台所を出ると、居間と思われる部屋に出た。畳の上にカーペットを敷いている。

 テレビにベッド。タンスに鏡台があるところを見ると、老婆は、ほぼこの部屋ですごしていたのだろう。全体に埃をかぶって白くなっている。ベッドサイドには、病院から処方されたと思われる薬袋が置かれていた。

 死因等については聞いてなかったが、持病があったのかもしれない。

 薄いカーテンの向こうに、鬱蒼となっている庭が見えた。

 部屋は全体的に薄暗い。何かがざわざわと音を立てている。まだ名のない鬼哭が、この部屋には残っているようだ。何かを悲しみ、苦しむ『気配』が部屋に満ちている。

 日の当たらぬ影となっている壁側のふすまが、ほんの少しだけ開いていた。その隙間に向かって、気配がどんどん流れだしはじめた。

 明らかに、奥の『何か』が、楓たちの気配を察して、力の強化を始めている。

「奥の奴は、かなり力を持っているな」

 樹は眉間にしわを寄せた。

「この辺りの鬼哭がどんどん吸い上げられている」

 楓は扇子をとりだした。

「これくらいのものなら、通常なら放置しても構わないものだが。今回は力を削いでおいたほうが良さそうだ」

 『名』が付く前の少量の鬼哭は、自然の中で浄化される。それこそ、この家を換気するだけでも変わるだろう。だが、『名』付きがいた場合、鬼哭は、名付きの力となる。力の源は削いでおくにこしたことはない。

 ひらり。

 楓は手をついっとのばし、薄暗い部屋の片隅にたまった黒いものを扇子で掬いあげる。そして、それを扇子の上で弾ませながら、扇子を裏、表と動かした。

 楓の扇子が翻るたびに、黒い塊は大きくなる。

 ちょうどバレーボール程度の大きさになったところで、楓は扇子をパタリと閉じた。

「鬼哭よ 姿を見せよ」

 黒い塊の中に、体の痛みに耐えている老婆の苦悶の表情が映る。

 助けを求めるように、薬に手をのばす。震えた手では、薬を口に運ぶことすらおぼつかない。

「痛そうだな……」

 樹が呟く。

 孤独の中で、痛みや体の不自由さに耐えたのであろう。

 楓は筆を取り出し、塊に筆を浸した。

「こなたは鬼哭にあらず。我、鬼柳楓が命名する」

 楓の筆が宙に文字を描いた。


『猫』


 黒い塊が、茶トラの猫に変わり、くるりと床に舞い降りた。現実の猫と、ほぼ変わらない。しなやかなその動きは、おそらく、老婆が夢見たものだろう。

「おいで」

 楓が手をのばすと、猫はその手に首をこすりつける。

 ふんわりとした身体を楓は優しく抱き上げた。実際の猫より体温は低めだが、冷たいわけではない。命名師は自分の知っているモノならば、かなり正確にモノを作り替えることができる。もっとも、生物に変えた場合、寿命は非常に短い。もともとが生きていないものなのだから、そのあたりは仕方がないことだ。

 楓の腕の中で、ニャ、と猫は小さく声を立てる。

「へぇ、可愛いもんだな」

 樹が腕の中の猫を覗き込む。息がかかりそうなほど距離を詰められて、楓は思わず一歩下がった。

「何故、逃げる?」

「す、すまない」

 猫を触ろうとしていたのが明らかなのに、意識をしすぎた自分を楓は恥じる。

「まあ、いいけど」

 樹は猫の顎に手をのばした。

 猫はゴロゴロと喉を鳴らす。

「何故、猫に?」

「跳んだり、跳ねたりしたかっただろうな、と」

 犬でも、鳥でもかまわなかったのだが、楓は猫以外を飼ったことがない。どちらも猫ほど正確に作り変えることができる自信はなかった。

「こいつ、どうするつもりだ?」

「奥の奴を片付けるまでは、連れていく予定だ。なかなか可愛いだろう?」

「ふうん」

 猫に触れながら樹は、楓の肩に腕を回してきた。

 びくり、と楓は身体が震える。しかし、先ほど逃げた手前、身を退きにくい。

「楓は猫派か?」

「は?」

 何を問われたのかわからずに顔をあげると、目を細めた樹の顔がすぐそばにある。楓は慌てて顔をそむけた。

「俺は、どっちかというと犬派なんだけど。そんな可愛い顔の楓が見れるなら、新居では猫を飼うことにしようか」

「新居?」

「最近はペットを許可してくれるマンションもあるし」

「何の話をしている?」

 樹はニヤリと笑う。

「さすがに、新婚の時くらい、鬼柳のご隠居さんたちと同居じゃなく、二人だけでイチャイチャしたいだろう?」

「……鬼柳家の頭首の座が欲しいなら、くれてやると言っているのに」

 楓は、猫を胸に抱きしめて動揺を隠す。どうして、こうもこの男は楓の心を揺らそうとするのか。

 しかも、仕事中だというのに。

「だから、鬼柳家はいらんと何度も言っている」

 樹は大きくため息をつき、唇が不満げに歪んだ。

「鬼柳家の頭首の座を欲して、お前に言い寄る男がいるのは事実だ。だが、全ての男がそうだと決めつけるな」

 ガタガタと家鳴りが大きくなり、足元が揺れ始めた。

「……鬼柳の名のない私など、何の価値もない」

 楓は話を打ち切って、ふすまに手をかける。猫が不安そうにニャッと小さな声を立てた。


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