08 権利も資格も、ないとは思う

「いいんだ。私が、姉は間違っていなかったと知ることができた。もちろん、疑っていた訳じゃない。だが真実として私の前に現れることがなければ、いつかは疑念のようなものを持ってしまっただろう。そしてそのあとでやはり真実だったと判れば、消えることのない罪悪感を抱いて生きることになったろうな」

 女剣士はどこか遠くを見て語るように話した。

「感謝している。私を真実に出会わせてくれたこと。そして悲劇を――この場だけで収めてくれたことを」

「カチエ」

 シュナードは戸惑った。

「いや、俺の方こそ感謝をしないとな。聖水のこともだが、その……」

 思い浮かんできたものを巧く表現できる言葉が考え付かない。シュナードはうなった。

(この場だけで)

 彼女はそう言った。この場に悲劇があったと。

(……レイヴァスの死を悲劇だと、そう思ってくれてることに)

 「魔術王を退治できた」と単純に喜んではいない。彼女自身もレイヴァスを英雄の末裔と考えていたが、そのことを恥に思ってもいなければ、妙な逆恨みもしていない。彼と同じように、ひとりの少年が死んだことを――複雑な気持ちで――悼んでいる。

「なあ、カチエ」

 彼は神殿の剣士を呼んだ。

「聖水は、レイヴァスにも使えると思うか?」

「レイヴァスに?」

 カチエは目をしばたたいた。

「『魔術王』に効果があったか、という意味であるなら、否と言おう。強大な魔力を持って禁術を操ろうと、エレスタンは人間であったのだからな」

「いや、そういう『使う』じゃなく……」

 シュナードは頭をかきむしった。カチエは少し黙って、それから新たに、聖水の小瓶を取り出した。

「これで最後だ。好きなように使え」

「――ありがとさん」

 受け取ると、シュナードは礼代わりにそれを掲げた。そして再び剣を床に置くと瓶のふたをくいっとひねり、息絶えた少年を見つめる。

「弔い、とか、祝福、とか……そんなもん、俺にやる権利も資格も、ないとは思うが」

 ぼそぼそと彼は言った。

「神官は生憎、いないからな。俺で我慢してくれ」

 手のひらに聖水を受けると、シュナードはそれを少年の上に振りまいた。

「お前……長いこと、こんな寂しい場所にいたんだよな。たったひとりで。いや……ミラッサはちょくちょくときてたんかな」

 彼はしゃがみ込み、血のあとをきれいにしようと試みた。

 乾き出した血糊を拭うのは巧くいかないだろうと思ったが、すっかりどす黒くなったそれは意外にも、こぼした酒をさっと拭いたかのようにきれいになった。

(これも、聖水の力……?)

 その辺りのことはシュナードには判らない。ただ、もしかしたらそういうこともあるのかと。

「……ん?」

 シュナードはふと、手を止めた。

「何だ? この……」

 彼は目をしばたたいた。

「どうした」

「大丈夫ですか?」

 不審そうな声に、背後からふたりがそっと言葉をかける。

「いや、その」

 彼は後ろを振り向けなかった。彼の目はそれに釘付けになっていた。

「そんな馬鹿な、とは、思う、んだ、が」

 ごくり、と彼は生唾を飲み込んだ。

 これまでの、わずか十数ティムの間に起きた出来事の何よりも、それは彼の感情を動かしたかもしれなかった。

 剣が抜けたことより。レイヴァスやミラッサの変貌より。「魔術王」の魔術より。剣の力があったとは言え、彼が「魔術王」を倒したという事実より。

 驚きはあったが、怖れはなかった。

 あったのはむしろ――期待。

「傷、が」

 声がかすれた。この出来事がはじまったあの日から、多すぎるほどのさまざまな形で思ってきた「まさか」が、また彼の内に浮かんだ。

「俺の目がおかしいのか? 傷が」

 言いながら、シュナードは目をこすった。目に映るものは、変わらない。

「消えて……く」

 彼自身の傷だって、消え去りはしなかった。ずいぶん早くかさぶたができた、という感じだ。

 だが、消えた。

 まさか。

「――おい」

 彼はそっと、少年の頬に触れた。

「レイ……ヴァス」

 返ってくるはずのない答えを求めて。

「レイ、ヴァス」

 怖れるように、呼びかける。

 彼が怖れるのは答えがないこと。それとも。

「ん……」

 動いた。少年の身体が。聞こえた。かすかな声が。

「レイヴァスっ」

 シュナードは彼を抱き起こすようにした。

「しっかりしろ!」

「ちょ、ちょっと、シュナードさん?」

「何をしてるんだ。彼は、もう」

「う……」

 かすかな、うめき声がした。

 まさか。

 有り得ないという思いと、もしかしたらという期待。

「ああ……」

 吐息とともに、少年の黒い瞳が――開かれた。ぎこちなさそうに手が動かされ、黒髪をかき上げる。

「何、だ……? とてつもなく、身体が、重い……」

「レイ――」

 シュナードはそのまま、ほとんど反射的に、少年を抱きしめた。

「レイヴァス!」

「な……なにを、する」

 戸惑うような声。

「何だ。よせ、やめろ、馬鹿者。放せ」

 少年は戦士の抱擁から逃れようとしたが、もともと腕力では敵わない上に、いまはあまりにも弱々しかった。

「お前は、変態か!」

 力で敵わない少年は、口撃を試みた。

「そういう、趣味でもあったのか。それにしたってこんなところで、こんなときに……頭が、おかしいのか」

 続けざまに放たれる言葉に、シュナードはくくっと笑った。

「お前だなあ」

 彼は呟いた。

「レイヴァスだ」

 これはレイヴァスだ。彼には確信があった。

 子供らしくなく冷笑的で、でも、子供。

 大人びた態度も、影に背伸びを感じさせる。

 魔物の襲撃なんて怖くはないと言い張り、人々を守ろうとし、魔術王の復活を阻止するために当てもなく英雄の血筋を探そうとした少年。

 彼の知る、レイヴァスだ。

「何を言っているのかさっぱり判らない。――いいから放せ!」

 力の入らない手で、レイヴァスは闇雲にシュナードを押しのけようとした。

「ああ、判った、判った。悪かった」

 戦士は彼を解放した。

「わあ……」

 ライノンが目をぱちくりとさせる。

「これは、驚いた」

 カチエも呆然としている。

「何だ。お前は、神殿の犬じゃないか」

 レイヴァスはカチエを認めて片眉を上げた。

「またそういうことを……いや」

 シュナードは息を吐いた。

「いまだけは、許す」

「何だと。何を偉そうな口を」

 苛立った口調。

「いったいどういうことだ。僕はどうして……お前が」

 それからはっとした顔を見せる。

「お前が、スフェンディアを抜いたのは……悪夢か」

「まあ、悪夢みたいな、もんかもな」

 彼は頭をかいた。

「生憎と現実だが」

 スフェンディアは封印の岩から抜かれ、彼の横に――「英雄の剣」にはいささか相応しくないことに――転がされている。

「覚えてないのか。そのあとのことを」

「――不愉快だ」

 ぼそりと呟きがきた。一瞬、シュナードはぎくっとする。

「何か、重大なことが起きたな? その間、僕は間抜けにも意識を失っていたと言うのか?」

「……そう、だ」

 彼は答えた。

「シュナード」

 カチエの、何か言いたそうな声。彼は振り返り、そっと首を振った。

「不愉快だ。いや、理不尽だ」

 キッとレイヴァスはシュナードを睨んだ。

「何があったんだ。説明しろ」

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