07 終わっちまった

「ライノン殿。手を」

「あ、はい」

 言われてライノンは赤く腫れた手のひらを上に向けて差し出した。カチエが聖句らしきものを唱えて聖水をそこにたらした。青年は一瞬びくりとしたあと、ほうっと息を吐いた。

「助かりました」

 有難うございます、と彼はふたりに向かってお辞儀をした。

「痛かっただろう。よく我慢したな」

 思わず子供に褒めるように言った。ライノンは首を振った。

「シュナードさんの痛みに比べたら、これくらい」

「ん? 俺は別に、こういうのは慣れて――」

「いえ、そのことだけではなく」

 青年はうつむいた。

「……ああ」

 そういうことか、とシュナードは頭をかいた。

「気にすんな」

 彼はそれだけ言って、笑ってみせた。

「だがそのままにもしておけまい。こっちへ」

 カチエは嘆息して彼を手招いた。

「ん、何だ?」

「ここと、ここだな。一旦、鎧を外せるか?……よし、じっとして」

 カチエは布を取り出すとそれに聖水を染み込ませ、慎重にシュナードの傷口を拭くようにしていった。一瞬シュナードは顔をしかめたが、それは「傷口に触れられたら痛むはずだ」という考えがそうさせただけで、実際には不思議と――それとも当然のことながら――痛みはほとんど覚えなかった。

「ほら、こんなところだろう」

 剣士でもある彼女は治療も手慣れたものだ。ささっと当て布をすると手早く傷口を保護してしまった。

「助かった、有難うよ」

 礼を述べながらシュナードは革鎧を再装着した。

 負傷していたことを忘れていた訳ではなかったが、戦闘の高揚感が痛みを感じにくくさせるものだ。彼自身、何度も経験がある。

 だがもちろん、そのまま痛まないでいてくれることもない。ここまで気分が落ち着いたら、とっくに激痛を覚え出していそうなものだった。

「血はとまっているようだね? 意外と浅かったということか」

 意外そうに彼女は呟いた。

「これはあくまでも応急手当てだからね。ライノンの火傷はあれで大丈夫だろうが、本来、神官の癒しは当人自身の治癒力を引き出したり手助けしたりするもので、根本から治しちまう訳じゃないんだから」

「ああ、大したことはないとたかをくくって、あとで苦しむのはご免だ」

 手を振って彼は言った。

「それにしてももっと深くやられたと思っていたよ」

 余程意外だったと見えて、彼女は繰り返した。

「俺も思ってた」

 彼は聞きようによってはとても間が抜けて聞こえるだろうことを言った。カチエは片眉を上げる。

「いや、何でもない」

 笑って彼はごまかした。

 傷を負ったとき、全く痛みを感じなかった訳ではない。だと言うのに、あとになれば忘れていた。

(考えてみると、さっきの)

 いつ痛みが消えたのか。心当たりのようなものがあった。

(だが)

(妙な白い世界にいたわずかの間に痛みが癒えたようだ、なんて話は)

(妙に神秘がかってるようで気に入らん)

 あのときの「気配」は何だったのか。

 考えられることはふたつある。どちらも現実主義の戦士としては納得しがたいが。

(ひとつ。スフェンディア)

 剣が意志を持つなどとは奇怪極まりなく、珍妙で素っ頓狂で、信じがたい。

(ふたつ。……アストール)

 とっくの昔に死んだ人間が声をかけてくるなど奇怪極まりなく、珍妙で素っ頓狂で――。

(まあ、万一にもご先祖様なら)

(そういうことも、あるんかね)

 反射的な否定をやめて、彼は考えるだけ考えてみた。

 何にせよ、あの「気配」が彼を助けてくれた。そのことは間違いない。

 彼はそっと剣を撫でた。

「しかしこいつは、どうしたらいいんだろうなあ」

 ううむ、と戦士はうなった。

「どう、って」

 ライノンがまばたきする。

「シュナードさんが持っていればいいじゃないですか」

「いや、だが、英雄の剣だぞ?」

「あなたにはそれを持つ資格があるだろう。何しろアルディルムの血筋なんだから」

「ど、どうなんだろうな」

 彼は頭をかいた。

「どうもこうもないですよ。剣を抜けたんですから」

「た、たまたまじゃないか? 何て言うか、俺がたまたま最初に抜こうとしただけで、ほら、もしかしたら土台が緩んでて」

「レイヴァスさんが手をかざしたときは明らかに反応があったじゃないですか。――剣は、拒絶した」

「ん……」

 ライノンが言いにくそうに言ったのが何だか申し訳なかった。

(気を遣わせてるな)

