レオと画家

 人はいつから死者を埋め始めたのだろう? それも土にではなく、石で固めた小さな部屋に。時の流れからすべてを守る防波堤になろうとしたかのように、その石室もまた悠久の日月に耐え続けた勲章を悪臭や碧黴として飾っていた。階段を一段ずつ降りるたびに、重力の井戸に囚われた古い空気の層が厚くなる。反響する靴音を聞くものはいない。今はまだ。

 レオノーゼ=グロウアイグは背の低い剣士だった。それがコンプレックスだった時もあれば、呑み込んで受け入れていた頃もある。子供の頃は周囲から足蹴にされるようにして育った。手足が伸びてからは、低い位置からの斬撃で数多の致命傷を創作するのに役立った。自分を脅かしたすべての敵を滅ぼしてから、彼は吸血鬼ハンターとなった。人間の敵は、もういない。

 旅装のレオは、しかしさほど汚れてはいない。この古い石室のある地域は掃討作戦が敷かれてから久しかったし、再び吸血鬼の隆盛を赦したという話もない。奴隷馬車をいくつか乗り継げば誰でも来れる、田舎町の遺跡に重装備で来る必要などあるだろうか。野盗ごときの剣では、レオの一瞬に嘴すら挟めないのだから。

 最下層の床は、濡れていた。聖教会から支給された武装神官用のなめし革の靴が結露水に汚れるが、グロウアイグの家系は歴代いずれも汚損を気にしない。胸元に輝く殺戮の紋章だけが誇りであり栄光であり、卑しい虚飾なのだ。

 階段の先の扉は、施錠されていなかった。すでにわずかに開いていたその扉をレオはとん、と片手で押す。なんの抵抗もなく開いた。途端、思い出したかのように毒の匂いがする。吸い続ければいつか死に至る着色料はいくつかあるが、これはその中でも毒性の強い“裏切者の虹”と呼ばれる絵具であることを、レオは友人から聞きかじって知っていた。その友人は、いま、石室の最下層、かつて刑死場だった牢で、壁に絵筆を走らせているところだった。


「楽しいか、ファインベル。誰も見てくれない絵を描いて」と狩人は問うた。

「楽しいさ、レオノーゼ。何物にも代え難いよろこびだ」と絵描きは答えた。


 ファインベルは、肩をすくめてパレットを片手に振り向いた。休息日に遊ぶ約束をした息子に職場まで押しかけられた父親のような、少し困った顔で。剣士らしいのは、頸動脈にまっすぐ走った斬傷跡と趣味に似合わず若い坑夫のような骨相くらいのもので、その指先は鍵盤奏者のように白く細く長く、腰にはもう長剣などどこにもなかった。


「ハンターだった君が、こんな地の底で何をしているんだ? おかげで僕は何匹も狙っていた吸血鬼を狩り損ねたよ」

「まだ狩った鬼の牙を集めているのか。趣味の悪い男だ」


 ベルは呆れたように言って、壁画の続きへと戻る。絵筆が壁を横断するたびに、絵具の飛沫が飛び散った。


「君こそ、こんな生ぬるいところで、油彩か。少しは日を浴びた方がいいな」

「いい湿気だろ、油がよく滑ってくれる。涙で滲んだみたいに」


 壁には、それこそ隙間なく、抽象的な色彩が爆発傷のように飛び散り、それが四方に張られた無限灯火に照らされ妖しく揺らめいている。自分を見守る炎から、自由という概念だけ抽出して、壁面になすりつけているようだ――晩年、わずかに詩人としての作品をいくつか残すことになるレオノーゼは、そんな印象を抱いた。


「なぜ僕が来たか、わかるかい、ベル」

「俺の絵を見に来たんだろう。昔、戦場で見せてやったな……俺が描いたおまえの似顔絵はまだあるか?」

「棄ててしまったよ。間違えて……もう、何年も前のことだから」

「自分の顔を見るのが嫌だったんだろう。おまえはずいぶん、父親に似てきたからな」


 ベルは洞窟が谺を響かせるように笑った。


「俺もだよ。まったく、嫌になるもんだな。お互いに」

「ああ……だから僕は、もうこれ以上、嫌な思いをしたくないんだ」

「そのために、おまえは剣を振るうわけだ。飽きもせず」

「望んではいないさ。ただ、敵がいる。宿命のように、時間のように。押し寄せてくる……」


 レオノーゼは、愛剣の柄を握った。






「なぜ、吸血鬼になったんだ。ファインベル=ミッグリゴート」





 画家はしばらく背中を向けて黙っていた。やがて炎に静かに照らされながら答えた。



「俺には神様が必要だった」

「……なんだって?」

「わかるだろ、レオ。神様だよ、神様」気の利いた、何度も話した熟練の冗談を吐いているように笑いながらベルは言う。

「誰にだって必要なんだ。おまえにだって、俺にだって。みんなに必要なんだ」

「僕たちに神様はいない。人間どもの神は、僕らには微笑まない」

「そんなことは知っている。だがそれでも、俺たちには神様が必要なんだ。……おまえの神様は、その剣だろう。

 悪徳と無垢。すべてを忘れ、敵を殺し、言い逃れを吐き散らかす。それがグロウアイグ家が祀る父と母の名前。おまえが殺した親父が縋りつき、おまえもまた、その血まみれの人生に囚われている」


