと知る。

 額に赤い孔を開き、後頭部から頭蓋骨の中身を散乱させている初老ほどの男。

「……所長」

 奥田佳美は信じられないというふうに呟いた。

 そして工場奥に無造作に駆け込む。

 敵が潜んでいる可能性を考慮していないようで、思わず仲峰司が制止をかける。

「奥田、慎重に動け」

「トビオ!」

 彼女は了解の代わりに驚愕の声を返した。

 頭部の原形が崩れるほど銃弾を受けたその死体の服装は、明らかに№45・鈴木鳶尾のものだった。

 仲峰司が拳銃を構えて彼女の後を追って奥に入り、周囲を窺いながら最後の死体を確認する。

「浜崎純也だ」

 雑巾のように体が捻じれているのは、鈴木鳶尾の念動力によるものだろう。

 だがこれはある可能性を示唆している。

「ちょっと待ちなよ。じゃあ、トビオは不意打ちを受けたわけじゃなくて、まともに戦ったのに、負けたってことかい!?」

 奥田佳美の驚愕は、仲峰司も同様だった。

 荒城啓次の千里眼は対象の特性をある程度識別できるという。

 それがどういう感覚なのか、能力を持たない仲峰司には理解できるはずもなかったが、しかし彼の目と言葉を信じるならば、相手はなんの能力も持たない普通の人間だということだ。

 その常人が、たった一人で鈴木鳶尾を倒したということになる。

 超能力という特殊能力ゆえに、通常の人間関係から悉く弾かれた仲峰司にとって自分の力は忌まわしいものであったが、しかし同時にその特殊能力だけが誇りであり拠り所だった。

 奥田佳美にしても、経緯は別として、絶対的な自信の根源であることに変わりはないはずだ。

 超能力者は通常の人間に真っ向から闘って、けして負けることはない。

 だがその一人が、自分勝手な暴走の結果とはいえ、敗北した。

 それは彼らにとって盤石な自信が大いに揺らぐ事実だ。

 愕然とした面持ちで奥田佳美は、自分で口にした仮説を否定した。

「いいや、違う。相手もきっとあたしたちと同じなんだ。そうだろ。敵もあたしたちと同じ能力を持ってるんだよ。でなけりゃトビオが負けるはずがない!」

「だがその可能性は低いと思うが。№13の千里眼は成功率が高い」

「可能性はあるんだろ!」

 彼女はどうしても真実と認めたくないようだ。

 喧嘩ばかりしていたがそれは仲の良さの表れだったのか、少なくともその実力は認めていたのだろう。

 仲峰司はそれ以上答えず、無線機でバンの職員に連絡を入れる。

「こちら№31。戦域確保、敵性存在無し。三人の遺体を回収してください」

 研究班と入れ替わりに廃工場を出た仲峰司は、停車位置に戻ると、バンの中で千里眼能力のバリエーションの一つ、ダウジングをしている荒城啓次に尋ねた。

「標的はいま何処にいますか?」

「え、えっと、まだ捜してますが。ねえ、ほんとに鳶尾君やられちゃったの?」

 無線機で話を聞いていたのだろう、彼も俄かには信じられないようだ。

 無言で頷く仲峰司に、彼は髪が薄くなり始めた額に手をピシャリと当てる。

「嘘でしょう。だって、相手は普通の人間のはずなんだよ」

「誤認ということは?」

「間違えるはずがありませんよ。あたしたちと普通の人じゃ色が全然違うんです。なんていうか赤色を青色というぐらいですよ。いえ、勿論これは喩えですが」

 彼の説明を聞いたところで、どうせ感覚を理解することはできない。

 他者の感覚を完全に理解することが可能なのは、精神感応能力者だけだ。

 そういえば奪取された実験体の一人がそうだった。

 一緒に逃げているということは、相手が二人を救出しようとしていることが伝わっているからだろうか。

「わかりました。とにかく常人なんですね」

「あー……鳶尾君を倒すぐらいの人を、常人って言えるのかな?」

 もっともな意見を述べて、荒城啓次は不意に周囲を見渡して様子を窺った。

 職員や研究者たちは実験体の遺体回収作業に従事し、その指揮を執るはずの副所長はなにやら所長の死体の前で呆然としている。

 奥田佳美は破壊された車体の調査に集中しており、仲峰美鶴は四人が乗って来たコンパクトセダンに待機したままだ。つまり誰も自分たちに注意を払っていない。

「ところで、所長も亡くなったんですよね?」

 鈴木鳶尾の死よりも軽い調子で訊ねた。

 正直言うと彼も所長は嫌いだった。

「そうですが」

 荒城啓次がなにかを思いついたことに気付き、だがその内容まではわからず、仲峰司は促すように答えた。

「この戦闘実験、継続されますかね?」

「その判断は、副所長と大学長の相談によって決定されると思う。ですが、たぶん続けるでしょう」

「ねえ、ちょっと耳を貸してくれません」

 急に囁き声に変わって耳打ちする。

「あのですねぇ、こうなったら見逃すってのは、どうでしょう」

 最後に少しふざけているように首を傾げて提案する荒城啓次に、仲峰司は怪訝そうにする。

「本気で言っているんですか?」

「だって、あの子たち剖検に回されちゃうんでしょ。つまり、解剖されちゃうわけですよ。連れ戻したって殺されるだけなんですよ。それに鳶尾君もやられちゃったし、つまりあたしたちもやられちゃう可能性が高いわけだし。だからね、私が千里眼の報告に適当なこと言えば、もう追いつかなくなると思うんですよ」

