第14話 逃げ出した男(鎧狩)

グロ表現があります。

***


シガミは、夜が明ける前から藪の中に潜んでいた。

まだ暗い紺色の空の下、ただ一心に、目を皿のようにして沢の周囲に気を配っている。


一人の男を待っていた。


毎日、日の出より少し前に、男は水を汲みに沢へ降りてくる。

握りすぎてかたくなった関節を動かす。ぼきりと骨が鳴った。

眼下を流れる水は、沢底の石までくっきり見えるほど、澄んでいる。

まだ青みの残る黄色の葉が、ぐるりと急流に揉まれ、泡とともに沈んだ。


山の稜線が白く輝き、薄明るくなった頃。肩に木桶を吊り下げた男が、ゆっくりと森から出てくる。


男は、キョロキョロと周囲を見回しながら、慎重に川原を進む。


シガミの潜む藪を男の目が通ったが、止まることはなかった。


男が屈み、桶を沢に沈めた。

丸い背中が、絞られた瞳孔にうつる。


「アオ、行け」


隣に控えていた犬は、ぱたりと小さく尻尾を振ると、軽快な足音を立てて、斜面をかけ降りていく。


狭い川原に、アオはすぐ男の元にたどり着き、激しく吠え立てた。


驚いた男は桶をめちゃくちゃに振り回し、飛びかかる犬を追い払おうとしている。


アオは下流に陣取って、そこを動こうとはしない。男は、蹴躓きながら、上流へ逃げ出した。


シガミは藪から抜け出し、男とアオの後を追う。


風を切る音が耳のなかで轟と渦巻く。


男の向かう場所は知っている。

ちょうど沢を横断するように突き出た岩に、縄を渡し、倒木を置いただけの簡単な橋がある。

そこは深く流れが速く、すぐ側は崖になっている。岩が丸く、つるりとすべりやすく、縄を掴んでいなければ、動物は流されてしまうだろう。


ぎゃんぎゃんと、勇ましく吠えるアオの鳴き声が近い。

どうやら追い詰めたようだ。


崖のすぐ下に、男の周りをぐるぐると回る犬が一匹。


縄は切れ、倒木など影も形も無かった。


自棄になった男は、手当たり次第に石を投げているが、アオは身軽によけている。

石が当たったところは、岩はくだけ、木に石の破片が刺さっている。


氏上は口を覆っていた襟巻きをずらすと、


「おうい!そこを動くなよ!」


声を張り上げて走り出した。

男は、ぱっと安心したような笑顔をシガミに向けた。


「ああ!助けに来てくれたのか!」


シガミは小刀を抜いて素早く男に走りよると、男の喉元に向かって剣先を振り上げた。

助けに駆け寄ってくれたはずの勇敢な青年が、犬ではなく自分自身に向かってくるのを、男は不思議そうな顔で見ていた。

 

鮮血が噴き上がる。


男の首から吹き出た血を浴びる前に、シガミは後ろへ飛んだ。


男は川原に倒れた。だくだくと流れる血が、丸い石を濡らしていく。男は首に手を伸ばし、自分の体から何かが流れていくのを信じられないという顔で、ひたひた確かめるように触り、わなわなと唇を動かした。


顔色がどんどん白くなり、その手から力が抜け、潤んだ目から熱が消えるまで、シガミは男に近寄ることはなかった。


***


とうに日は昇っていた。

事切れた男の衣服を剥ぐと、シガミは手頃な大きさの石を持ってきた。

両手を真横に伸ばしたかたちで石の上にのせ、荒縄で固定する。


氏上は、腰に吊り下げた鞘から分厚い刀を取り出すと、ためらいなくその腕に振り下ろした。


一度。 二度。 


すべて一撃で切り落とす。


ごろん、と切断された両腕は、指の先から肘辺りまで黒ずんでいた。

指先は鉤のように曲がり、木の根のような赤黒い模様が、固い鱗のように腕を覆う。


シガミは先ほど使った小刀に持ちかえると、切断した面から、皮膚と筋の間に刃を突き入れた。


ぐっと、鱗と筋肉を切り離すように、小刀を深く入れていく。


近頃、大勢で追うほどの鎧人は少なくなった。家族単位で鎧人、というのもめったに見なくなり、皆山奥深くか遠く北方へ逃れていったものと考えられた。


速く処理をしなければ。


山の獣が血の臭いに寄ってくる。めざといカラスなどは、すでに木の枝にとまっている。


がち、と何かが刃先に引っ掛かった。

鱗が、皮膚の深いところにまで食い込んでいたのだ。


「…刃が欠けたらどうしてくれんだよ」


氏上は横たわる男を見た。

当然、男が答えるはずがない。


氏上は深いため息をついた。


おどおどとして、へらりと笑って垂れるその目を思い出すと、腹立たしく、吐き気に似た嫌な感覚が腹の底からせり上がる。


シガミは、力任せにバリバリと厚くなった皮膚を剥いだ。

ぴちゃりと、肉片が顔に飛ぶ。

えぐみと、吐き気を催す甘い臭いが鼻に入り込んだ。

シガミはまたさらにはぁと息を吐いて、


「何すんだよ」


と苛立ち紛れに肉片を川に放り投げた。


***


男は、人の間で暮らせぬ病を患っていた。


男には病なのか、呪いや厄災の前触れなのか、はたまた罪を犯したからこうなったのか、何も分からなかった。


病を噂され、故郷から追し出されるように、北へ流れ着き、身寄りのないものがたどり着く土地でさえも、馴染めなかった。


強い力と引き換えに、どんどん黒く固くなる両腕と、他人の目を恐れた男は、山へ逃げ込んだ。

そんな中、若い猟師に出会った。

重い税を逃れてひっそり山中に潜んでいる者だった。


男は喜んだ。


このまま、人知れず数少ない同胞と共に暮らしていけたらと、その夢想だけが男の心を慰めた。


さあ、今日もまた一日が始まる。

下流には柵戸の民が来ることもあるから、姿を見せればなんと言われるか。


今日は、あの猟師は沢に来るだろうかと、ひそかに楽しみにしながら、男は伸びをした。

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