第7話:お久しぶりです

 海崎景かいざきけい田部淳子たべしゅんこに向かって手を軽く振りながら中央給電指令所のオフィスを出ると、正面エントランスへ向かった。

 廊下に差し込む午後の日差しが柔らかい。窓枠の影は、床に長く伸びている。先ほどまで小学生たちがいたコンコースも今は静まり返っていた。


「海崎っ」


 靴音だけが響く広い空間で、聞き覚えのある声に呼び止められ、海崎は後ろを振り返る。


「海崎、だろ?」


 コンコースに小さくこだまするその声は、大学院時代、同じ研究室で学び、そして技術戦略研究所にも同期入所した神尾大かみおだいのものだった。宮部彩みやべあやに劣らず優秀な彼は、今ではグリーン・オルガネラの管理責任者という要職を任されている。


「神尾。久しぶりだな。なんでお前がここにいるんだ?」


 何年振りだろうか。メールでのやり取りは少なからずあったが、技術戦略研究所を去ってから、彼と顔を合わせた記憶がほとんどないことにあらためて気がつく。


「お前こそ、小学生を相手に何してんだよ」


 そう言って、神尾は学生時代に良くそうしたように、人懐っこい笑いを浮かべながら、海崎に駆け寄ってきた。


「見てたのか?」


 どうやら、神尾は小学生たちに混ざって海崎の説明を聞いていたらしい。


「なかなか秀逸な解説だった」


「いやいや、僕はもう専門じゃないし。でも、なんだか好奇心旺盛な子供らの目を見ていると、こっちも元気が出てくるな。自分も頑張らなくっちゃってさ」


「そうか。子供らが自然科学に興味を持ってくれるのは、本当にありがたいことだ。世界の存在が当たり前ではなく、それは果てしなく不思議な存在。当たり前を疑うその探究心こそが新しい発見につながる、なんてな」


 前提を疑い、自分なりに問いを立てること、その問いに答えようとすることによって情報の読解がより能動的になる。

 常に疑いを持って、本当はどうなっているのだろうと問いを立てる力。それこそが自然科学の探究において最も大事なことであると、海崎、神尾、そして宮部彩みやべあやの前で繰り返し言っていたのは、彼らの指導教官、北関東州立大学理工学部教授の新藤啓二しんどうけいじだった。


「問いを立てる力か。新藤先生、元気かな」


 新藤啓二は既に大学を退官していたが、名誉教授として今でも細胞生物学講座を受け持っているはずだった。海崎は体調を崩して以来、恩師に連絡を取っていなかった。

 海崎にとって、この三年はある意味で空白だ。例えば時間に本質という言葉に相当する何かが存在するのであれば、海崎にとって本質的な時間は三年前からほとんど進んでいない。


「相変わらずだそうだ。未だに現役で研究に明け暮れているらしい。海崎もたまには顔を見せてやれ。きっと喜ぶ」


「それは何よりだ。機会があったら連絡を取ってみるよ。それにしてもお前、何か用があってここに来たんだろ?」


「ああ、それだよ、ほんと。お前も分かっていると思うけど、技戦研にいると外部の情報が全く入ってこなくてね。ここ最近、停電が頻発してるって話を、今日の昼間に初めて聞いたんだよ」


「今日の昼間?」


「しかも、今朝の事案では東急線の踏切制御装置がダウンしたって言うじゃないか。電車がうちのせいで止まったっていうのは、わりに大きな問題だろう?」


今朝の踏切制御装置への給電トラブル。

彼女はほぼリアルタイムで知っていた。


『東急線の一部の踏切制御装置に電力送給が止まったって話よ。給電システムがミソラとリンクしてから、ちょとトラブルが多い気もするけど、そっちは大丈夫なの?』


 海崎の頭の中で、宮部の透きとおった声が反芻していく。


「お前、列車の遅延の話、昼間に聞いたって……」


 確かに技戦研は閉鎖的な部署だ。東亜電力の研究開発を一手に担う部署だけに機密事項も多く、学術的な内容を除けば、情報の出入りは極端に少ない。


「そうそう、ほんと縦割りだよな、この会社。そのくせ、緊急対策会議には、こっちの予定無視で招集するんだから。体が持たないっての、ほんと」


 縦割りと言えば、技戦研の内部そのものが上下関係を中心に運営され、横のつながりはほとんどない。今朝の給電トラブルを、宮部が知っていて神尾が知らなかった理由はそこにあるのだろうか。

 確かに宮部と神尾の勤務部署は異なっていたはずだ。


「いや、そうだったけか……」


「どうした海崎? なんか顔色が悪いぞ?」


 同じ職場でも顔を合わせない日の方が多いとは宮部も言っていた。


「あ、いや。大丈夫……だ。それで、その会議に呼ばれたのか。君も、何かと大変だな」


 海崎は痛み始めたこめかみを右手でそっと抑え深く息を吐く。上昇した心拍数が吐き気をもよす前に、小さな深呼吸を繰り返して胸を落ち着ける。


「本当に大丈夫か?」


「ああ、大丈夫。この通り早退の予定さ。どうも今日はダメだね。ほんと情けないのだけれど」


「いや、そんなことはない。休めるときに休んでおいた方がいい。ああ、そんな時に一つだけすまない。会議前に聞きたいことがあったんだ。その、結局のところ停電の原因は分からないのか?」


「そうらしい……」


 あるいは、宮部の言うとおり、ミソラ自体の問題という可能性は大きいのだけれど、海崎には腑に落ちないことがあった。

 一見、合理的な意見のように思えた宮部の提案は、シミュレーション解析の結果、それほど大きな効果が望めないことが分かった。もちろん、停電リスク回避に多少なりとも貢献するのだろうけれど、宮部ならば誤差範囲ほどの小さな効果をとは呼ばない。

 

 ――きっと別の方法を考える。


「グリーン・オルガネラ自体は全く問題ないんだけどね。やっぱり周波数の乱れは、給電システムのどこかにバグがあるんじゃない?」


「彩の考えもほぼ同じで、だからミソラが利用できるデータベースの拡大で対応できるはずだと言っていた。電力需要の予測精度が僕らが想像しているよりも悪いんじゃないかってさ。いちおう、来宮さんには提案書作って出してきたんだけど」


「彩って、宮部……。あ、いや」


 神尾の表情が一瞬だけ固まる。


「神尾?」


「うん、何でもない。そうか。まあ、それはもっともな意見だな。さすがあいつだ。俺からも来宮さんに提案してみるよ」


 そう言って神尾は手を振ると、靴音を響かせながらコンコースを抜けていった。


 違和感としての相違。それはまた、現実が編集された過去を含んでいる可能性を疑わせる。


 再び吐き気に襲われた海崎は、口元を左手で押さえながらトイレへ駆け込んだ。

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