地獄に見つけた、戦士の答え


 波打ち際には死体が転がっていた。女だ。俺の聞いていた話では、打ち寄せられた死体は潮の流れには勝てないはずだった。だが、その死体はいつの間にか消えていた。首を伸ばして探してみると、沖の方で揺れていた。不思議な潮もあるものだ。

 なぜ死んだのかは、わからなかった。






 旅は終わる気などしなかった。道はどこまでも続いていたし、身を隠す闇にも簡単にありつけた。

 グロリアはすっかり油断していて、いささかはしゃいでいるようだった。もうまばゆい金髪を隠している帽子は風に飛ばされて追いかけもしなかったし、まるで父親を見るように安心しきった顔でこちらを振り返って笑っていた。大丈夫だよ、とその唇が呟く。全部うまくいったんだよ、と。そうだったらいいとアレックスも思う。


 旅――たった一年足らずの旅だったが、アレックスは身も心も擦り切れていた。あれから何人の仲間を斬っただろう。自分の討手として駆り出されたハンターたちを一人残らず屠ってきた。悪を祓うための剣、そんな夢見事を振りかざすつもりもなかったが、それでもかつての戦友たちの死に顔はアレックスの心臓に深く刻み込まれて消えなかった。そう、誰だって死にたくなんかないのだ。グロリアが生きようとしたように。


「もうすぐだよ……この森を抜けたら海岸線。潮のにおいがする……」

「そうか? 俺にはなにも感じないよ」

「もう、情緒がないなァ。……もうすぐ旅が終わるんだよ、アレックス。もうすぐ……海岸にある難破船が本当に修理されてたら、それで、あたしたち……」

「ああ、きっと、それで、どこかの島国に辿り着くんだ。そう、極東には黄金の国があるらしいからな。そこまで行ければ……」

「うん……そこまで……」


 二人とも本当はわかっていた。そんな国などなく、海辺で待ち受けているのは、船ではなく、訪れるはずだった運命なのだと。





 海賊船は、約束通りそこにあった。燃焼機関を積んだ小型船だ。襲撃されたのは本当らしく、あちこちがガラクタ同然の鉄板で補強されている。

 男はそんな船を見上げもせず、焚き火をして、釣ったのか串刺しにした小魚を焼いていた。ご丁寧に、三人ぶんある。


「おまえは……」

「探したぜ、アレックス。だが、いつかは必ず海に出ると思ったよ。内陸であれだけ殺せば行き先なんて減り続ける。もう、おまえのツラを知らん保安官なんざほとんどいないくらいだ」

「ヴィクシミュ……」

「さて、と。俺もおまえを追いかけ回して疲れたから、ゆっくりしたいんだが、そうもいかない。俺さえ越せば、いよいよおまえらは自由の身だからな。吸血鬼の王女と裏切りのハンター。ははっ、おまえらを狩れば俺は死ぬまで剣聖だろうな。なあ、グロウアイグ……ヴァルゴの血はどうだった?」


 ヴィクシミュは立ち上がった。

 険しい旅だったのは嘘ではない、おそらくアレックス以外の裏切り者を狩りながら着たのだろう、焦げ茶色の外套は返り血と擦過傷で今にも千切れ飛びそうだった。その凄惨さに、アレックスの方が絶句するほどだった。


「罪状は……何がいいかな。なんでもいいか、いまさら。鬼を狩るのに理由はいらない。俺は人間、鬼じゃない」

「アレックス……あたし」


 一歩、何か固い決意を浮かべた顔で踏み出そうとしたグロリアをアレックスは片手で制する。視線は男から切らない。


「あたしは……」

「いいから下がってろ……」


 ヴィクシミュが砂をかけて焚き火を消す。喰われもしなかった魚が埃にまみれて倒れる

 すらりと、腰に帯びた長剣を抜いた。無銘の愛剣は錆びついて汚物めいたくすみ方をしていた。ヴィクシミュはそれでも斬る。アレックスはそれを知っている。


「アレックス=グロウアイグ。おまえはここで死ね」

「……いやだ」

「わがまま言うな」


 軽く剣先が触れ合う。会釈のような衝突を何度か繰り返し、二人は砂に踏みつけた足を動かそうともしなかった。まるでチャンバラ遊び――そうグロリアが思った次の瞬間、切り返しの一刀がアレックスの右腕を肩から綺麗に斬り飛ばしていた。

