人は彼を崇めるだろう、彼は己を呪うだろう


 村人は、銀貨三十枚でその吸血鬼を売った。





 


 いつかヴァルゴが自慢していた。自分は剣聖からグロウアイグの名を継いだと。

 銀の鷹の紋章は、名誉と栄光と誰にも負けない強さの証明、それはいつもヴァルゴの胸元で輝いていた。

 彼女はいつだってそれを身から離したことはない。

 誰も彼女の隣には残らなかったが、最後まで彼女を裏切らなかったのはその紋章。

 ぴかぴかに磨かれたその金属をアレックスはよく見せびらかされていた。アレックス、おまえはあの忌々しいビーンゲイムの子。グロウアイグじゃないのだと。

 だがアレックスは知っている。

 誰もが違った話を語っているが、それでもアレックスは信じている――ヴァルゴは養父を殺して、その紋章を奪い取ったのだ。グロウアイグの名と栄光ごと。

 老いたレオノーゼは剣を嫌っていた。だから、己の力と業のすべてを継承したヴァルゴを愛したはずがない。信じたはずもない。

 だからそのとき、アレックスの疑問は氷解した。それはヴァルゴが望んだ嫉妬も羨望も呼び起こさなかった。自分で殺した養父に愛されていたのだと高笑いしながら、古びた紋章に縋りつく。それがなぜなのか、腑に落ちた。

 ヴァルゴは、弱いのだと。




 新月の晩だった。月――魔に生きるすべての霊を見守る母なる衛星は、長い一晩の休暇に耽っている。今夜こそ、彼女には守るべき存在があるというのに。

 村人は全員、窓の鎧戸を閉じて家に立て籠もっている。まるでハリケーンが通り過ぎているさなかのようだ。確かにその気持ちはよくわかる。

 剣聖・ヴァルゴは納刀しているが、ひとたび剣を抜けばこんな村に住む人々など散歩まがいに全滅させてみせるだろう。まるで竜巻――だとすれば、人は悲しめば悲しむほど、つらければつらいほど、自然現象に近づくのかもしれない。

 ただ燃える、ただ吹く、ただ斬る――それが剣聖の資格だとするならば、ヴァルゴは吸血鬼ハンターの中でも最もその性質を受け継いでいると言えるだろう。

 そして彼女という剣は、今夜も次の犠牲者を求めている。

 その対象は、まだ人を殺していないかもしれない吸血鬼。


「なぁ、やめよう。やめようよ、師匠……」


 アレックスはヴァルゴの後方に控えながら、何度か呟いたが、ヴァルゴの外套をまとった背中は聞こえている癖に揺らぎもしなかった。聞こえているのだ、絶対に。

 そしてヴァルゴはきっと、どんなに泣き叫んでも、レオノーゼに振り向いてもらったことなどないのだ。




 廃教会に、二人はいた。

 扉を蹴破って礼拝堂に突き進んだヴァルゴの後ろからアレックスは状況を確認する。

 首から血を流して倒れている少女の胸はわずかに上下していて、まだ生きているようだったが、同時にその真っ青な肌は吸血鬼化の兆候を示していた。

 おそらく数分後には起き上がり、夜の眷属と化した自分と直面するだろう。

 ハンターのように抗生剤を塗りたくるように飲み続けていなければ、死ぬか吸血鬼化のどちらかしか人間の辿る道はない。

 そしてその門を拒絶できない欲情によって開いてしまったのは、倒れている少女の隣に座り込んでいる修道服を着た少女だろう。

 星下乱入してきた狩人二人を、ぼんやりと見返してくる、その瞳には、絶望も悲しみもなく、訪れた運命を聞かされていた台本のように受け入れている。

 そう、彼女の戦いはもう終わった。

 人の血を吸わないよう、

 うっかりと吸い殺さないよう、

 交渉し沈思し冒険しながら続けてきた日々はたった一度の限界ごときで水に流された。

 ハンターが足音高く夜に現れ、そして鬼は狩られる。

 足下に転がっている鞄を見た。

 グロリアと名前が縫いつけられている。

 どちらの鞄だろう。


「おまえがグロリア=コードフィアか?」


 ヴァルゴが楽しげに聞く。


「友達の血は美味かったか、え? ……生き身から直接吸うのは抗いがたい快感だったろう。病みつきになるらしいからな。もうおまえはこれで戻れない……その子は生き返るかもな。だが、いつか誰かの血を吸い過ぎて殺してしまう。それがおまえら吸血鬼というものなんだ。人類の……そう、天敵なんだよ」

