最終話.キャンバスの上の君は歌う

音楽が好きだ。



好きだけど、僕はそれを操ることができない。深い意味はなくて単に楽器が弾けないというだけなんだけど、ときにその事実が僕を悩ませる。


偶然口ずさんだ音符の並びに「これは売れる」と自己評価を下しても、それをかたちにすることができない。


もしもピアノが弾けたなら。

存在しえない理想に想いを馳せる時間が意味もなく僕を苦しめる。


でも、もしピアノが弾けたとしても僕は別の事で苦しみ続けるのだろう。高くそびえる理想に手が届きそうにないだとか、思った音楽が作れないだとか、一人で勝手に思い悩んであがき続けるのだろう。


それはきっとあの二人だって。作家と画家の卵ならなおさらのこと。

僕たちは自由を得たかわりに、納得できなくなってしまった。

もっと良いものが作れるはず。底の見えない欲望が肥大化して挙句の果てには他者を巻き込む始末。

妥協を飲み込む欲を正当化することで存在意義を実感できるのだと。



モデルになるのも楽じゃないな。



*



窓の外を木枯らしが駆け抜けていく。それに並走する枯葉が夕焼けのなかに溶けた。

文化部に所属する三年生は毎年この時期に去るのだと、顧問の泊洦舎ささなみのや先生から引退勧告を受けた僕たちはまるで遺品整理をするかのように後輩たちが帰ったのを見計らって再びこの部室を訪れた。


目の前には手際よく自前の資料集や膨らんだクリアファイルをバッグに詰め込む美咲さんの姿がある。二年と半年ちょっとを過ごしたと言えば聞こえはいいかもしれないが、せいぜい僕がこの部屋にいた時間は七百四十時間かそこらだ。


後ろのロッカーには古紙や古本が山のように積まれ、その山のもっと奥―到底手の届かないところ―には埃まみれのタイプライターらしき機械があった。誰だろう、こんな代物を持ち込んだのは。


その埃まみれの機械を見つけた僕は、ふと数か月前の出来事を思い出した。


「そういえば、僕が美咲さんのガードマンになった原因の小説は完成したの?」


「さあね。今となっては私にも完成したのかどうかわからないわ」


彼女のふりと言わずガードマンと形容したのはきっと僕の身の上が変化したからだろう。


花火大会の日。

美咲さんからキスを報酬に嘘の彼氏役を解雇されたこと。解雇通知を受けた直後の僕が京華さんを本当の彼女と認めたこと。

前者は僕と美咲さんだけの機密であり、後者は美咲さんが知る由もない。


美咲さんがこのストーリーを一からつくりだしたと言うのなら話は別だけど。


そういえば、と美咲さんは続けた。


「京華さんとはあのあとどうなったの?」


いつもクールな美咲さんにしては珍しく、わかりやすいくらいに微笑んだ。


“あのあと”というと、花火のあとに僕と京華を残して美咲さんがひとりどこかへ行ってしまったときのことか。


「特にこれといってめぼしいことは起きなかったかな」


「そう?京華さんから何か言われなかった?」


言葉に詰まり、不自然な沈黙が生まれた。こんなの、大変なことが起きましたと宣言しているのと同じだ。

目を泳がせる僕を見て、ふふっと微笑む。


「ついにこの日が来たと思うとなんだか寂しくなるわ。ねえ、要くん」


僕は目を丸くして彼女の顔を見つめた。


「私には結末が最初からわかっていたの。この物語がハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか、も」


美咲さんの目は僕をまっすぐにとらえていた。相も変わらずプリンターの機械音がシリアスなBGMを奏でている。


この始まりの場所で物語は終わりを迎える。

事件の犯人が再び現場に現れるように。僕たちもまたこの部室で、四月のあの日のように。


んでしょう?『ワタシのことを忘れないで』って」


胸の奥、心臓を強く掴まれた。

痛みではない、けれど苦しめられるような、そんな違和感だった。


「なんでそれを……」


美咲さんが、あっけにとられた僕とは正反対に涼しい表情で淡々と話す。


「詳しいことは私もわからないけど、でも京華さんらしい告白だと思うわ。絵を描くのが好きな彼女の最大限の表現。私と同じエゴにまみれた人間……。私はね、作りたいものを作るためなら手段を厭わないの。自分一人で完成させられないなら、誰かの協力を仰ぐ。合理的で当たり前だと思わない?」


