百騎殺しのヴァルゴ

 その男は、追放されたにしては端正な顔をしていた。切れ長の目は冷静そうに見えるが、瞳の動きだけ追えばそれほど成熟した精神ではないことが窺えた。輪郭はよく言えば凜々しく、実際のところは貧しい男の肌だった。着流しの肌着は数日は着込んでいるらしく、森の獣の匂いがする。だが虫が湧く前には洗っているのだろう、先ほど渡った川は浅く、川魚を漁るにも汚れ物を流すにも適している。

 流れる水さえあれば人は蔓延る……かつて殺した吸血鬼がぼやいていた。吸血鬼は流水を渡れないのではなく、どうせ水さえあれば人類を滅ぼすなどできやしない、という諦観だったのかもしれない。この、あまりにも弱く、あまりにも愚かな種族を、吸血鬼はとうとう根絶やしにはできず今日まで夜を負けている。

 男に勧められるままに、アレックスは食卓に腰掛けた。長旅でお疲れでしょう、男は気も無く世辞を言う。連れの方は着いてからすぐ眠ってしまいましたよ、と示された手の向こうで師匠がすうすうと寝息を立てていた。アレックスはいつも思う――師匠は子供のような顔で眠る。そのままどうして、子供のままではいられなかったのだろう、と。そのまま、無垢に生きていてくれたら――しかし、そのとき、百騎殺しのヴァルゴが生存できた確率は砂漠のひとつかみに金貨が混ざるよりも多いのだろうか。少ないのだろうか。


「面倒事は弟子に一任している……と言っておられました。そうなのですか?」


 ああ、この男は確かに村の爪弾き者だったろう。そんなこと、当たり前に決まっている。師匠の到着から二日経ち、早馬を飛ばして氷雪に揉まれた外套を一枚ダメにしてアレックスはようやくここにいるのだから。熊皮のコートを窓から投げ捨てると、飼育されている高山オオカミがあっという間にレザーを食い千切る音が聞こえた。躊躇いすらない。


「俺が事情を聞きます。師匠の代わりに。包み隠さず教えてください。重要なことです……たとえどんなことでも。特に吸血鬼狩りの時には」

「吸血鬼……忌まわしい存在です。私にとっては」


 男は暖炉の前の安楽椅子に腰掛けた。アレックスの前に座りたくないらしい。食卓――人と向かい合って、あるいは隣り合って食事を取る。この男にそんな習慣などないのだろう。孤独だけが友人であり、時間だけが伴侶なのだ。それと、オオカミ。よく躾けられている。


「あの村には潜在的に吸血鬼信仰があったのだと思います。昔から……私があの村にいた頃から、あの村は十字架を掲げなかった。神聖な十字架は、小さな教会にあるだけだった。人は日曜にはミサをするべきなんだ。鶏の卵拾いなんかすべきじゃない。神聖なる休養日に……」

「そう言って、白い目で見られましたか。誰からも理解されずに?」


 こんな貧しい土地で、一日だって収穫を見送れるわけがない。そんなことをすれば何人が餓える? 人を喰うのは鬼だけではない。そんな荒んだアレックスの視線を、男は気づいていないようだった。あるいは、気づこうという心などなかった。


「損得しか考えていない人間は危険です。私はそれに気づき、村を離れた。もう十年になります」

「麓の領主の話では、追放されたのはあなただと聞きました。見捨てられた猟師だと」

「私が?」猟師は鼻で笑った。

「それは違う。領主様は何か勘違いしてなさる。あの村が私を見捨てたんじゃない、私が、あの村を捨てたんだ」

「そういうことにしておきましょう。それで……あなたはなぜ、あの村を告発したんですか。もう村を離れたあなたに、あの村に『吸血鬼がいる』なんて、どうしてわかるというんです」

「一ヶ月前、宿にしていた村が野盗に襲われて逃げてきた男がいたんです。私のところに命からがら転がり込んで来ましてね……ええ、助けてあげましたよ。そうしたら彼は教えてくれました……自分は戦地記者で、あちこちの吸血鬼の取材をしている。まだ駆け出しだが、いつか売れてやろうと思っている……でもあなたは……つまり、私ですが、こんな近場にいては危険だから警告しておく。あの村には近づくな、と」