 息を呑む。

 やる気のない三文芝居のように、アレックスがその場に膝を突く。傷口を掴んだ左手からは涙のように血が溢れ出し、その顔には苦悶と脂汗が浮かんでいたが、それすら一肢切断されたとは思えぬ静けさだった。思い出したように裏切者の剣が砂地にさくりと突き立った。わずかに傾く。


「ありもしない夢を見れば見るほど、みんな弱くなっていった」


 呟くように吐き捨てて、驚くほど血のついていない剣をヴィクシミュは下ろした。


「命なんていらないと覚悟を決めたんだろう。何を失ってもいい、自分は正しいんだと。そう思えれば勇気は湧くかもしれない。討手に誰が来ようとも、越えてみせると思ったか?」

「……お、俺は……」

「だからだ。だからおまえら裏切り者は絶対に俺に勝てないんだよ。

 あの日。

 王殺しで、おまえに命を救われた時……覚えてるか?」


 あの一瞬――心臓を貫かれるほかない最後の瞬間。


「おまえに助けられていなければ俺は死んでた。死んだと思った。あの時――俺は死にたくないと思った。なぜだろう? あの時すでに俺の手は仲間の血で真っ赤だった。おまえみたいな直情径行のバカどもがありもしない夢を見るたびに俺が駆り出されるんだ。後始末のために――生きれば生きるほど血まみれになっていくのに、俺は死ぬのだけは嫌だと思った。なんとしてでも、時間を書き換えてでも生きたい、と。

 おまえのせいだ。

 おまえが俺に気づかせたんだ。命を救われたから、俺は自分の真実を嫌でも思い知らされた。結局は、我が身が可愛いんだ。だったら、敵が誰であろうと、吸血鬼の王族だろうと命の恩人で仲間でハンターのおまえだろうと、俺はおまえに勝たなきゃならない。何があっても負けるわけにはいかない。死なないために……

 それがおまえが俺に勝てない理由だ。もう、剣は握れんな」

 

 隻腕の剣士が急ごしらえで勝てる相手ではないことくらい、アレックスにもわかっていた。腕を落とされた。それは剣士として決着がついたことと同義。

 なのに。


「ヴィー……俺は……」

「悲しいな。信念のためなら命など惜しくない。本気でそう思ったからこそ、おまえたちは弱くなる。ヴァルゴも疲れていたんだろうよ。あの女は呪われていた。誰もやつの魂を救えなかった。斬るしかなかった。息子のおまえが手を下しただけ、マシだったのかもな」


 血を垂らしながら、アレックスは引きつるように微笑んだ。


「……そんな理由で、斬ってはいないさ」

「好きなだけ理由を作れ。報われない吸血鬼のための正義感でもいいし、人間の奴隷として戦い続けることに飽きたでもいい。いずれは俺のように討手に廻されるのが嫌だったでもいいし、あんな魔女を母と思ったことなど一度もなくせいせいしたと言ってもいい。好きにしろ」


 ヴィクシミュの凍てついた――いつか湖のように澄んでいたかもしれない氷の目がグロリアに向く。


「どうせおまえら二人はここで俺が斬る。それが俺の任務だからな」

「……ヴァルゴは……」


 アレックスはよろけながら立ち上がり、何度か膝を突きながら、ようやく剣の柄に左手を乗せた。ヴィクシミュは興味もなさげにそれを見ている。


「一度も誰かを愛せなかった人だった。愛してもらったことがないから。それでも……俺にとっては母だった。だから今まで何度も……何度も迷った。斬ってしまった方がいい、終わらせてあげた方がいいと。俺には、とっくの昔にそれができたから……」

「おまえは紛れもなく、本物だったな」


 己が贈った剣の銘を見ながら、乾いた笑いをヴィクシミュは浮かべる。


「残念だよ。剣士として、俺は絶対におまえには及ばなかった。俺はずっと、おまえのようになりたいと思っていた……こうして、血迷ったおまえを容易く屠るなんて、俺の右腕は望んではいなかった」

