剣聖の夜



 拾った時、すがるような目で見上げてきたことを覚えている。親もなく、身寄りもなく、あとは人か鬼に食われるだけの人生が待っているだけの子供を助けるために必要なものは、ただひたすらに力、それだけだと思った。だから誰にも負けないように、負けるくらいなら相手を殺せてしまえるほどに、強く育てた。

 優しさも甘さも、身を助く縁にはなってくれない。そんなもので生きていけるのは、神に愛され、幸福になることを義務づけられた星に見守られて生きていける人々だけだ。我々は違う。

 剣聖と言えば聞こえはいいが、もっと天才的な才能を持った戦士たちが数多いたことを、レオノーゼは覚えている。彼らに比べれば自分は充全無比の偽物でしかない。

 自分は確かに負けなかった。死ななかった。だがそれは教会が賛美してくれるような祝福が剣にあったからでは決してなく、正義の炎がこの胸を苛んでいたからでもありはしない。

 あったのはただひたすらに死にたくないという本心、そして自分が死ぬくらいなら誰であろうと殺されてしまえという生存するために絶対不可欠な栄養源、それが病んだ心を育んでいたから。だからレオノーゼは死ななかった。そして子供を一人だけ拾って、育てた。強く、強く、強く育てた。

 名をヴァルゴという。





 久しぶりに会った義娘は美しかった。もう齢六十を超え、髪に白い房が目立つようになったレオノーゼの霞んだ目から見ても、歩くだけで周囲の空気が澄み渡っていくような、濡らした剣のような凛々しさが彼女にはあった。歳の頃は二十二、三。殺した敵は百を下らず。百騎殺しのヴァルゴとはよく言ったものだ。実際よりも少なく見積もっているのだから。


「やあ、久しぶり。お父さん。元気そうでなによりだよ」


 笑顔で食卓に座る娘を、自分は歓迎し、抱き締めてやるべきなのだと理解はしている。しかし、そんな生き方をして来なかったから、いまさらそんなふうに振る舞えといったところで無理だ。これでも自分の誕生日に――そんなものがあったとは知らなかった――娘を自宅に招待しただけで、レオノーゼにしては上出来だった。あれこれと理由をつけ、女々しく言い訳を垂れ、結局は出しかけた手紙を破いて暖炉に放り込み忘れてしまう。剣を捨てたレオノーゼに、この後に及んでできることといえば、それくらいしかないのが本当なのだ。


「ああ……来てくれて嬉しいよ、ヴァルゴ。大きくなったな」

「そうね、大きくなった」


 ヴァルゴは、いま始めて自分の姿を知ったとばかりに両手を広げて、しげしげと自分を見下ろした。


「こんなに長く生きられたから、たくさん食べて大きくなったよ。ぜんぶお父さんのおかげだね」

「そう……だといいのだが」


 レオノーゼは、しわだらけになった手を組む。笑おうと歪めている表情に比べてゾッとするほど力を込めた指先が震えていた。


「なあ……ヴァルゴ。今夜はおまえと大事な話がしたいんだ」

「うん、いいよ。お父さん、なんでも話そうよ。どんな話でも、聞いてあげるね」

「ああ……ありがとう」


 レオノーゼは少し、炎に励ましてもらいながら、口を開いた。


「剣を捨てないか、ヴァルゴ。おまえには向いていない」

「いいよ、お父さん。そうします。こんなもの、もう必要ないね。だって吸血鬼は本当は存在しないし、わたしは誰からも愛されて生きていけるんでしょう?」


 ヴァルゴは背負った長剣の吊るし帯を外し、子供が雪玉を落とすように掌から垂直に剣を落とした。ニコニコと微笑む顔は、長い旅路の果てに自分だけを待っていてくれた宿屋の娘のような安心感を真似ている。だがレオノーゼは剣士だったから、それも凄腕の、誰にも負けない剣士だったから、ヴァルゴの言葉のすべてが偽りであり、自分を嘲弄しているに過ぎないことに気づいてしまった。

 それがどれほど根深い軽蔑なのか、理解した。


「ヴァルゴ……どうして……」

「ねぇお父さん」


 ヴァルゴは砂漠商隊用の革靴の踵で、レオノーゼがようやく建てた自分の家の床板をコツコツと叩いた。


「自分の娘を戦いから遠ざけたい。そのためには剣を捨てさせればいい。わあ、立派だね! そうだね、うん、本当にそんなことができれば、きっとみんな幸福だよね」

「私は……ただ……」

「わたしはあなたに育てられた。“剣聖”レオノーゼ=グロウアイグに。今でも思い出すよ。何も見えない真っ暗な洞窟の中で、吸血鬼と二人きりにさせられて……殺すまで出してもらえなかった」

