テレンティアの宝石
采火
上
もうどれだけ降り続けているのか分からない雨が、今もなお降り続く。
他の建物よりは丈夫で、ちょっとした高台にある砦の兵舎。彼女は卓上の地図から視線をゆっくりと上げると、同じ軍部の者と視線を交わした。
「……やっぱり一度、ここを偵察するしかないかなぁ」
地図のある一点を指差した男が、周りに同意を求めるように窺う。
現在この国は隣国・ウィシュト帝国との戦争中である。それはもう何十年も前から緩やかに戦い続けてきたのだが、退廃する魔法に代わって発展してきた兵器によってここ数年激化を見せていた。
隣国がこの国を攻め続ける理由は分からない。無闇矢鱈と領土を拡大したがっているようにも見える。
だが理由がなんであれ、攻め続けられる限り守らねばならない。
それが、軍人としての覚悟。
軍に配属されたときから彼女の覚悟は揺らぎない。
その覚悟に基づき、テレンティアは男の提案に乗るために手を挙げた。
「私が行くわ。私が行けば、最悪皆逃げられる」
「そうだね、テレンティアの転移魔法があれば帰りは安全だ」
稀少な魔法士であり、この軍議で唯一の女性であるテレンティアが危険を冒すと聞いて、それまで黙っていた他のメンバーも次々と手を挙げていく。
その人数の多さに、それまで軍議を取り仕切っていた細身の男が声を荒げた。
「待った、待った! 皆行っても無駄! テレンティアの転移魔法だって上限があるんだかさ!」
「私含めて大体五人ってところかしら」
苦笑しながらテレンティアが言えば、細身の男がメンバーを選抜していく。
「アラム、ラーヴル、そして僕フランツ。時間がないから早さ重視で車で行くよ」
車を残りの一人分としてカウントし、これで五人分。テレンティアの総魔力を使えば、一度だけ転移が可能。戦闘をしに行くわけではないから、妥当な選抜だろう。
選抜されたメンバーと目配せして、テレンティアはフランツの作戦に頷いた。
───窓の外で雨は今も尚、降り続く。
◇◇◇
今年の雨は異常だと言われていた。ここ数十年、氾濫したことのない大河川の氾濫が噂されるほどには。
この大河川の一部はウィシュト帝国との国境間近まで折れ曲がっている。
テレンティア達が所属する部隊の防衛地域付近の国境は山になっており、その山と河川を分断するように砦の一つが建てられていた。
山側にある砦はともかく、川が氾濫してしまえば、海抜が低くなっている平地側の被害は甚大だ。この長雨で、あちこちで勃発していたウィシュト帝国との小競り合いも一時的に停戦状態。自国がそうだから、向こうだって雨に悩まされているのだろう。
フランツの予想では、この大雨が続けば間もなく河が氾濫してしまうらしい。氾濫してしまう前に、未だ疎開せず町に残り続ける頑固者たちを避難させねばならない。
砦も山側に建っているが、氾濫の規模次第では沈む可能性がある。当然高台を目指して山に逃げるのが水害からの避難に適していた。
しかしそこは国境。敵の動きが危ぶまれる。
事前の偵察は必須だ。
テレンティアは星の瞬きのような髪を頭上で高く結い上げる。さらりと背中まで流れる長い髪は、戦場では女を忘れてしまいがちな彼女なりの抵抗。
体の線が浮き出るほどぴったりとしたカーキ色の軍服を身に纏い、腰のホルダーに細身のナイフを一本と単発銃を一丁しまう。
軍服のジャケット丈は短い。だからテレンティアの軍服は少々改造され、ホルダーを隠すようにたっぷりのフリルをベルトに取り付けてある。そのフリルがヒップのラインとホルダーを上手く隠した。
魔法士である彼女にとって、手の内を隠すのは当然のことだった。それが魔法を封じられたときに活きるというのは先人の教え。
軍帽を被って準備を整えた彼女は、兵舎の自室を出て作戦用の
「来たな」
煙草をふかしていたアラムがテレンティアを出迎える。煙草の煙にテレンティアが顔をしかめれば、アラムは苦笑して煙草を携帯用灰皿に押し込んだ。
「またそんな嗜好品を雑に扱っていいのかしら」
「テメェが嫌そうな顔をしたんだろうが」
しれっと言ったテレンティアに、大袈裟に肩をすくませたアラムはさっさと運転席に乗り込む。煙草の臭いが後を引いた。
テレンティアが後部座席に乗り込めば、助手席に軽装のフランツ、助手席の後ろにはラーヴルがライフルを抱いて着席していた。戦場であっても身嗜みに注意を払うテレンティアとは真逆の男共に、彼女は溜め息をつく。なんともむさい空間だ。
「そろったね。それじゃ行こうか」
フランツの合図で軍用車が特有の蒸気音を立てて発進する。この大雨だ。車が垂れ流す蒸気音も雨音にかき消えて丁度良い。
砦より少し離れた位置にある山道から、一行は山へと入っていく。
「もう少し行くと、元々畑だった開けたところがあるよね。結構な広さがあるし、この雨だと山を越えてくるのも一苦労だから、敵さんも出てこれないはず。一時的な避難所にはできると思う」
ゴツゴツとした岩肌の山道を車が登っていく途中、フランツが今回の目的を再度確認する。何度も偵察や巡回に行っている他の三人が、記憶と照らし合わせながらフランツの言葉に頷く。
しばらく進むと道が開けた。目的の場所だ。
土砂降りで視界の悪いなか、フロントのワイパーが一瞬だけ視界を広げる。
その視界に、テレンティアは妙なものを見た。
「待って、あれって」
広場に出た瞬間、車内が緊迫感に包まれる。
「戻れ! ウィシュトの傭兵だ!」
