「埃が多い」

 楓は言いながら、マスクと懐中電灯を取り出す。

 玄関の扉を入ってすぐに高い床と座敷が見える。正面には半開きの扉があった。

 扉の奥はどうやら台所のようだ。

 風もないのに、時折、家鳴りがする。何かが泣いているような微かな声が漏れてくる。ひとの負の感情から生まれた鬼哭が巣食っている証だ。

「いるねー。そこに」

「どうやら、最初から『名』つきのようだ」

 建付けの悪い扉の前に立ち、そっと奥を覗く。

 台所には大きな窓がある。窓のそばに木が生い茂ったのか、昼間だというのにそれほど光は入っては来ないようだ。それでも、何処に何があるのかくらいの判別はできる。

 シンと静まり返った台所は、時が止まったようになっている。一人で暮らすには、大きすぎる台所だ。もともとは、大家族であったのかもしれない。

 おそらくはかまどを使っていたころの名残だろう。台所の半分は三和土だ。その上にすのこをしいて使っていたようだ。

「ふむ」

 楓はゆっくりと台所に入って行く。

 埃をかぶった食器棚。親類縁者がいないということで、近所の者が多少整理をしたのかもしれない。食品や調味料の類は見えなかったが、鍋や調理器具はそのまま置かれていた。

「いる」

 樹はそっと楓の前に立つ。

 ざわざわとしたものが、光の差し込まぬ影のなかに蠢いた。

 それは、明確な『形』をとっている。

「汲むのは無理だ。かなりたくさんの人間に『見られ』ている」

「そうだな。改名が必要だ」

「これくらいなら、俺一人で十分だ。任せろ」

「謝礼はないと言っている」

「楓の感謝があればいい」

 樹は言うなり、麻で作られた紐を手にした。

 蠢くものは、しだいに集まり始めて、大きくなっていく。

 姿かたちは『鼠』のようだが、大きさはカピバラ並みだ。銀色の目は爛々と輝き、口だけが紅い。ただし、輪郭がぼやけているような印象を受け、生物としては質感がやや乏しい。

 明らかに鬼哭が変化したものだ。

 それは、樹を睨みつけ口を開き、大きく跳躍した。

 樹の持っていた麻ひもがしなり、くるくるとそいつに巻きつく。

「捕縛、完了」

 樹は手にした紐の端をグイッと引く。『鼠』は、完全に締め上げられる形になった。

「今生の名は、真にあらず」

 捕らえられた『鼠』はのたうった。

 バタンバタンと音を立てながら、形を失っていく。そして、黒い気体のような塊に変化した。

「鬼哭よ、姿を映せ」

 麻ひもに縛られたままの塊が鏡面のようになった。

 そこには、この台所の食事風景が映しだされる。楽しそうな大家族の語らいは、やがて、一人欠け、二人欠け。いつの間にか、ひとりの老婆だけになった。

「孤独が濃いな……まあ、仕方はないが」

 樹は筆を取り出し、たっぷりとその気体をしみこませた。

「こなたは鬼哭にあらず。我、神代樹かみしろいつきが命名する」

 樹の筆が宙に文字を描く。


『柿』


 黒い塊が朱色に色づいた柿となり、ころんと転がり落ちた。

「見事だな」

「賛辞より、キスがいいんだが」

 楓は樹の言葉を無視して、床に転がった柿を拾い上げた。

 軽く布で拭うと、一口かじる。

「間接で許せ」

 そのまま、その柿を樹に渡した。

「今回は、仕方ないか」

 樹は言いながら柿を受け取り、口にする。

 樹が口にした途端、柿は光を放って霧散した。

「こんなデカイ家に一人で住んでいたんだ。家中に鬼哭が溜まっていても仕方がない」

 樹は言いながら、肩をすくめた。

「お前がいてくれて良かった。このタイプの鬼哭は、一人だと手こずる」

 楓は頭を下げる。

 ひとの『満たされない』『辛い』感情は、ある一定以上溜まると、鬼哭となる。

 鬼哭、それ自体は、嘆き、悲しむ『気配』があるだけだ。

 しかし、ひとたび、それが『誰か』に見られて、『名』をつけられてしまうと、鬼哭はいわゆるあやかしの類になり、『名』にふさわしい力を持つようになっていく。

 鬼柳家というのは、代々『鬼哭』に『名』を与える『命名師』の一族だ。

 鬼哭に名をつけ、良きものに『作り替える』。できるかぎり、もともとの『想い』を昇華できるようなものに作り替えるのが望ましい。

 孤独な食卓で生まれた鬼哭であるからこそ、樹は食べ物に作り替えた。

「だから俺を置いていくなと、いつも言っている」

「私もお前が苦手だと、いつも言っているはずだ」

「苦手と、嫌いは違うのだろう? 慣れろ」

 樹は微笑む。

「……お前のそういうところが、苦手なのだ」

 楓は肩をすくめる。

 気が付くと傍らにいるこの男は、楓の心を揺らす。

 命名師は心を揺らしてはならない。

 楓はそう教えられたし、また、経験上、そうあるべきだと自分でも思う。それなのに、この男はするすると楓の心に入り込もうとするのだ。

 しかも、この男は、決して己の胸の内をさらけ出しはしない。

──鬼柳の家なら、くれてやると言っているのに。

 名門、鬼柳家の頭首の座を欲する人間は山ほどいる。そういった者の中で、樹は群を抜いた実力者だ。ただでその座をくれてやると言っているのに、なぜ、楓につきまとうのか。

 ガタガタと家鳴りがして、楓は我に返った。

「奥へ行ってみよう。あっちは、かなりヤバそうだ」

「尋常ではなさそうだな」

 楓は眉をよせた。

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