「ええ、そうね」


 グロリアは俯きながら答える。外のガス灯から差し込む光が、ステンドガラスを超えて彼女と親友を七色に責め立てている。


「ずっと……ずっと否定したかった。そんなはずはない、なんとかなるはずだって……言葉にすると簡単よね。どうにかなる――たったそれだけのことが、できなかった」

「おまえごときにできるなら、この一万年の間に誰かが成し遂げていたはずだからな。私はこの五十年で数えるのも忘れるほど鬼を斬ったが……みんな口先だけさ。最後には我慢できずに吸ってしまう。信念も誇りも気のせいでしかない。だからおまえもそれでいいのさ。あとは死ぬのが最後の仕事だ」


 ヴァルゴが抜刀した。その剣の切っ先を、少女の首元にあてがう。少女は逆らわずにツ、と顔を上げた。その表情が弛緩する。もうすべて終わるのだと――

 それを見て、ヴァルゴが何を思ったのかはわからない。

 だがきっとその顔は、死にたくても死ねない、殺して欲しくてもそうしてもらえなかった人間にとってはひどく苛立たしいものだったのだろう。

 銀閃が礼拝堂を断ち割り、鮮血が噴き上がる。


「かっ……はっ……?」


 倒れていた少女が身もだえしながら、首につけられた深い裂傷を手で押さえる。意識が戻ったのか眼球があちこちに彷徨っていたが、やがて自分を見つめるグロリアを見つけて、止まった。

 その瞳にグロリアの、死ねると思っていた弱さが映っている。

 ごとり、と手が落ちて、吸血鬼の娘は死んだ。


「いやああああああああああああああああああああああああ!!!!!」


 耳を劈く絶叫が、グロリアの喉から溢れた。


「次はおまえだ。生まれてきたことを後悔しながら死んでいけ。せいぜい私を満足させて――そしてアレックス、おまえはその手を柄から離せ」


 ヴァルゴはアレックスに背を向けている。

 それでも、弟子が愛剣に手をかけていることくらいはすぐにわかる。

 鯉口を切られた剣身がわずかに覗いていた。

 肩越しに振り返り、実に楽しそうに震える弟子の手を見る。


「珍しいな。おまえが本気で私を斬ろうとするなんて」

「師匠……やめよう、もう」

「何をやめる? 吸血鬼を狩らねば、こいつらは人間の血を吸い尽くすぞ。それでもいいのか?」

「その子はまだ、誰も吸い尽くしていない」

「そうだな、そして、きっと誰もがこの女のようには頑張れない――誰も彼もが高潔である世界なんて、あった試しがあるか?」

「…………」


 アレックスは少しずつ、剣を抜いていく。


「ああ……そうだな、言葉なんか意味ないな。話し合う気など、もうおまえにはないんだろう。斬りたいか? 私を。そうかそうか……だがおまえには無理だ、アレックス=ビーンゲイム。……私は一度もおまえを愛おしいと思ったことはない。だが、私を殺せばもう永遠に『それ』が変わることなんてなくなるんだぞ? 耐えられるのか、おまえに、それが」

「師匠……」

「おまえはまだ幸せだよ。甘ったるい夢を見ていられるのだから。私はもう戻れないし、戻る気もない……そうやってめそめそと震えていろ。おまえも、この鬼どもも、生まれてきたのが間違いなんだ……」


 アレックスは抜いた。

 初太刀は完璧に、瞬転したヴァルゴの剣に絡め取られた。

 その瞬間、二人は剣を介して見つめ合う。

 ヴァルゴは暗い目をしていた。

 もはや反逆者と化した義理の息子を見る目は人に向かうそれではない。

 裏切り者は誰であろうと赦さない。

 自分に刃向かったなら殺すだけ――


「母さん……」


 聞こえていないはずがない。

 ヴァルゴの斬撃は正確に、初見の雑兵を相手にするかのような冷徹さでアレックスの致死点を狙ってきた。

 その一撃にはすべての真実が籠められている。

 そうだ、かわす必要などない。

 今、この一撃を抱き締めればすべてが終わる。

 憎いというなら、愛せないというのなら、それを受け入れてあげればいいだけじゃないか?

