第6話:ラーメンが食べたいです

 中央給電指令所のオフィスに、来宮隆きのみやたかしの姿は見当たらなかった。部屋にいるのは、本社へ提出する書類を、朝から黙々と作成している田部淳子たべじゅんこだけだ。

 空調設備から流れ出る乾燥した空気が、年の瀬を映し出したカレンダーを小さく揺らしていた。壁にかけられたホワイトボードに視線を向けると、来宮のスケジュール表は、午前午後ともに空白になっている。海崎も、来宮が外出する予定があるとは聞いていなかった。


「ああ、海崎さん、お疲れさまですっ」


 部屋の入口に立つ海崎の姿に気がづいた田部は、端末のキーボードを叩く手を止め、デスクの上に置いてあったウサギのマグカップに口を付けた。


「田部さんもお疲れさま。来宮さんは外出?」


「そう言えば、緊急の会議がどうのって、なんだか浮かない顔で出ていきましたけど……。まあ、いつも浮かない顔していますけどね」


「緊急の会議……か。ああ、田部さんの方はどう? 何か手伝おうか?」


「いやいやいや、これは私の仕事ですので大丈夫ですっ。それに今日中には終わりそうですから。海崎さん、部長に何か用でしたか?」


 海崎は宮部彩みやべあやの言ったとおり、電力需要予測システムに登載されている汎用型人工知能、ミソラが利用できるデータベースの拡充提案をするつもりだった。


 社会科見学に訪れた子供たちの相手をしたあと、海崎はミソラの管理中枢である電力需要予測システム制御室に向かった。そこでミソラと東日本全域の住民登録データベースをリンクさせた場合、予測率がどの程度改善するかについて、シミュレーション解析を行っていたのだ。

 解析の結果、その予測精度は、統計学的に有意ではあるものの、ごくわずかな上昇にとどまり、期待したほどの効果ではなかった。とはいえ、停電のリスク回避に少しでも貢献できるのならばと、取り急ぎ提案書を作成していたのだ。


「すまないのだけれど、これ、来宮さんに渡しておいてくれないかな?」


 海崎は、田部のデスクの上に茶封筒を置く。ウサギのマグカップの中身はコーヒーだった。


「あ、早退届ですか? 分かりました。渡しておきますね」


「停電対策に関する提案書類も入っているから、できたら今日中にお願いできる?」


 田部は「了解ですっ」といいながら、茶色い封筒を机の引き出しにしまい込むと、満面の笑みを浮かべながら海崎を見つめた。


「で、どうでした? 社会科見学」


「おかげさまでハンドアウト、とっても助かったよ。ありがとう」


 田部が作ってくれた資料がなければ、まともに話もできなかっただろう。緊張や、心理的な問題も大きいが、やはり専門知識を、専門知識を使わずに言葉にするというのは、なかなか難しい作業だ。知識を得るというのは、言葉を得ること、それを表現すること同義なのかもしれない。


「最近の小学生はとても優秀なので、なかなか質問も鋭いですよね。あ、ごめんなさい、海崎さんは専門家なので、そんなことはないのでしたですっ」


「いや、そんな……。でも、みんな真剣に聞いてくれてよかった」


 そして、知識を得るだけでは、それが如何にして可能か、という問いに答えることはできない。知識として理解するのではなく、目の前の景色や世界が大きく変わるような理解がある。それはある種の感動だともいえるが、そんな感動を子供たちに伝えることができれば、学問の探究者として素直に嬉しい。


「海崎さんの説明の仕方が良かったんですよ」


 そう言って、田部は端末に向き直ると書類の作成作業を続けた。


「そう、かな……」


「そうですよ」


「ありがとう。じゃ、悪いのだけれど、お先に帰らせてもらうね。田部さんもほどほどに」


「あ、海崎さん」


 田部は踵を返そうとした海崎を呼び止めた。


「うん?」


「ラーメン……。明日、どうですか?」


「そんな、気にしなくていいって。仕事だしさ。僕もみんな忙しい中、早退だなんてね……」


 三年前に比べれば、体調もだいぶ良くなっていたが、来宮を始め、まわりのスタッフは海崎の状態を気にかけてくれていた。そんな優しさに甘えることに対して、うしろめたさを感じつつも、海崎は休めるときは素直に休むことにしている。

 前触れもなく襲ってくる虚脱感や幻聴、それは存在するはずのない世界を目の前に現前させ、自分の心をあっという間に飲みこんでいってしまう。心が得も知れぬ他者に浸食され、そして奪われていくその恐怖は底知れない。


「いや、でも。その、えっとですね、一人でラーメン屋さんに入るのって、ちょっとハードルが高いっていうか。あの、駅前に新しいラーメン屋さんできたんですよ。知ってます?」


 駅前のロータリーには小さな商店街が広がっていた。高度経済成長期に最も栄えていたであろう、その小さな商業エリアは、街の人口動態と共に寂れ、今となっては営業している店はおろか、人通りもほとんどない。

 そんな廃れた街に、一軒のラーメン屋ができたことは海崎も知っていた。昼時になるとできる行列は、この街には少し異色の光景だったから。


「ああ、駅前のお店ね。うん、じゃ明日、帰りにラーメンでも食べよう」


「ほんとですかっ。良いのですかっ?」


「うん、僕もラーメンは好きだよ。わりとね」


「ありがとうございますっ」

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