「『協力を』って、もしかして全部美咲さんが仕組んだとか?」


平静を装っているが僕の口から溢れる言葉は震えている。彼女なら本当にそれができるのではないか。


「半分不正解。シナリオはほとんど私が考えた通りだけど、あとは京華さんのアドリブよ」




僕が美咲さんの彼氏役になった理由は、彼女が小説をつくるための風除けだと思っていた。実際その説明を受けて承諾した訳だけど、本質はもっと複雑なものだった。


書きたかったストーリーの主人公は京華さんなのだ。


京華さんが想定外の面倒事に巻き込まれないように、主人公として行動できる環境を整えるためにボディーガード役を買って出たのが美咲さんだった。僕らは知らないうちに―なにも知らないのは僕だけだったが―原稿用紙の上に集まっていたのである。


仮の存在であれ美咲さんの彼氏になったと浮ついた僕はただ監視されていただけなのだ。


「要くんならきっと京華さんのこと受け入れてくれると思ったわ。同じ境遇の二人だもの、そうそう邪険にはできないはずよ」


京華さんは絵のモデルを、誰かの存在を欲していた。それはきっと、美咲さんで穴を埋めていた僕も同じだ。結局は自分のためだけど、満足するためにはほかの誰かが必要だった。

同じ志を持つ人間が惹かれあう。これだけは現実も小説も関係ない。


「二人には感謝しているわ。私のわがままに付き合ってくれて」


「“付き合う”ってそっちの意味だったんだね。いろんな本を読んできたけど、こればっかりはわからなかったよ」


溜飲が下がり、僕はすこしだけ表情が緩んだ。



窓の外はいつのまにか黒に染まり、鏡のようなガラスには二人の男女が映っている。やっぱり美咲さんは絵になると、窓枠で囲われたキャンバスに見惚れているとスマートフォンのバイブレーションが静かに音を立てた。


メッセージの発信源は京華さんだった。


「要くんの大事な彼女がお呼びよ」


「ねえ、美咲さん。最後に一つだけ。……エンドロールの向こうには何があると思う?」


部室を後にしようとドアに手をかけた美咲さんが長机の上を指差した。


「私の答えはそこに書いてあるわ。要くんなら言いたいことがきっとわかるはず」


美咲さんはじゃあね、と言って僕を残して行ってしまった。

見放されたかと、ため息をついてスマートフォンを起動させる。京華さんから一緒に帰ろうという旨の文だった。

そのメッセージを読んでハッとした僕は勢いよくドアを開けて、空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「美咲さん!」


僕の声が誰もいない廊下に大きく反響する。振り向いた彼女の表情はよく見えなかった。


「京華さんが三人で一緒に帰らないかだってさ」


すこし間をおいて返事が返ってくる。透き通るような声だ。


「昇降口で待ってるわ」


その答えを聞いて僕は安心した。

こんな夜道を帰るなら一人より二人、二人より気心の知れた三人だ。


僕一人だけでは広すぎる部室。

きれいに整理された長机の上に残された煤けた手帳、もといプロットソフトが置いてあった。置き土産としてはかなり難解で、そして美咲さんらしい。ページを一枚一枚捲っていくと紙の上には膨大な数の文字が座っていた。


事細やかに、鮮やかに。


エンドロールの向こうには何がある?

それはエンドロールがあって初めて成り立つ問いなのだ。最初からスタッフロールがなければ、ストーリーは永遠につづく。


誰かが手を加えなくても、物語は自ら物語を紡いでいく。

事実は小説よりも奇なり。



立ち振る舞いは僕よりも大人びていたけれど、考えていることは僕らとおんなじだ。絵を描く人も、小説を書く人も、音楽を聴く人も。見えない何かをつくりだし、それに心酔する。



思いをかたちにすることに生きがいを見つけた彼女が、最後までかたちにできなかった―かたちにしなかった―創作。


キャンバスの上の君は歌う。


そう名付けられた僕らの一ページは、いつまでも白紙のままだった。





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キャンバスの上の君は歌う 背里沢 遊 @e_nozomi

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