鬼女

 踏み込んだ部屋にはいると、冷気を感じた。

 障子戸がしまり、外光がはいってこない。

 暗いはずの部屋に、ポツリ、ポツリとたくさんの鬼火が灯っている。青白い光に照らし出されたその部屋は、仏間のようだ。

 入った途端、猫が唸り声を上げ始めた。

 仏壇の前に立っていた、白い和服を着た人物がニタリと嗤う。

 頭に銀に光る角。唇から覗く、鋭利な牙。白く長い髪。赤く光る目をした、まさしく『鬼女』だ。

 右腕を突き出し長い爪で躍りかかってきたのを、楓は、脇に転がってよける。

「楓!」

「平気だ!」

 片膝をついたまま、楓は扇子を構える。鬼女は楓をターゲットに決めたようだった。

 爛々と光る眼に、楓の姿が映っている。鬼女が身体を動かすたびに、この部屋にあるもの全てが呼応しガタガタと揺れる。大気すら攻撃的だ。

「かなり『強化』されているな」

 樹の声が険しい。

 この家に『鬼』を見たのは、一人、二人ではないのだろう。幾人もの人間に『名』をつけられた鬼哭はすでに『鬼』だ。このまま放置すれば、人を喰らうようにもなるだろう。

 鬼女は爛々と目を輝かせ、右手を振り下ろす。

 青白い炎が大きく燃え上がり、楓に向かって飛んできた。家鳴りがして、足元が揺れる。

「鬼柳の名を甘く見てもらっては困る」

 楓は扇子をさっと開き、炎を転がすように鬼のほうへと追い返した。

 鬼女の目が怒りでさらにつり上がり、咆哮をあげた。

 人ならざる鋭敏さで跳躍し、楓との間合いを詰めて、手を振り上げる。

「させるかっ!」

 樹の手から白い紐がのびて、鬼女の右腕を縛り上げた。

 鬼女の怒りに満ちた声がピリピリと大気を震わせる。

 猫がその声に対抗するように、シャーッと威嚇の声を上げた。全身の毛を逆立たせ、鬼女を睨みつけている。

 楓は、間合いを詰め、懐に飛び込み、後ろに回りながら、鬼女の自由な腕を取り動きを封じた。そして扇子を閉じると、そのまま鬼女の背に刺すように打ち込む。

「今生の名は、真にあらず」

 暴れる鬼女を押さえながら、楓は呪言を唱える。

 樹と楓の二人に取り押さえられながら、鬼女は暴れながら、形を失い、黒い塊に姿を変えていく。

 家鳴りが激しい。鬼火が主を捕らえている楓を焼こうと飛び回る。

「おとなしくしな」

 樹が紐を持ったまま、反対の手で何かをばらまいた。

 清めの塩だ。

 鬼火は、降り注ぐ塩に打たれ、しゅるしゅると音を立てて消えていく。

 家鳴りがおさまり、鬼火が消え、暗闇が訪れた。

「鬼哭よ、姿を見せよ!」

 楓の叫びとともに 仲睦まじい家族の姿が浮かぶ。

 やがて、年老いた夫婦が仏壇の前で泣き崩れた。

 そして。老婆一人になった。老婆は、ただ、祈る。

「子に先立たれたようだな」

 持ってきていた懐中電灯で、仏壇のそばに飾られた遺影を照らし樹が呟く。

「人はいつか死ぬ」

「楓?」

「孤独の中で、捧げる祈りとは、なんだったのだろう」

楓は、仏壇を覗き込み、僅かに残っていたロウソクに火を灯した。

暗闇の中、炎がゆらゆらと揺らめく。

「いろいろあるだろうな。故人に逢いたい気持ちと、孤独でも、なお生きたいという気持ち。答えは、一つでは無い」

「答えは一つではない、か……」

 仏壇に手を合わせ、楓は立ち上がる。

 ゆっくりと障子戸を開けて、外光を入れた。部屋の中央には黒い塊が浮かび、猫は部屋の片隅の畳で爪を研ぎ始めた。

「鬼柳家に生まれた時から、命名師になることしか道がなかった」

 筆を手にしながらも言葉が苦い。

「一度だけ。半年ほど家出をしたことがあってな」

「家出?」

「こっそり就職して、一人暮らしをした」

「何をしていたんだ?」

 樹の目に好奇の色が浮かぶ。

「テーマパークのマスコットの『中の人』だ。本当に楽しかった」

 大人も子供も、キラキラとした目で楓を見てくれた。楽しい時を人に与える職業というのは、自分をも幸せにできた。体力的に楽な仕事ではなかったが、充実していた。

「お前ほどの美人が、着ぐるみの中とはもったいない」

 樹が苦笑する。

「だが、そんな場所でも鬼哭をみつけた。やむを得ず、『力』を使ったことがきっかけで、私は鬼柳の家に見つかって、連れ戻された」

 楓はため息をついた。

「両親を早くに亡くし、祖父母に育ててもらった恩をなんとするのかと親類に攻め立てられた」

 楓の才能は鬼柳家の中でもずば抜けている。

 祖父母は、楓を手塩にかけて育ててくれた。家出は、確かに祖父母への裏切り行為ではあった。

 それでも、幼いころから一択しかない人生に反抗したかった。

「結局、命名師でない私に何の価値もないのだ……」

 命名師である以上、心を揺らしてはならない。それ以外の人生を描くような揺らぎは禁忌だ。

 でも、だからこそ、わかる。

 迷いながら、祈る気持ちが。揺れ動く孤独が。

 楓は筆を握り締めた。

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