 アレックスは自分を狙う剣身に見惚れたように動かない。すでに危急の帰閃を放つ好機は過ぎている。

 俺が死んだから、なんだというんだ?

 誰が悲しむか、なんて甘い考えもいい加減によそう。

 逆に聞こう、自分は、誰かが死んだら悲しいと思えるのか?

 心の底から、時間を巻き戻してでもねじ曲げたい未来の景色の中に他人がいるか?

 愛されたい、それは立派だ、当然だ。

 だが、自分にこそ、誰かを愛することができるのか?

 それもできないのにヴァルゴを責めるのは身勝手な話だ。

 そうだ俺には守りたいものなんかない。

 俺が死んでもこの世界には心地いい風がどこかできっと吹いている。

 それを甘えと救いにしてくたばればいいだけじゃないか。

 こんな世界がどうなろうと、どこで誰が死のうと、誰かを愛せないヴァルゴや俺になんの関係があるというんだ。

 人間はうだうだ文句を言いながらも繁栄し、吸血鬼はもがき苦しみながら狩られていく。あの子のように。

 そうだあの子は最後の救い、吸血鬼化した友達が同じ夜の奴隷としてすすり泣きながら共に歩いて行く、そんな救いのないハッピーエンドさえ奪われた。

 ヴァルゴは彼女から甘える権利を、みっともなく震えながら未来に愛想笑いを浮かべて見逃してもらうチャンスすら真っ二つに叩き斬った。

 もはやあの鬼には絶望しかない。

 ――俺たちは鬼を狩るもの。おまえたちは生きていてはいけないのだと叫ぶもの。

 なら。






 そう叫ばれた俺も、この瞬間からみなしごだろう。







 受けた、鉄刀が摩擦で光熱を発しながら滑っていく、養母のそらした切突きっさきを剣路にして、『棄てられた刀匠』が鍛え抜いた愛刀、こんな未来が訪れないことを祈ってくれていた戦友が贈ってくれた剣の銘に刻まれた『無垢と悪徳』の文字を初めてまともに視認しながら、アレックスは柳の枝が撓るように、久しぶりに再会した旧友に駆け寄るように、柔らかく、自然に、風を捲きながら剣を疾駆させた。間合いで言えばわずか半歩、盗むように隙をさらった一瞬――ヴァルゴの模造宝玉レプリカじみた碧眼が感情もなく見開かれる。

 首を撥ねた。

 たたらを踏んだ首なしの老女の肉体が、自分の外套の裾を踏みつけて教会に転んだ。撥ね飛ばされた首は埃と時間の匂いがする暗闇に飲み込まれて消えた。


 それは剣聖を継ぐにふさわしい一撃であり、

 それを放った者は、子供のように顔をくしゃくしゃにして、唇を噛んでいた。


 血がにじむほどに歯を立て、闇の一点、わずかに輝くステンドグラスさえ目には入らず、その奥ずっと向こう、己のものとも母のものともわからぬ虚空を睨みつける戦士を、グロリアは泣くのも忘れて呆然と見上げた。


「き、斬りたく、なかった……斬りたくは、なかった…………」


 からん、と。

 ヴァルゴが身に帯びていたグロウアイグ家の呪われた銀の紋章が床に落ち、それが引き金になったかのようにアレックスはその場に蹲り、頭を抱えて、震えながら泣いた。

 生きながら髪を引き抜かれる老人のように苦痛にまみれたすすり泣きが、かえってそばに座り込んでいた、たったいま同じように大切な――かけがえのない相手が首を飛ばされ死んだ吸血鬼の少女から悲しみをほんのわずかに拭い取っていった。

 いつまでも止むことのない涙声を聞きながら、グロリアは膝立ちで、服など汚れるに任せて、少しずつ、ナメクジのように泣いている男に近づいていった。

 そして、




 その冷たい手を、


 だがどれほど冷たくても確かに流れる血潮がある手を、伸ばした。



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