「おまえは強いよ、ヴィー……」

「愛想はやめろ。意味がない。真実だけが剣の全部だ。生きるか死ぬか。生きたいか死にたいか。アレックス、俺は生きると決めたんだ。おまえがどうあろうとも」

「俺も……」


 アレックスはそばに近寄っていたグロリアの華奢な右腕を残った左腕で掴むと、よろよろとまた片膝を突いた。だが顔を上げ、致死の位置から見下ろしてくるヴィーを凝視する。


「俺も思った。生きていたいと。生きようと思ったから、あの人を斬ったんだ」

「で、俺に殺されて、すべて無駄だったというわけだ。茶番だな」

「そう、茶番だ」


 アレックスは笑う。グロリアが思い詰めたようにその横顔を見る。


「茶番さ、絶対。吸血鬼を助けたところで、血の宿命は確かに、変わらないだろう。どうせいつかは負けて死ぬ。それが話の落ちなんだと俺も思うよ。

 でも……

 あの時……ヴァルゴにグロリアを殺させてしまうのは簡単だった。ただ黙ってみていればよかった。それがどう考えても最善で、安全で、俺が採るべき道はきっとそれしかなかった。そんなことはわかってた……」

「だったら、どうしてその女を助けたりしたんだ!」


 思い出したように歩き出したヴィクシミュの蹴りがアレックスの鳩尾に埋まり、支えていたグロリアと彼女が抜こうとしていた剣ごと二人を砂地へと吹っ飛ばした。砂塵が舞い上がり、夜明けが優しく光をもたらす。泣いているように。


「おまえを斬るのは、最悪の気分だよ……アレックス……」

「ヴィー……」

「どうしてだ? 憎しみじゃないというなら、なんでヴァルゴを斬ったんだ? 斬りたくなどなかったはずなのに……おまえに斬れるはずがなかったのに……

 なぜだ、アレックス。どうしてなんだ?」


 抜き打ちで斬ろうとするなら、右手側にグロリアがいて欲しかったところだが、彼女はアレックスの左側で剣を捧げ持った。刃の部分を掴んでいる掌から血が滲んでいる。逆手で柄を握り、アレックスは腰だめに構えた。振り切れば、自分は死ぬだろう。見下ろすヴィクシミュは三手速い。残った腕と両足でもがき暴れたところで詰めはヴィクシミュの駒になる。もはや痛ましさしかなく、ヴィクシミュは顔を歪めた。だが、きっと、泣きながらでも親友を斬るだろう。


「どうして……どうしてと聞かれれば……困ってしまう話でさ」

「何?」


 アレックスは、きっと右腕があれば頬をかいていただろう。


「俺もずっと考えていた。上手く言葉にできなかったから……どうしてあの時、ヴァルゴを斬ったのか。この一年、ずっとそればかり考えていたような気がする。

 そして、たぶん、答えを見つけた。

 ……見たいと思ったんだよ」

「見たい? あいつの死に様をか?」

「違う……誰でもそうだが……死んじまったら、おしまいだろ。もう、そいつが何かしたり、動いたり、突拍子もないことをやったり、見れなくなってしまうだろ。当たり前だけど……

 そんな単純なことが、ずっと嫌だったんだと思う。

 そんな、割り切らなきゃいけないことが割り切れなくて……俺は苦しみ続けた。みんな、鬼は狩ればいいと言う。墓も建ててやらず、歌も唄ってやらず……狩ればそれまで。まるで何かの儀式だったかのように、潮が引いていって人は去って行く。俺はそれが嫌だった……」

「何が言いたい……わかってるのか、おまえはもうすぐ死ぬんだぞ」

「ヴァルゴには未来がなかった。あの人の人生はきっと、父親のレオノーゼを狩った時に終わったんだ。きっとレオノーゼも、そのまた親も、ずっと……グロウアイグは親殺しの家系だ。自分が作り出した存在に殺されるんだ。俺はそんな物語はもう見たくなかった。

 でも、ヴァルゴが殺そうとした、血の運命に逆らおうとした吸血鬼には、興味があった」

「……アレックス」

「見たいと思った。生きててくれれば、生きていくだろ。どんな風に……グロリアの物語が続いていくのか、見るためには、……あの人を斬るしかなかった」

「つまりおまえは……その女がどうなるか知りたいから、ヴァルゴを斬ったっていうのか? それだけのために、どうせ負けて死ぬだけの物語の続きが知りたくて、母親を殺したのか?」


 ヴィクシミュは剣を構えた。剣を捧げ物のように半身で掲げ持ち、その剣先が重力の糸で垂れ下がる。銀光が狙うは敵の心臓、ただ一点。


「バカだよ、おまえは……」

「ああ、バカだな……」


 アレックスは猫のように笑った。日だまりの中で縄張りを味わうように。


「でも、きっと、それ以外の理由では、俺もまた自分の子に殺されるだけの剣士だったと思う。憎しみでも寂しさでも、グロウアイグの物語は止められなかった。おまえにとって、救いになるか呪いになるかわからないが……俺は、後悔はしていない。斬ってよかったと今では思う」