「牙は抜いていた。なるべく安全にしたつもりだ」

「首を絞めれば殺される、やわな娘によく言うよ」ヴァルゴは紙が千切れるように笑った。

「わたしは殺されかかった。どんなに目を開けても光が見えないあの場所で、わたしには剣と、拷問を受けて激昴している、牙の抜かれた吸血鬼だけがそばにあった。――1つ教えて、レオノーゼ。あなたはわたしが死なないと本気で信じていたの?」

「生きていくには……戦士になるためには必要な試練だった。私もかつて受けた試練だ。おまえの気持ちはわかる。恨んで当然だ」

「わからない」


 ヴァルゴは唇に笑みの形をした失望を浮かべながら言う。


「あなたはわたしじゃない。わたしの気持ちはあなたには絶対にわからない。たとえあなたが本当に、わたしと同じ目に遭わされたのだとしても」

「ヴァルゴ……」

「あなたはわたしを信じていたんじゃない。この世で生きていくには力だけが必要で、それがなければどのみち死ぬ。そうだね、そのとおりだよ。おかげでわたしは強くなった。もう誰にも負けない。吸血鬼も、人間も、誰もわたしを殺せない」

「よすんだ……よすんだヴァルゴ……」


 老人は顔を手で覆って嗚咽した。春にしてはあまりにも強く吹き荒ぶ黒い風が窓を執拗に叩いている。


「ヴァルゴ、かつては私もハンターだった。おまえにもそうあれと望んだ。だが……だが、違うんだ。今、死が近づいてきてよくわかる。こんな……こんな生き方は間違っている。悲しすぎる。ハンターなど、吸血鬼を狩り、人間を利用し、ただ生と死の通行を整理する船頭に過ぎない。この世でもっとも忌まわしい生き方だ。ただ生きようとしているだけの吸血鬼、そして罪もなく狩られて散っていく人々、そのどちらも我々ほど手を赤く染めていない。我々だけだ、我々だけがどちらの血も倦むほどに浴びて生きる。こんな……こんな下劣なことはない……」


 ヴァルゴは黙って聞いていた。そして言った。


「そうかもしれない」

「ああ……そうだろう、ヴァルゴ……」

「でもねレオノーゼ。あなたはわたしを戦士にした。いまさらそれを訂正できもしなければ、間違っていたと誰かが認めてくれることもない」


 ヴァルゴは立ち上がった。床に落ちていた剣を拾う。息を呑む老人に一歩、風のように近づく。


「ああ、認めてあげたいよ、レオノーゼ。あなたは間違ってなんかいない、わたしこそ、『あなたの言いなりに戦士になってしまった』ヴァルゴ=グロウアイグこそ、諸悪の根源、余計な命を拾った愚か者で、いますぐこの首をかき切って、あなたの正しさ、あなたの善性、そういったあなたが今この瞬間に取り戻したくて仕方がないものを返してあげられる『いい子』になってあげたい。本当だよ、レオノーゼ。それができたら、本当にできたら、いますぐなってあげたい。

 でもできない」


 剣を鞘から引き払う。恐怖が錬鉄に反射する。


「レオノーゼ。あなたはハンターだった。吸血鬼を狩る怪物だった。そして人間への愛も、情も、何もその心では燃えていなかった。あるのは保身、恐怖、憎悪、羨望――あなたの心にはそれしかなかった。

 だから、もう戻れないんだよ。

 いまさらそんな無垢なおじいちゃんのフリをして、わたしに赦しを乞う資格はあなたなんかにはありはしない。あなたに赦されているのは、戦って、戦って、戦い続けてその挙げ句に惨死する末期だけ。ほかにはなにもないんだよ。その道の果てが見えてきたからって、掌を返して動揺しようだなんて、虫の好いた話もないよ」


 暖炉のマントルピースに、まだ捧げられた一振りの剣を掴むと、ヴァルゴはそれを無造作にレオノーゼの足元に放った。安楽椅子に腰掛けた老人は、目尻が破れそうになるほどの形相で、その剣と、己が身に降り注いだ罵倒を凝視していた。


「さあ、吸血鬼ハンター。死にたくないんでしょう? 数多の戦士があなたより早く逝った。みんなが首を長くして待ってるよ。その手にツバを吐きたいなら、――剣を執るしかない。あなたは、あなたが育てた子どもに殺される。あなたがあなたであったという、看過できない大罪によって。だから、せめて一刀、最後に頂戴。お父さん……」


 数瞬が経ち、指先がわずかに震え、

 レオノーゼは、ぎゅっと目を瞑った。

 安楽椅子の肘掛けを、母の手のように握り締めた。

 ヴァルゴは待った。

 待って、待って、待ち続け、


 そして笑った。


「ありがとう、お父さん」


 剣を下げ、胸いっぱいに我が家の空気を吸い込み、


「この瞬間を、絵に描くほど願ったよ」












































 弱いということを、ヴァルゴはよく知っていた。

 その見過ごし切れない醜悪さも。

 浴びなければならない類の、血の味も。

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