秋茜

「こなたは鬼哭にあらず。我、鬼柳楓が命名する」

 楓の筆が宙に文字を描く。


『秋茜』


 黒い塊が無数の赤とんぼに姿を変えた。とんぼは小さく羽音をさせ、旋回をはじめた。

「とんぼ、か」

 樹が目を細めた。

 古来よりその飛び方から『不退転』を表すとし、縁起物とされてきた。迷いながらも戻れない楓の苦悩と決意の選択だ。

「なあ、楓。お前、俺が婚約者に選ばれた理由を知っているか」

 向き直った樹の真剣な表情に、楓は思わず視線をそらした。

 何故、今、そのようなことを聞くのか、と思う。

「それは、お前がお爺様のお気に入りで……」

「やっぱり、そう思っていたんだな……無理もないが」

 赤とんぼは部屋の中を飛び回り、それを追いかけて、猫がじゃれている。

 樹は仏壇に灯したろうそくの明かりをそっと消した。

「ご隠居が、結婚相手に名乗り出た俺たちにした質問は『楓が命名師を辞めたいと言ったらどうするか?』だった」

「そう……」

 どうやって引き留めるか、ということなのだろうか。連れ戻されたあの時から、命名師以外の人生を諦めたというのに、祖父はまだ、自分を信用していないのだろうか。

 手にした筆に視線を落としながら、楓の心はほろ苦さを感じる。

 樹が指を立てると一匹の赤とんぼが、その指の上にとまった。

「楓を説得すると言った男もいたし、楓は辞めさせ、自分だけが命名師を続けると言った男もいた。俺は、お前と一緒に命名師を辞めて、表の世界で普通に暮らすと答えた」

「どういうこと?」

「ご隠居はお前の人生を縛ってしまっていることを、ずっと後悔なさっているらしい。とはいえ、お前の許可なく相手を決めちまうあたり、現実には、お前を手放して自由にさせる気は毛頭ないのが本音だろうけど」

 くすくすと、樹は笑う。

「樹、お前……」

「だから、俺は本当に鬼柳の家はどうでもいいんだ。もし、ご隠居が他の男を婚約者にすると言ったら、それこそ、お前をかっさらって逃げる気だった」

 その言葉に驚いたのか、とんぼが樹の指から離れていく。

「樹……」

「だから安心して、俺に惚れろ。命名師としての鬼柳楓がいなくなっても、俺はお前に夢中だ」

「……自分勝手な男だ」

 言葉とは裏腹に、楓の唇に笑みが浮かぶ。

 自意識過剰なこの男の思惑通りになるのは、どうにも癪に障る。それでも、命名師でなくても良いと言われたことで、楓の中の何かが溶けた。

「まずは、こいつらを自由に飛ばせてやろう」

 樹が、長年閉じられたままだった窓を開いた。

 外のひんやりとした空気が部屋に流れ込んでくる。

「ああ」

 頬をなでる風に秋を感じながら、楓は、僧侶から受け取った横笛、龍笛を口にする。

 柔らかな音色が流れ出し、それに合わせたように秋茜たちが部屋を飛び出した。

 楓の音にあわせ、樹も篳篥を吹き始める。

 いつの間にか、夕刻を迎えていたのだろう。

 紅に染まる空へ、たくさんの秋茜が消えていく。

 そして。

 楽の音を聞きほれるようにしていた猫の姿も、傾いた柔らかな日の光の中に溶けていった。




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鬼哭抄 秋月忍 @kotatumuri-akituki

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