九階の砂漠 (3)
「リイト!」
呼んだ。
地表には無数の砂漠ユリが群れ、ギズの足は花の茎を踏み折って駆けていた。細い枝をうねらせる梢が四方を囲んでいて、幹と枝に絡みついた細い蔦が「おいでおいで」と招く人の腕のように揺れている。
百人ともつかない人の声が重なる合唱を耳に感じていると、木々が人間に化けているようにも見えた――が、錯覚だ。迷わず駆け抜けた。
「答えろ、リイト! めそめそしてんじゃねえぞ。ゴミみたいな意気地なしなら、そのまま消えちまえ。おまえみたいな奴に憑りつかれたカシホがかわいそうだ!」
もう一度呼んだ。返答は届かなかったが、そいつが腹を立てた気がした。「そんなことを言わないでください」と顔を赤くした表情が浮かぶ、カッカとした気配だ。
ばーか。と、唇の内側では舌打ちしつつ、腹では「見つけた」と胸を撫でおろしつつ。リイトの気配を感じた方角へと駆ける。
地面はほとんど砂漠ユリに覆われていて、そこに横たわるはずのリイトの片鱗は見えなかった。
少し開けた場所に出た。木々の奥に水面が見える――湖畔の水辺に達していた。
はっと、ギズは目を見開いた。行く手に、布がはためいている。ジェ・ラームの砂漠と同じ色をした布で、そこに居た男の頭部に結わえられていた。人だ、男だ――と、つぶさに見るより先に、こういう格好をする連中を見たことがあると、脳が騒ぐ。
(ジェラ?)
砂漠地帯で暮らすその一族には、昼間の強烈な日差しを避けるのに、布を頭からかぶる風習があった。
探していた少年は、その男のそばにいた。
「リイ……」
呼ぼうとした名は、喉で止まる。おかしなことが起きていた。
リイトは砂地に膝をつき、懸命に身をよじっている。腕を握って離さない男から力ずくで離れようとしていた――いや……リイトの腕は、なかった。白い袖に包まれた腕があるはずの場所には、水しぶきのごとく細かな粒に姿を変えた磁波が舞っている。強い日差しを浴びて輝きながら舞う空中の埃のように、彼の右腕だった部分は、粉々に崩れて見えた。
「ギズさん」
青ざめたリイトがギズを向いて、ほっと息を吐く。崩れたリイトの腕の先には、黄色い布を頭からかぶった男の手がある。ちょうど手首のあたりだが、今は輪郭が消えている。何かを掴んでいる風にまるまった男の手を中心に、リイトの身体の一部は粉々になり、宙に染み出していた。
男も、ギズを向いた。五十前後に見えた。若くはないし、力自慢の大男にも見えない。ただ、眼光が鋭かった。長年大勢を支配した高貴な男であると知らしめた。
眉をひそめた。男の顔を知っていたからだ。でも、記憶の中でのその男は、死んでいた。
『塔師か』
男がギズを睨む。その目や顔つき、背格好も、ギズはまだ覚えていた。
ジェ・ラームの孤塔の前で、みずから死を選ぶように飛び出した男がいた。その時、男の周りには長銃の囲いがあって、男は銃口の先にみずから飛び込んでいった。ギズもマオルーンも、たぶんそこにいたほとんどの連中が、その男は撃たれるのを分かって飛び出したと思ったはずだ。「さあ殺せ」と、引き金にかけた指の動きを誘うように身を翻した。ジェ・ラームの孤塔を壊すなと抗いにやってきたジェラという一族の
『なにが「塔師」だ。なぜ貴様らばかりが――』
男は、立ち上がった。リイトの腕を掴んだまま引きずり、ギズのそばまでやってくると腕を振り上げる。殴りかかろうとした。
目が血走っていた。振り上げられた腕よりも、充血した目に在る恨みや憎しみ、狂気に目が向いて、後退するのが遅れた。
『なぜだ、なぜ貴様らは生きたまま塔を登れるんだ』
ぶん、ぶんと腕を振り上げながら「なぜ貴様らばかりが」「なぜ『守り手』は死なねばなれぬのだ」と狂ったように繰り返す。まともな精神状態には見えなかった。
こんなふうに狂気をまとった男に寄られるのは、何をされるか分からない不気味さがあって、いい気分ではなかった。
とはいえ、男の年はギズよりも二回りほど上で、拳の勢いもさほど強くない。ぶんと空を切る前から筋を読んで避け、次に飛んできた拳もかわす。「この野郎」「女王の犬」と、唾を吐きながら男は拳を振り回すが、何度か避けてやると、相手をするのにも飽きた。
「面倒くせえ」
中に仕込んであったのは、いわゆる「化け物退治」にも使われる、磁力をまとった弾。撃ち込まれた男の肩のあたりに、湯気のような霧がぶわっと吹きあがる。風船に裂け目ができたように、磁波が男の内側から噴き出して、そのあたりだけ靄がかかる。身体の一部を失っていくように見えた。
「ああ」と、男の掌が傷口をふさぐように肩に回る。ギズはそれをじっと見つめた。
「やっぱり磁波だったか。生きてる奴だったらさすがに怪我するもんなぁ。ってことは――」
つまり?