「……親不孝者だな、随分」

「ああ、そうだな。そして友達甲斐のないやつだ。おまえには本当に申し訳ないが……討手がおまえで、よかった。自分の子に殺されるよりはいい」

「わがままだ。おまえはやっぱり。知りたいから? ふざけてる……

 物語、だって?」


 ヴィクシミュにはわかったことがある。

 王殺しの戦友・アレックスは、とんでもない卑怯者だ。

 なぜなら、その理由は、

 そっくりそのまま、ヴィクシミュにも当て嵌まる。

 憎いだけなら斬るしかない。見逃したくてもいずれ二人は運命に斬られる。

 だが……


「ああ、おまえは、最悪だ、アレックス……。

 おまえに出会ったばかりに、俺は……」




 追跡者は、その剣を下ろした。








 ○



「で、どうだったんです? 先輩。きっと、旧知の友を惨殺してくれたんでしょうね?」


 浮浪者同然の憔悴した様子で、戻ってきたハンターにマディオは問う。伸びかけた爪を切り忘れたのをぼんやりと考えながら、昔は刑死場だったらしい岩場に腰かけて、木漏れ日に若い顔を照らし出させている。その周囲には総勢十名以上のハンターがいたが、自分勝手な彼ららしく、いまだ顔を出さない。マディオはそんな連中が嫌いだった。自分の思い通りにならないから。


「ヴァルゴがアレックスに狩られて、あの魔女が抑えていた吸血鬼どもは活発化しています。グロリアの首を挙げてやつらの攻勢を挫かないと、そろそろ僕たち人間の敗北も見えてきます。まったく迷惑な話ですよ、造反者を狩るのはいいですが、そのぶん戦力が大幅に削がれる。どう転んだって、反逆者どもは僕たちの頭痛の種なんだ。そうでしょう?」


 ヴィクシミュは虚ろな眼でマディオを見ていた。屍術をかけられて追い返されてきた亡骸にすら見える。だがその眼の奥に愚かな炎がかすかに灯っているのを見過ごすほどにはマディオは仲間を信頼していない。


「ミイラ取りがミイラになる、か。昔話というのはよくできていますよね。教訓にするにはもってこいだ。ねえ、先輩。まさかそれだけ血まみれの手で、裏切者を数え切れないほど粛清してきたその手で、いまさら盆を返すなんてありえないと思いませんか?」


 ヴィクシミュは剣を抜いた。


「マディオ」

「なんです」

「俺はおまえが嫌いだ」

「へぇ、奇遇ですね。僕もですよ。意見の一致というわけだ。……昔から、その訳知り顔が気に入らなかったんですよ、ヴィクシミュ君。お互い綺麗さっぱり遺恨を血で流すとしましょうか。それにしても……剣の才能では僕に負けているとまだわからないのかな?」

「そうだな、おまえは正しい。俺はおまえに勝てんだろう。だが……才能だけじゃどうにもならない壁も、あるぜ」

「減らず口を……愚かな人だ。何も考えず、ただ命令通りに動く狩人でいれば、ここで死ぬこともなかったのに。まったく、アレックスのやつに何を吹き込まれたんだか」

「ひとついいことを教えてやろう」

「何?」

「おまえは確かに天才だ。だが、自分の能力を誰かに伝授できない。それだけの実力がありながらずっと俺の補佐につけられていたのが、まさか実戦経験の乏しさだけだとは思ってないだろう? ……おまえはおまえ単品で完結している戦士だ。弱者に対しておまえができるのは、斬るだけだ。それしかない。

 それを弱いというんだ、マディオ。おまえには、何かを変えることなど絶対にできない」

「馬鹿げたことを……第一、」


 舌が飛んだ。

 続いて頬、歯、耳、鼻の断片、そして砕かれた無数の骨と少量の血液も。顔面を逆袈裟に断ち割られて驚愕した身体が反射的に振り抜いた剣が手からすっぽ抜け、刃すら立てずに泥に落ちた。不満を吐くようにずぶずぶと剣が沈んでいく。ヴィクシミュはそれを引き抜き、木陰の中に裸剣を投げた。すでに人徳薄いマディオの部下は逃げ尽くしている。


 まだわずかに喉から下だけ生きて痙攣しているマディオの骸を、息を荒げながら見下ろしたヴィクシミュが、ふっと笑った。









「図星だろ」


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