 レオは鼻で笑った。


「罵倒し挑発して機先を制する。狩人としての本能は顕在らしいね、ベル。だが、僕には効かない」

「聞けよ。俺だって、おまえが討手になるなんざわかってた。いつ来るのかも知っていたし、俺が『血を飲んだ』時、どこにいて何をしていたのかも聞いてるぜ」

「……ゾットアストめ。余計なことを……」

「孤児を引き取ったらしいな」

「どうせ、悪評しか流れて来ないんだろう、僕の話なんて」

「ああ、だが、まんざら風評ばかりってわけでもないだろう」指揮棒のように絵筆を振り、時々パレットの絵具を調整することも忘れずに、ベルは続ける。

「まだ手足も伸びきっていない女の子を、一流の剣士に育て上げようとは、残酷なんだな、レオノーゼ」

「僕だってそうされてきた。同じようにして何が悪い。それに……どうせこの世は力でしか生きていけない。強くなければ生きていけない世界にしたのは、人間たちの神様だ。なら、そのルールに則って、お望み通りに敵を撃滅する。君も僕もそうやって生き延びてきたんじゃないか。これからだって、そんな世界が続くのさ」

「おまえの親父も同じ事を言っていたぜ。自分の間違いを露とも疑わず、そして敵を薙ぎ払うだけの剣の味を忘れられずにな。そういう神様が、あの人の脳の中にはいたんだよ、レオ」

「僕は違う」

「なぜ」


 レオは言葉に詰まった。姿勢はすでに抜刀の低空にある。すでに筋肉が居合いを組んでいたことに、額から汗が流れて初めて気づいた。

 ベルはくつくつと笑っている。


「それがおまえの神様なんだよ。育てられるっていうのは、そういうことだ。だが、俺は、俺は自分の神様が欲しかったんだ」

「自分の、神……」

「いいも悪いもない、ただ、欲しかったんだ。人間の味方をする神様の奴隷にはなれないし、ただ斬撃の生霊にも俺はなれない。それは、俺の『血』にはなりえない。満足できない……だから、身も心も捧げたんだ」


 両手を広げ、ひたすらに、終わることもなく描き続けている壁画を示して、


「絵を描いている時だけ、生きていると感じる。芸術と嫉妬が渦巻くどこまでも底の知れない残酷な神だけが、俺を祝福してくれる。こんな俺を……」

「そのために、吸血鬼になったのか。絵を描くために……」

「そうとも、そのために、……俺はおまえの友達なかまをやめたんだ。レオノーゼ」


 どうする、と鬼は問う。


「俺を斬るか。見ての通り、丸腰だ。徹底的に抗戦すると言いたいところだが、……帯剣したおまえに勝てると思うほどバカじゃない。俺はさほど優秀な吸血鬼じゃなくてね。血の吸い方もわからん」

「……餓えていないのか?」

「餓えるさ……でも、満たし方はわかってる」


 そう言って、俺はおまえの友達じゃないと言った男が、レオに笑った。友達のように。

 おまえが決めろ。

 そう笑っていた。





 レオは……


 剣の柄から、手を離した。


 それをベルがじっと見ている。


 呟く。




「埋めてやる」

「…………」

「殺しはしない。だが、君を野放しにはできない。無垢と悪徳? いいだろう、乗ってやる。その神にふさわしい残忍な結末をプレゼントしよう。ここから出たら、この遺跡の出入口を爆破する。炭坑跡はまだまだある。爆薬には困らない。君は永遠に餓えながら、死者すら足を踏み入れられないこの墓標で懺悔するんだ。何もかも見通しが甘かった自分自身を……」


 ベルは、頷いた。理解を示して。

 そして悲しそうに言った。


「おまえこそ、甘いな、レオ。でも、ありがとう。俺にはここでいい。俺には光なんていらない……欲しかったものは、ここにある。ここだけで、充分だ」

「感謝なんかされたくない。君は僕を呪うんだ。すべてを奪った僕を……僕の神を」

「俺の肉体は永遠の牢獄に繋がれるのかもしれないが、魂までそうはいかない。ま、信じてみるさ。自分で選んだ神様だしな」


 レオは踵を返した。かつて友だった男に永遠の別れを告げる背を向けて。

 無限の闇から、虹色の毒の匂いとともに、鬼の呼び声がする。














 ――おまえも、自分の神様を見つけられるといいな。レオ――






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