下
ぼんやりと『彼女』の意識が焦点を結んだ。ここは何処だろうか。
どこか見知ったような床や壁、それからテーブルや椅子を、『彼女』は見下ろす。
『彼女』はどうやら宙に浮いているようだった。ふと見たいものに意識を向けるだけで、それがよく見えるようになる。
なんだかどれも既視感を覚える『彼女』は、夢中で色んな物を見て回った。ベッドと床の隙間から、天井近くの壁の模様、椅子やテーブルの裏側。
あちこち見て回ってから、扉に目を向ける。その持ち手を捻れば外に出られる事を『彼女』は知っていた。
好奇心がうずうずと沸きだして、『彼女』は扉を開けようとする。するとどうだろう、自分には手がなかった。
『彼女』は首を捻る。どうして自分には腕がないのだろう? それとも最初から無かったのだろうか。
何も思い出せない。
何も分からない。
自分の存在すら不確かだ。
どうしようもなくなって、またぼんやりと意識を沈めようとすると、どこからか誰かの切羽詰まった声が聞こえた。
よく知った声のような気がして、『彼女』はその声をよく聞きたいと思う。
耳をすませたつもりが、次の瞬間には何人もの男がいる部屋の中央に『彼女』はいた。
「テレンティアを失ったのは痛いぞ。どうするつもりだ」
「どうもこうもないよ。こうなった以上、彼女なしで迎撃するしかないんだから」
「……テレンティアを見捨てるってのか」
「あれは自分から裏切ったと見られても仕方ないよ。だから奪還を最優先にはできない」
「テメェ……!」
肩をすくめた細身の男に、体格の良い男が食って掛かる。それを口を真一文字に引き結んだ男が細身の男を批難するように睨む。『彼女』はハラハラと彼らのやりとりを見守った。
「フランツ、アラム、やめろ」
それまで黙って三人のやりとりを見ていた、近寄りがたい雰囲気の男が制した。
フランツとアラムが姿勢をただす。残ったラーヴルが静かに視線を男に向けた。
男は三人の注目がこちらに向いたことを確認すると、低い声でこれからの事を指示する。
「テレンティアは捨て置け。ラーヴル、男がテレンティアを受け止めたんだな?」
「……ああ」
「受け止めたということは、テレンティアに危害が与えられる可能性は少ない。また、今の段階でテレンティアも敵国に寝返る事はないだろう」
「総司令、なんでそんな事が言えるんですか!」
フランツが総司令と呼んだ男に眦を吊り上げるが、総司令が表情を変えることは無かった。
アラムが困惑した様子で総司令に問いかける。
「その確信はどこから?」
「魔法士なら分かる事だ。気にするな。さっさと出ていけ。今この瞬間にも敵国は侵攻してきているだろう。食い止めてこい」
納得いかなさそうな様子ではあるが、フランツは下された命令を違えることなく、敬礼して部屋を出ていく。アラムも、ラーヴルも、同じように敬礼して部屋を出ていった。
総司令は扉が完全に閉まったことを確認すると、視線を宙に向けた。
カチリと『彼女』と視線が合う。
「テレンティア、ぼんやりしている暇があるならさっさと体に戻れ」
『彼女』は困惑した。自分が『テレンティア』?
男をよく見ようと近づく。
取り巻く『テレンティア』に気がついたのか、男は視線を巡らせた。
「思念が弱い。自我がかなり薄いな……この分だと記憶もほぼないか」
一人言のように呟く総司令が、ぼんやりとしている『テレンティア』が集まりやすいように、手のひらを仰向けにした。
「ここに来い」
いそいそと『テレンティア』は総司令の手のひらに集まる。意識が少しだけ明確になった気がした。
「おそらく、転移魔法の失敗によるものだ。精神統一が重要な魔法で、意識が分離した結果だろう。テレンティア、ぼんやりとしていると悪魔に体を奪われるぞ。早く体に戻れ」
総司令の厳しい口調にやらなくてはならないという意識が芽生えた。それに従うことが正しいのだと、自然とそう思った。
でも『テレンティア』は自分の体の場所が分からない。どうすればいいのかと停滞していると、総司令は大きく溜め息をつく。
総司令は執務机の引き出しから小粒の水晶を取り出した。
「肉体がないと自我はいずれ霧散してしまう。お前は……テレンティアは今でも徐々に自我を磨り減らしているのは分かるか? 暫くはこれを肉体にしておけ」
『テレンティア』は水晶にすり寄った。これが自分の肉体? 手も足も何もないけれど、つるつるして、寝心地は良さそうだ。
水晶を気に入った『テレンティア』が、するすると入っていく。透明だった水晶が僅かに色づく。無色だった水晶は透明度の高い月や星のような輝きをもった。