「戦地記者……? なんて名前です?」

「さあ……忘れてしまいました。なんとかいう会社の所属でしたね。名刺をもらいましたから、そのあたりにありますよ、きっと」


 男が示した先には、脱ぎ散らかした汚れ物が溢れかえっている籠があった。アレックスはそれを無視した。別に漁ってもいい。どうせ師匠が起きたら漁らされるだろう。だからといって素直に動きたくもない。


「その男が言うには、その吸血鬼は十年前からあの村に住み着き、住民の血を少しずつ貰って生き延びているのだと言います。なんでも……私は詳しくありませんが、吸血鬼には王家があるとか? その血縁だと言っていましたね。ハンターからしたら、魅力的な存在では? 狩り応えがあるでしょう」

「ええ、魅力的すぎて、実在するとは思えません。あれだけ人里を嫌う王族が人間と暮らすなど考えにくい」


 男は気分を害したようだった。瞳に冷たい氷が這っていくのをアレックスは眺めていた。誰かに嫌悪されるのには慣れている。それを自分ではどうにもできないことにも。


「それがなんだというんです? いるところにはいるでしょう」

「まず、その戦地記者というのが真実を語っているとは思えない」

「なぜです」

「普通、吸血鬼は衝動を我慢できない。もし十年間も、人から分けてもらうだけで暮らせている吸血鬼がいたとしたら、それは一種の狂人だ。普通は必ず限界を迎え、人を襲い枯れ果てるまで血を吸い尽くしている。なぜ真実を知った記者が生きて村を出られたんです?」

「当然、聞きましたよ。村人はそれを『異常なこと』と認識していなかったそうです。当たり前のように語っていたと」

「信じがたい。創作だ。……もし俺が吸血鬼なら、紛れ込んできたのが旅人で、しかも記者なら、絶対に目を離さないし隙も見せない」

「だから、あなたの言うとおり我慢ができず、隙を見せたのでしょう」

「そんな羽目に陥る可能性がある時点で記者を殺してしまった方が早い。知っていますか? 吸血鬼はどんな墓守より上手く穴を掘るんです。死骸は埋めるに限るから。匂いもしないほど奥深くに」

「そんな賢くもないんでしょう、所詮は人の血を吸うことしか考えていられない連中だ」

「そう、人の血を吸うことしかできない存在です」


 アレックスは認めた。腰に吊した剣――銘も知らない――の重さを感じながら、考える。


「だから、もし、本当に人間と暮らしていたなら……殺しをしていないということだ。貰うだけで、傷つけていない。だとしたら……狩らなくていいかもしれない」


 自分が何を口走っているのかよくわからなかった。ふと気づけば自分は男にではなく暖炉の炎に話しかけていた。


「そうだ……殺す必要はない。傷つけただけだ。殺してない。だったら……それは、優しい」

「私はそう思わない」

「あなたは村に復讐がしたいだけだ」

「なに?」

「吸血鬼がいる村。感染してる危険性を声高に唄って、俺たちの手で全滅させようとしているんだ。復讐を……自分を追放した村に……吸血鬼ですら赦される村に」

「口を慎め」


 男は顔を真っ赤にして、歯茎を剥き出し、目に涙を浮かべていた。ああ……まただ。また俺は人の心を踏みにじった。そうアレックスは思った。


「おまえに何がわかる? 俺がなにをした? そうだ、なぜ俺が追放されなければならない……俺は村長の娘に恋をした。それが罪だったというのか? 朽ち果てろ……全滅してしまえ、おまえも、連中も、吸血鬼も! みんなみんな、死んでしまえ!」