 奪取された二人の実験体の命と、自分の命。

 どちらが重要であるのかは知らないが、見逃せば両方とも助かる。

 良い方法のように思えるが、少々無思慮だ。

「奪還に失敗すれば俺たちの待遇に影響がでる可能性がある。最悪、職員としての地位をなくし、ただ実験体にランクは下がる危険もある。それに最近は、研究所に単純な攻撃性能力の開発に梃入れされている。荒木さんの能力の成功率が下がれば、無用と判断される要因になると思いますが」

 その結果、二人の子供の代わりに、小さなガラス容器の中に分解されて陳列されることになるかもしれない。

 特別扱いされているとはいえ、自分も荒城啓次も、まだ実験体であることに変わりはないのだ。

 荒城啓次は研究所の中では異彩の存在だ。

 彼は超能力実験の初期、まだ人道的配慮というものが存在していた時期に、自ら実験体として志願した。

 自らの能力を生かし、被験者として研究に参加することで報酬を得て、それを生活の糧としていた。

 結婚し、子供は生まれなかったが、ごく平凡な生活を送っていた。

 しかし、いつの頃からか、彼の生活は変わり始めた。

 同僚である他の被験者は隔離され、人間性を剥奪されたモルモットとして扱われ、薬物投与、剖検など、違法な実験が行われるようになった。

 脱走を図る実験体が続出したが、ほとんどは事前に阻止され捕らえられた。

 気が付けば荒城啓次は逃げ出すことができない状態に陥っていた。

 状況によっては彼も致死限界寸前の実験によって廃人にされ、死に至らしめられていたかもしれない。

 だが幸い彼の能力は極めて成功率が高く安定していた。

 そのためか研究所や機関は、仲峰司と同じように様々な仕事に従事させ、その能力を活用してきた。

 おかげで実験体の中ではもっとも高いランクが付けられ、職員として雇用されている。

 しかしそれで彼の不安が消えたわけではなかった。

 いつ自分の番号が下がるか、いつ消されてしまうのか気が気でならなかった。

 同時に一応一般の人間と同じ生活ができるのに比べて、悲惨な境遇におかれている年端も行かない子供たちに、憐憫と罪悪感を抱いていた。

 だが口にすれば彼らの場所へ放り込まれ、あるいは研究所の手の届かない場所へ逃げたとしても、食い扶持を稼ぐ手段がない。

 氷川結城が新しい大学長に就任した時は、この状況が改善されることを期待していたらしいが、しかしたいした変化はなかった。

 目新しいことといえば、以前の荒城啓次と同じように志願してきた能力者が二人現れ、そしてその二人も以前の荒城啓次と同じように大学長に取り入って、生活を守ろうとしていることくらいだ。

 結局、彼はここでしか生きていくことができず、今の生活を守るしかないのだ。

 そうして荒城啓次は心の奥底の感情を出すことなく、それをごまかすようにくだらない冗談で場を和ませ、仕事は手を抜かず真面目にこなし、その陰で恐怖としか言いようのない体験をしている子供たちから目を背けてきた。

 それはまるで、悲惨な生活を送っている底辺階級の人々を、助ける方法を知っていながら、救済を施せば慣習で差遣され、今度は自分が彼らと同じ状態へ追い込まれてしまうことを恐れて、仕方ないのだと言い訳をして見て見ぬ振りをする、役人やサラリーマンのようであった。

 その彼が今回ばかりは、ほんの少し見逃すだけで助けられるかもしれないという些細な可能性に気がつき、無理やり押さえつけてきた良心は、渾身を持って起き上がろうとしている。

 しかしそれも長くは持たない。

「そうですね、それはまずいですよね。すいません、変なこと言っちゃって」

 二人の子供の命よりは、やはり自分が一番大事なようだ。

 しかし仲峰司はそのことで荒城啓次に軽蔑の念は抱かなかった。

 自分も同じ理由で動いているのだから。

 いや、少なくとも少年たちを見逃そうという発想を口にした分、彼のほうが人間性を残しているだろう。

「今のは聞かなかったことにしておきます」

 仲峰司が話を終わらせたと同時に、杉原友恵が二人を呼んだ。

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