その男がもつのは生身の人間の肉体ではなく、磁波の塊だ。「霊魂」とも呼ぶ。男は生きたまま孤塔を登って九階にたどりついたわけではなく、死んだ後に登ったのだ。
「そっか、やっぱりあんたは、開門の儀で撃たれた時の奴なんだな。あの時のあんたはたしかに死んでたもんなぁ。おかしいと思った」
しゅう……と、空気が漏れるような音が続く。肩をおさえながら、「メ――ス……」と、男の唇が悔しそうにわななく。
「なにが塔師だ…あの女の手先め」と震え声で繰り返した後、男は顔を上げた。
『グル、歌え。みんな、〈母の歌〉を。力を送れ』
男は大声を出したが、人の営みの跡が欠片も見えない
セイラゼス・ナ・ジェラ・アム・サリ――サザール・ジェイ・ド・セラ・ス・ジェラ――。
(この歌は……)
歌詞の意味は――と、記憶をたどる。「『おお、水の母、母のもとへ願いの石を運べ。祈りを捧げよ。道行く死者は、生者の使者なり。母よ、子らに水を与えよ』と、こういう歌です」と、言葉を訳してみせたジェラ族出身の考古学者がいた。
そいつはこうも言った。
『この歌はジェラがとくに大事にしている歌で、〈母の歌〉と呼ばれています』
(〈母の歌〉――力を送る?)
男の唇の端が、にやりと上がった。ついさっきまで肩を撃たれてわなないていたのに。いや――撃たれてしぼんでいた肩はもぞもぞと膨らみはじめている。修復が始まったかのように見えた。
しかし、男はそれを悔しがった。
『やめろ。私の身体などどうでもよいのだ』
ぐいっとリイトの腕を掴み、引きずろうとした。
『皆、私に力を与えよ。母のもとへ向かう道はまだ続く。守り手の私は、石ノ子の道行きを助けねばならん。――グル、この男をここに留めろ。私は石ノ子を連れて先に行く』
「わかりましたが、
もう一人、男の声がした。声がするほうを探して、ギズは目を見開いた。リイトの後ろにもう一人少年がいた。見たことがある顔だった。ジェルトという名のジェラ族出の子供で、幼い顔つきをしている。でも、小さな唇から出るのは、細身の身体には似合わない壮年の男の声だった。
「石ノ子を務めるのは、こちらの子供のほうが良いかと。そちらの子は子供というよりは男というか――〈母〉が好むのは幼い少年ですし」
「前に見た時はもう少し幼かったのですが」と、ジェルトは、真顔で首を傾げた。
「しかも、そいつは塔師です。これから先〈母〉に近づけば、大地の力を送りにくくなりますから、従順なこちらの子のほうが……石は一つしかないのですから」
死んだはずのジェラの族長と、ジェルトの姿をして話すもう一人の男――おそらく名前は「グル」――は、しばらく二人でやり取りを続ける。
会話を聞きながら、なんとなく、ギズは理解した。
ジェルトは、操られているのだ。おそらくその「グル」という男に。
ジェルトは「石ノ子」という役を務めさせられていて、リイトが族長の男に捕まったのも、それに関わる。
「石ノ子」を操るためには石を用いるようだが、それは一つしかないらしい。
「石ノ子」は〈母〉のもとを目指し、族長の男と「グル」は、それを助けている。
聞こえ続ける〈母の歌〉は地上から届けられる磁波の一種で、族長の男と「グル」はそれを利用して孤塔の上で動く力を得ている。
(なるほどね)
ふと、ジェラの族長と「グル」の会話が止み、二人の顔が揃って上がる。どちらも、ギズを睨んでいた。
『こいつは貴様の仲間なのだろう? 返してやるから、追ってくるな。神聖な塔を下りろ。〈母〉に繋がる道を汚すな』
黄色い布を頭からかぶった族長の男が、掴んでいたリイトを締め上げるように乱暴に腕を引く。
『行こう、グル』
背後で大人しく立っていた少年、ジェルトを振り返って声をかけると、リイトを今にも突き飛ばすようなそぶりをした。「こんなものはもう要らない」と捨てるようだった。
ギズの手は、肩から提げた長銃に伸びていた。中には二割弾が装填されている。
構えて、狙う。銃口を向けたのは、族長の男の胸。
ガチャリ。金音が鳴る。自分を向いた銃口と、照準穴を覗くギズの目をかわるがわる見やって、男は嘲笑った。
