神亡き大地に戦士は祈る
愛剣の刀身を見る。
打ち毀れては鍛え直し、各地の刀匠の手によって蘇り、あるときは誰かの名誉となり、あるときは誰かの経験となり、血を吸い続けそれにも飽きたか茶褐色に沈着したその剣には、今も変わらず刀匠・バスカー家の稀銘『悪徳と無垢』が刻印されている。砂と泥によって均されそうになっているその銘を、老いた片腕の男が爪で掘り返していた。爪の間が黒く汚れるのも構わず、春の昼下がり、すべての小鳥がたやすく遊び唄う頃、削られた砂ばかりが時の流れを代行していた。村の風車のそばにある開けた台地の石座に腰かけたその老人を、通りすがりの牧師が目に止めた。牧師は司祭服の裾を翻し、男の隣に腰かけた。司祭でありながら妻帯し、家に戻れば農地を耕す、信仰と生存を天秤にかけてどちらも捨てぬと豪語する牧師の表情は疲弊してはいても無力ならず、活気を帯びていた。酒場の親父といっても通りそうな髭面で、剣を引っ掻いている老剣士を見やる。
「悪徳と無垢、すべての罪の父と母の名ですな」
「ご存じですか、牧師様。俺はどうも、聖典には疎くて」
「聖典にはそんなことは書いてありはしません。一種の民間伝承ですよ。狼男や雪女のようなね」
「旅人は行ったんですか」
「ええ、見送りしてきたところです。彼女もいましたよ。たまには会いに行ってあげたらどうです?」
「会ってはいますよ。ただ、俺も歳を取ったから、老人扱いされるのが嫌で」
「労ってもらえるときに甘えておきなさい。その希望を汲んであげるのも人徳ですよ」
「そんなものですか」
それこそ息子のような歳の牧師に説教され、老人は気恥ずかしげに頬をかく。まるで少年がそのまま大人になったかのような、素朴さと歪さの入り交じった、清濁の奥の奥にある揺らぎを宿した、剣士特有の目。牧師は聞く。かつて吸血鬼の王すら斬り殺してみせ、そして吸血鬼の姫君のために人類に反逆した伝説の英雄。幾人もの同胞を薙ぎ伏せ、その血を浴びてこの村を開拓した、最強の吸血鬼ハンター……
すべて、遠い昔の物語だ。
「久々ですよ、グロウがあんなに楽しそうに笑っているのを見るのは」
「そうですか、いつも通りの彼女に見えましたが。長年連れ添った相方にはわかる違いでしょうかね」
「まあ、長かったですから。ここを――聖地と呼べるまでには」
「私も流浪の身、偉そうなことは言えませんが……来訪者を拒まない、というのは危険かもしれませんね。いつも、あんな愉快な旅人とは限らない」
「グロウの希望なんですよ。俺たちの旅で、門を開いてくれた場所なんて、数えるほどしかない。だから、自分は誰にも門を閉ざしたくない、って」
「何かあっても、アレックス、あなたが守ってみせるというわけですか」
「とんでもない大仕事でしたよ」
アレックスは、皺だらけの顔で笑った。
「お姫様の描いた荒唐無稽な夢を守るというのは、とても、とても長い道のりと、酌み取りきれない日月と、そして飲み干せないほどの流血が必要だった。俺はもう、誰を斬ったか思い出せないくらい、牧師、人を斬りました。鬼も斬りました。懺悔なんて、今から始めたら心臓が止まる。忘れてはいけない名前すら忘れて……俺は今、ここにいるんです」
「……しがない牧師の私では、想像することさえおこがましいような、凄惨な歴史なのでしょうね」
「義母も斬りました。身内も斬りました。通りすがりの、ただ俺を狩れと命令されただけの少年も斬りました。それでも俺は……グロウを守らなきゃいけなかった」
「そういえば、深くは聞いたことがありませんでした」
牧師が、足下を通り過ぎるリスのカップルを見下ろしながら微笑む。
「あなたはなぜ、彼女を守ろうと思ったのです? それこそ身命を賭してまで」
アレックスは困ったように頭をかいた。
「さあ……改めて聞かれても、もうなぜだったのかはっきりしません。先々代の王の時代の話ですよ。遠い昔の……でも、きっと、俺は見たかったんだと思います。あいつがどんな未来を造るのか。あいつは……俺にはできないような、綺麗な目をしていたから」
「綺麗な目……」
「人を喰らう吸血鬼に産まれ、呪われた生を歩む。そんな過酷な現実の前で、あいつは人の生き血を啜るのをギリギリまで拒み続けた。あいつと初めて会った時、俺は、あんな風にはなれない――そう思ったんです。俺だったらあっさりと屈服し、流されてしまう……だから、自分にできないことをできたあいつなら、俺が手に入れられないような、宝物に手が届くはず……そんな、気がしてね」
「それが、親友の血を吸ってしまった彼女を見た時の、あなたの印象?」
「ええ。そして、あいつはやり遂げた。この聖地に、辿り着いた……」
村の開墾地に、涼しげな風が吹き渡り、植えられたばかりの青い穂が手招くようにそよぐのを見てアレックスは目を細めた。
「俺がこの景色を眺めていられるのも、あとわずかな時間でしょう。俺は吸血鬼じゃない。老いるし、病む。かつて最強のハンターだった母のように……俺が追いかけられるグロウの物語は、ここまでだ。ここから先、俺はグロウを残して逝く……それが、少々、無念でね」
「アレックス……」
「俺は、ただの剣だった。剣として、自分を振るった。傍観者として……その最後がうら寂しいのも、……報いなのかもしれません」
剣の汚れは刮ぎ落とされた。アレックスは赤茶色に変色した刀身に丁寧にオイルを塗り、鞘に収めた。その手つきには淀みも力みもなく、この瞬間に敵が眼前に迫ったとしても車輪のように滑らかに剣を抜くだろう。
牧師は言った。
「あなたは傍観者ではないよ、アレックス」
「いいんですよ、牧師様。俺は……」
「いや、これは慰めではない。あなたが傍観者だと? 傍観者というのは、いつだって、誰かのために剣を振るったりしないものです。いつだって、自分のために剣を振るうのです。あなたのような、自分を忘れて戦えてしまう男を、傍観者とは呼ばない。見てみなさい」
牧師は、静かで平和な村を手で指し示した。
「これが吸血鬼のいる村です。いいですか、この村には人の生き血を啜る魔物が棲んでいるんです。――そう見えますか。そう見せていないのは、誰の力ですか。誰の剣ですか。あなたがこの光景を造ったのですよ、アレックス。あなたとグロリアが、この村を聖地たらしめたのです。数え切れない流血を代償として。
あなたには、その責任がある。ただ見ていただけだなどと、言い逃れできるはずもない。あなたがやったのです、アレックス。ほかの誰でもない、グロリア=コードフィアをこの大地から見つけ出し、護衛すると誓ったその瞬間から、あなたは傍観者などではない……そんなものには、なれないのですよ」
「……牧師様」
「苦しみなさい、アレックス。あなたに救いなどない。己が汚した手の垢と、そして築き上げた信念の果てにある平穏を天秤にかけ、その命が燃え尽きる日まで悩み続けなさい。どうすればよかったのかと。あなたはそんな星の下に産まれたのです。彼女が吸血鬼だったように」
「……だとしたら」
剣士は、困ったように相好を崩した。
「神様なんて、どこにもいないのですね」
「ええ、ですが、私にはいますよ。あなたはどうなんです?」
牧師は不敵に、笑ってみせた。
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