さっきよりもはっきりした意識で総司令を見上げる。見える範囲が限られてしまったけれど、総司令の手のひらにあるうちは、総司令の顔がよく見えた。
「肉体が滅ぶ前に魂を戻せればいいが……アラムかラーヴルあたりに預けておけば、いずれ接触できるだろう。全く、お前がこんな状態になるとは……
つがい。
その響きになんだか心がときめいた『テレンティア』は、くるりと水晶を煌めかせた。
◇◇◇
雨が滔々と降り注ぐなか、男は落ちてきた月の女を抱き止めた。
「やっと見つけた……」
太陽が陰って雨音だけが聞こえる世界で、自然と口角が上がった男は愛しい女を抱き締める。
長年密かに願っていた邂逅に万感の思いを噛みしめていると、無粋な者共が男に声をかけた。
「大佐、その女をこちらへ。恐らくその女が転移魔法を行使した魔法士でしょう。軍規に従い、捕虜として身柄を引き取ります」
「……今、なんて言った?」
「ですから捕虜とし、て、ひぃっ!?」
大佐と呼ばれた男はいつの間に抜いたのか、女を片腕に抱き締めたまま、空いた片腕で単発銃の引き金に指をかけ、無粋な事を言い出したたわけ者の眉間に銃口を当てた。
周囲の誰もが息を飲んで動けなくなる。
「彼女は俺のものだよ。誰も手を触れるな」
大佐は綺麗な顔で美しく笑う。
例えウィシュト帝国の目的が魔法士の取り込みによる世界征服だとしても、自分の腕の中にいる女は自分のもの。魔法士だろうが捕虜だろうが、誰の手にも渡さない。
その本気具合は、展開に時間のかかる魔法ではなく、隠し手である銃口が向けられていることから窺えた。
相変わらず雨は降り続いていたが、無粋者達が引いたのを見ると、大佐は上機嫌で女を横抱きにする。意識なく、雨に打たれている女もまた格別に美しかった。
大佐は女を抱いて、戦車の後ろに控えさせていた軍用車に乗り込んだ。後部座席に二人で乗り込み、女の頭を自分の膝に乗せるようにして寝かせる。
女を見るその表情は、蕩けるような甘さと熱が混在している。愛しそうに女の髪を撫で付けて、水分を少しだけ拭ってやった。
「本当にいるとはね……俺の、俺だけの
早く目を覚まして、と大佐は囁く。
冷酷な判断と残忍な手段で軍の上層部にまで上り詰めた彼が、恋と愛に囚われたただの男と成り下がる。
一体どうしたのかと訳の分からない士官達が、大佐を遠巻きにして様子を窺う。
その横では、従軍していた魔法士と魔法士かぶれの傭兵達が、何となく得心のいったように頷いている。
これは、魔法士やそれに準ずる者にしか分からない感覚だ。
それは魂すら感じとることのできる魔法士が、どうしようもなく惹かれてしまう運命。
魔法士である大佐と、転移魔法を行使したと思われる魔法士らしき女。
互いに求めるように手を伸ばしていたことを、一部の魔法士や魔法士かぶれはしっかりと見ていた。
然れど運命は哀しき哉。
男と女はそれぞれ敵対するべき立場の者。
さらに女は転移魔法に失敗したのか、魂が抜けている。
太陽の男は月の女の額にそっと口づける。
「あぁ、あぁ、本当に……早く目覚めてくれないと、俺はどうなってしまうのか分からない。君の体を閉じ込めて、その後は……」
ぐっと衝動を堪えるように囁くが……結局は耐えきれずに、噛みつくように男は女の唇を貪る。
啄んだ唇から舌を割り込ませて、味わうように歯列から上顎の裏、舌の根まで、女の口腔を犯す。
「……はぁ……っ、早く名前を教えて。俺の、運命」
愛しい衝動のままに女に声をかけると、そっと車の窓が叩かれる。
一瞬で表情を消した男は、何だと短く尋ねた。
「指示を」
「そうだな……」
外に視線を向けた大佐は、部下に予定通りに作戦を遂行するように伝えた。既に向こうにこちらの情報が伝わっているだろうが、この大雨とその混乱に乗じない手はない。
だから大佐は予定通りに作戦を遂行することに決めた。早ければ早い方が勝機がある。
大佐の部下である男は指示を下しに車から離れていった。
そうしてまた、束の間の二人だけの時間を手に入れた男は、冷たい女の頬を温めるように両の手で覆った。
男は山を下ったそこに、
気づかないままに、男はこのまま国境を越えて敵国・バルドタート公国を制圧することを命じた。
◇◇◇
女の体が朽ちるのが早いのか。
男が宝石を手に入れるのが早いか。
それとも対立する二国の戦争に決着がつくのが早いのか。
運命は巡り廻り、賽はどちらに転がるのか。
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