『私をそれで撃つつもりか。やめておけ。その弾は私よりも先にこの子供に当たる。おまえの仲間なのだろう?』
男の手が、リイトを後ろから羽交い絞めにするように掴み直す。リイトで自分の身を守る盾をつくるような恰好になった。
リイトの目も丸まった。「嘘ですよね、ギズさん……」と今にも弱気な呟き声が聞こえてきそうな、途方に暮れた表情をした。
ギズが狙ったのは族長の男の胸だが、その胸の前には、盾にされるリイトの首がある。でも、ギズが構えた長銃の先が別の場所を向くことはなかった。
「ここで捕まえなかったら、おまえはその子を連れてこの先に行っちまうんだろう? 逃がしたくないんだよ。こんな場所でこそこそ動かれると、鬱陶しいから」
指が引き金を引き、鈍い銃声が鳴る。弾が撃ち込まれたのは、リイトの首だった。
『やめて、ギズさん』
リイトが悲鳴を上げてのけぞる。銃弾を受けて、リイトの白い首に穴が空き、ぶわっと磁波が漏れ出ていく。リイトは痛みに苦しんでいた。でも、構わず撃ち続けた。もう一発撃つと、リイトの千切れた部分を通り抜けた弾が、背後の男の胸のあたりを貫通する。
『やめろ、貴様の仲間だろう。こいつも消えるぞ……!』
磁力を帯びた弾が当たったあたりからシュウッと音が出て、男の姿を作っていた磁波が染み出していく。
引き金にかけた指はそのまま。さらに撃った。
『やめろ、消える、死ぬ、やめてくれ……!』
男の悲鳴が懇願に変わった。弾が撃ち込まれてできた傷跡が広がれば広がるほど、身体を形作っているものの崩壊が早まっていく。身を守ろうと、男は身体を小さくしてリイトの身体の陰に逃げ込んだ。また、男の姿はリイトの陰になる。しかし、ギズはリイトごと撃ち続けた。
『ギズさん……痛い……!」
リイトの悲鳴。族長の男と同じくリイトの身体も、弾が撃ち込まれたところから崩れ始める。執拗に狙われたのは首だった。その後ろに、族長の男の胸があったからだ。
六発目が命中した時、はずみでリイトの首が千切れた。首と頭部が分かれて、
『やめてくれ……消える……やめてくれ……』
男の姿を形作っていた磁波は銃弾を浴びると崩れて、その都度宙に染み出してゆく。霧状に噴出する磁波は、一度飛び出してしまうと、男の身体にほとんど戻ってこなかった。素材を失いゆく男の姿は、どんどん千切れて小さくなった。
うしろで、ジェルトが泣いていた。幼い泣き顔には不似合いな男の声――「グル」の悲鳴も聞こえた。
「みな、歌え。
セイラゼス・ナ・ジェラ・アム・サリ――と、歌声が大きくなる。歌声が響くと、粉々になって散らばったはずの磁波が、気まぐれを楽しむように方向を変えて戻ってくるが、わずかだ。その間もギズは撃ち続けたので、修復は時間がかかり、間に合わない。ついに、男の口のあたりが消え、悲鳴も消えた。そして、ある時、身体のすべてが消えた。族長だった男は、孤塔の中から姿も、気配も消した。
「おのれ、塔師め――」
壮年の男の涙声が、幼い少年の口から洩れている。族長の男が消えたと確かめるなり、ギズは長銃を放り投げる。ジェルトのもとに駆け込んで、小さな身体を捕まえた。
「離せ、貴様、離せ」
壮年の男の声でジェルトは叫んで、何かを守るように腕を引っ込める。そこか――と、ギズがそれを見つけるのは簡単だった。
「手に持ってるのが、さっき話してた石か? それがなきゃ、おまえ達はこいつらを操れない――合ってるか?」
「やめろ、やめろ!」
ジェルトの細腕が死に物狂いで暴れる。でも、幼い少年が抵抗したところで、小さな手を開かせるのは簡単だ。指の隙間に黒い石が握られているのを見つけると、指で掴む。引っこ抜いて、奪おうと――しかし。
「なんだ?」
石が指に触れるなり、ギズも悲鳴をあげた。指が触れた瞬間、その石から飛び出した磁波の刃に貫かれた気がした。
ギズの手がすくむと、ジェルトはほっと息を吐いて、今の隙に逃げようとばかりに身をよじる。
「させるか」と、ギズはもう一度石に手を伸ばした。
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