 そうだ。

 死ぬのが似合いの償いなんだ。





 男はそう呟いて、俯いた。炎の照り返しが、人形のような顔に反射していた。アレックスは首を振り、立ち上がった。


「……あなたはここを捨てた方がいい。どこか別の土地で心を癒やすべきだ」

「無理言うなよ」


 背筋がぞっとした。

 答えたのは男ではなかった。声は背後から、しゃがれた、酒焼けのする喉からやってきていた。振り返ると、ヴァルゴが額を押さえて起き上がったところだった。


「ああ、眠い……いったいいつになったら、私はゆっくり眠れるんだ? つるぎくん」

「師匠……」

「夢うつつに聞かせてもらったぞ。……その村は感染してるんだろ?」

「違う、何を聞いてたんだ? あの村は無害な可能性がある。俺が調査するから、師匠は帰ってくれ」

「おまえに任せられることなど何一つとしてない。王殺しだって、ヴィクシミュの手柄を横取りしたくせに」

「…………」

「その男の魂を、何が癒やせると言うんだ? おまえは何もわかっていないな、アレックス=ビーンゲイム。おい、君。目を覚ませ。こんな若造の言うこと、信用できる要素なんて何一つもないだろう?」


 猟師が顔をあげた。友人の顔を思い出そうとしているような表情でヴァルゴを見上げている。


「……あなたは私の話を信じてくれるのですか?」

「もちろんだとも」

「おい、師匠――」


 止めようとするアレックスを、壁まで撥ね除けながら、ヴァルゴは名医のように病んだ心の猟師の元に膝を突いた。白髪は蜘蛛の巣を束ねたように汗を吸ってそのヒビ割れた肌に貼りついている。父殺しをしたあの日から、五十年が過ぎていた。


「すべて復讐は血によって完結する。ほかにない。君は間違っていないとも」

「では……」

「しかし、君の個人的な復讐と我々のハントは関係がない。……我々は復讐代行人ではないのでね」

「…………」


 すでに二人は通じ合っている。肘鉄で急所を打ち抜かれ、痙攣しながら壁にもたれているアレックスには、猟師の男が期待の篭もった視線を少しも揺らがせていないことがよくわかった。


「ただね、君は感想を言ってくれればいい。重要なのはそれだけだ」

「感想……?」

「どう思う?」


 ヴァルゴの口が切れ込みを入れたように吊り上がる。そう見えるのは麻酔仕込みの香水を髪に擦り込んだ女の一撃を喰らった余韻なのだろうか。だがアレックスには確かに、それが悪鬼の微笑に見えた。


「あの村は感染してると思うかね?」

「……ああ、思う。さっき、そこの兄さんが言っていた」


 猟師は剣士を指さした。


「もし本当に吸血鬼が人間と暮らしているなら噛むしかない。だったら……もう、あの村は全滅している。生き残っていたとしても、それは吸血鬼の『信奉者』だ。生かしておくには値しない」……男は歌う。

「吸血鬼は神の造りたもう失敗作。始末するのに理由はいらない。その追随者も同様だ。一人残らず、生きていく値打ちなんてない……俺は……追放されたんじゃない。追放したんだ」

「そうとも」白髪の老女は猟師の背中を優しく叩いた。

「よく言った。それこそ真実。躊躇う必要などない。あの村は感染している。もう手遅れだ。全部正しい。だから、私が来た」



 すすり泣き始めた猟師をヴァルゴが抱きかかえる。母のように。慈愛に満ちた目つきで。だがアレックスは知っている。結局、ヴァルゴは言質が欲しかっただけ。絶対に揺らぐことのない確実な『密告』が欲しかっただけ。それさえあればいい――それだけあれば吸血鬼ハンターには鏖殺の許可が出る。保証人までここにいる。完璧だ――密告が間違っている可能性など考慮しない。善良な人類による救命の懇願を無視できる同胞がいるだろうか?

 ああ――たった数分で、アレックスが積み上げてきた、『通報撤回』への道は泥濘で汚された。のたくられた誘惑によって、心の傷跡からだけ忍び込める隙間から――人を殺さない吸血鬼? もし本当にいたとしたら、もし本当に人里に十年も隠れていられたなら――今まで人間の街で隠れ生きていた吸血鬼は、どんな大都会でも二年が限界だった。しかも吸い殺すのは一ヶ月も我慢できていなかった。それを――十年。わかってるのか、師匠。もし、それが真実なら――何か理由があるのなら――俺たちは戦わなくて済むかもしれない。鬼を殺して、裏切り者の仲間を殺して、父を殺し母を葬る、そんな暮らしからおさらばできる。人間になれる。普通の人間らしい生活ができるんだ。ヴァルゴ、






 あんたは、もうそんな気はないのか?


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