 彼は笑みを浮かべて見せた。

「まあ、そうだな。剣が抜けたってことは、俺にもほんっのちょっとはアストールの血が流れてる可能性は、なきにしもあらずと言うか、だな」

 認めきれなくてシュナードは曖昧に言った。

「流れてますよ! 大量に!」

 ライノンは両の拳を握った。「大量」という表現にシュナードはむせた。

「濃いか薄いかという話になれば、当然、薄いだろうね」

 カチエが肩をすくめた。

「だがこの時代に遺った血は、仮に一、二世代の差があったところで似たり寄ったりだろう。だいたい、証明もできない。その剣以外には、ね」

「証明したことになるんだとしても、別に俺自身は証明する気なんざなかったし……ああ、その、だな」

 どう言ったらいいものか、シュナードは考えた。

「最初は混乱した。信じられなかった。いまでも納得したとは言いがたい。だが、まあ、もしかしたらそういうこともあるのかもしれんと、それくらいは認めてみてもいいかもしれん」

 どうにも「認めた」とは言えぬ調子でシュナードは言った。

「……大人の対応、ってやつだ」

 ぽつりと呟く。

 その言葉に皮肉めいた笑みを浮かべたであろう少年はもういない。

「終わった、な」

 彼は誰にともなく言った。

「終わっちまった」

「シュナードさん」

「意外とあっけなかった、と言うんかね」

 口の端を上げて、ふたりを見る。

「町のような大騒動にはならなかった。ミラッサの目的が、俺とレイヴァスをここに向かわせることだったんなら、あのあとは追い立てる必要もなかったんだろうが」

 そう言って彼は灰の塊を見た。

「――可哀想に、ってのも何だか的外れな感想だと思う。あいつは何とか平穏にやってるこの世の中をぶち壊そうとしてくれてたんだし、な。だが気の遠くなるような長い時間、主の……いや、惚れた男の帰還を待ち続けるってのはどんな気持ちなもんか」

 彼は首を振った。

「女の気持ちは、判らんな」

 そんなふうに言って肩をすくめた。

 人間の女とは違っても、彼女はある意味、間違いなく「女」であった。

 それが魔術王であろうと、契約を結んだ相手であろうと、愛情があったからこそ彼のために生き続け、何でもしたいと思い詰めた。

 彼は女心には疎いが、女という生き物が恋のために視野狭窄めいた判断をすることがあるのは知っている。ミラッサの行動は契約とやらのためもあっただろうが、それだけではあんな言葉も態度も、表情も出てこないだろう。

「私も女だが」

 カチエは口の端を上げた。

「判る、とは言いづらい。そのような状況に陥ったことはないからな」

 だが、と彼女は続けた。

「大事な人物の、失われた名誉を取り戻そうと、無我夢中になる気持ちなら判る」

「カチエ……」

 彼女の姉の話を思い出した。魔術王の復活を予言し、人々に迫害されたという占い師の姉のため、カチエは神殿に協力をしてきたと言う。

「あんまり俺ぁ、姉さんの役には立たなかったかね」

「え?」

 彼が頭をかいて言えば、女剣士は意外そうな顔を見せた。

「どういう意味だ?」

「いや、姉さんの名誉を回復するには、魔術王の復活が世に知らしめられなくちゃならなかったんじゃないか?」

「おかしな言い方はよしてくれ」

 カチエは顔をしかめた。

「姉の名誉のために、世の中の平和が蹂躙されていいなんて思うはずがない」

「ああ、悪い。そういうつもりじゃなかったんだ」

 彼は慌てて手を振った。

「判っている」

 彼女も気を悪くした訳ではなかったようだ。少し笑みを浮かべているところを見ると、半ばからかうような台詞――カチエなりの軽口で、場の雰囲気を変えようという意図だったのかもしれない。

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