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「キャンバスの上の君は歌う」あとがき

 アイデアを思い付いたのがすこし暖かくなった三月。そこから十九か月の歳月を経てこの「キャンバスの上の君は歌う」が完成しました。もともと「ホワイトアディクション(白い中毒)」というタイトルでストーリーを考え、内容もドロドロの血生臭い恋愛ものの予定でした。それがいまの「表現」に関するものに変化したのは紆余曲折あったのですが、正直自分自身でも明確なターニングポイントは覚えていません。少なくとも一話目の公開時にはすでにターニングポイントを通過していたはずです。一年と半年ほど昔の考案当初から変わっていないのはせいぜいキャラクターの名前とその関係性くらいです。


 この小説でやってみたかったのが文字だけ作品特有の「名前の交差」でした。文芸部部長・鏑木美咲(かぶらきみさき)と美術部部長・三崎京華(みさききょうか)の「ダブルミサキ」を重ねることであえてキャラクターを個別に特定させずに二人を「作品を作るためにモデルを必要とする人間」、「自分ではない誰かを思う行為のイメージ」として捉えてもらうのが本意です。ちなみに文中の鏑木美咲の一人称は「私」に対して三崎京華はカタカナで「ワタシ」と設定しています。


 明確に誰がモデルになったかの言及は話中にちらほらと点在していますが、そのなかでも鏑木美咲が書こうとした「須藤要を偽の彼氏役に据えて、三崎京華を主人公にした小説」はまさしく皆様が読んでくださったこの「キャンバスの上の君は歌う」なのです。
「彼氏がいる身分」と「彼氏を作ろうとする身分」を「ミサキ」というフレームで同じ瞬間に体感した結果がこの作品です。

では、最終話の「白紙の一ページ」は何だったのか?それは須藤要の目線に立った時の当事者意識の有無です。
本当は創作の下書きが書いてあったけど、須藤の主観ではないため形骸化していた。あくまで展開は全面的に女子の立場に立ったもので、須藤は鏑木美咲のつくる作品ではなく素の人格に意識が集中していたと思っていただければこの後出しじゃんけんのような解説もスムーズに理解いただけるかと思います。


さいごに、この作品を多くの方々に読んでいただいたこと、また、カクヨム公式より特集に組み込んでいただいたことにたいへん感謝しています。
この特集入りがなかったらおそらく早い段階で放置、未完のままだったはずです。現に更新まで長い期間があいている話もあります。

ずっと書こうとしていたものが完成したことやそれが評価されたこと。
この喜びを胸にまたマイペースに書いていこうと思います。
それでは、またいつか違う作品のあとがきが書けることを願っています

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