「戦車もいるわ! 引きかえ───」
テレンティアの言葉が終わらない内に、車体が大きく揺れる。各々、しっかりと身を固めて衝撃を逃がした。
テレンティアがパッと顔を上げると、目をすがめたラーヴルが舌打ちする。
「……砲撃してきやがったな」
「どうする!? 追われてそのまま攻められたら、たまったもんじゃねぇぞ!?」
「奇襲かけてくる気満々だったとか性格悪い! テレンティア、転移魔法展開準備! 戻って体勢を整える!」
「了解したわ! 十分稼いで!」
魔法を行使するには陣が必要だ。陣が完成することで魔法が発動する。
陣は空間に魔力で刻む。移動する車体で陣を空間に刻む事は至難の技だ。特に四人と軍用車、同時の転移となると陣も複雑になる。
それでも、それを十分でやってみせると宣言するのがテレンティアという魔法士だ。そしてそれには常に結果が伴ってきた。
「広場中央付近に陣を展開!」
「了解」
「ラジャー」
暗に十分後、敵陣に突っ込めというフランツの言葉に、テレンティアとアラムが頷く。
「ラーヴル、砲撃の着弾地点を計算できる!?」
「……応」
フランツの指示でラーヴルが首を巡らせて、アラムに逃げ道を示す。ハンドルさばきは荒いが、アラムは正確に砲弾から逃れるためにアクセルを全開にした。
フランツが顔をしかめて、アナログな無線をとる。
五十年程前には魔法士が魔法で通信していたというが、今ではその方法が取れないほどに魔法士の数が減っていた。
無線を通して砦に連絡をいれる。雨で電波が届きにくかったが、なんとか繋がる。すぐに迎撃する体勢を整えるようにと兵舎にいる総司令官に申し入れた。
その間にも車体は大きく揺れる。
傭兵が何人か無謀にも軍用車へ突っ込んで来る。
「なんだコイツら! 馬鹿が!」
「待ったアラム! 彼らただの傭兵じゃない! 魔法士かぶれだ!」
知識と訓練で育成された魔法士と違って、魔法士かぶれは我流で小技の魔法を行使する。系統立てられた魔法士とは違って、個人によって行使する魔法が全く不明な上に癖のある性格の人間が多いからか、魔法士かぶれは傭兵に多い。
フランツが傭兵を魔法士かぶれと判断したのは、突撃してきた内の幾人かが尋常ならざる力を見せたからだ。
ある者は一足跳びでラングラーと距離を縮め。
ある者は長距離から大剣を槍のように投げ。
ある者は現代兵器の銃ではなく、前時代な弓を用いて空気の矢を打ち込んでくる。
舌打ちをしたラーヴルは、そんな魔法士かぶれの行動すらも視野にいれてアラムに経路を指示する。僅かに開けた窓から時折銃口を出しては、無防備な傭兵を撃ち抜くことを忘れずに。
「よくもまぁ、こんな数の魔法士かぶれを集めたことで」
傭兵自体は二十人ほどだろう。その内の三分の一が魔法士かぶれとフランツは判断した。
それでも何とかアラムがラーヴルの指示のもとで砲撃と傭兵を避けていたが、敵はたった一台の軍用車に対して容赦がなかった。
視界が紫のもやに包まれる。
「……っ、毒ガスか! 窓閉めろ!」
雨で流されない毒ガス。車体を包み込むように取り巻いているように思えるのは、敵方に魔法士がいるということだろう。魔法によって気流を操っているのは一目瞭然だった。
上手く逃げ切れるかとフランツが歯噛みしたとき、ようやくこちらの手が整った。
「ラーヴル、中央の敵をどけて」
それまで沈黙を保っていたテレンティアがラーヴルに指示を出す。
八分だ。十分という指示を二分縮めて、テレンティアが陣を刻みあげて見せた。よくやったと、フランツは喜色を隠せない。
ラーヴルが弾を入れ替え魔弾を装填し、ライフルを構える。毒ガスを吸わないように、各々口元を布やガスマスクで覆った。
照準は自分達と陣を寸断するように立ちはだかった戦車二台。
「
雨の中、寸分狂いなく戦車二台の狭間に着弾した魔弾が地面を抉るように爆発する。ライフルでも砲撃並みの威力が生まれた弾丸は、正しく魔弾だった。
吹き飛ぶ砂利に圧されて、戦車がひっくり返る。
「突っ込むぞ!」
アラムがアクセルを全開にした。
フランツが助手席で軍用車の特殊装置を操作し、アクセルにブーストをかける。
けたたましい蒸気音と共に抉れた地面を飛び越して、
「
テレンティアが魔法を発動する。
自分が刻んだ陣がきちんと発動したか黙視するために、テレンティアはふと窓の外に視線を向けた。
その瞬間、雨の中で太陽を見つけた。
どうしようもない程の郷愁と愛念、冀求が胸に押し寄せてきて、視線が奪われる。
雨の中、ラーヴルが吹き飛ばした戦車に駆け寄り、こちらに向かって魔法を放つ男が一人いた。
黄金の輝きをもつ髪は随分と濡れて、頭の形をはっきりさせている。
そればかりか、見上げた男のエメラルドの瞳と、テレンティアのアクアマリンの瞳が交差した。
「テレンティア?」
それは無意識だった。
今まさに転移するラングラーからテレンティアが飛び出す。追撃する風の刃が、チリッとテレンティアの頬を掠めた。
「待てテレンティア!」
誰かがテレンティアの名前を読んだ。
名前を呼ばれたテレンティアは、自分が魔法を行使中だった事を思い出す。
理性でもって転移魔法を行使するけれど、本能が太陽の男に囚われたまま。
心身が分離したまま、テレンティアは転移魔法を行使した。
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