31:見えない盤面

 ゲイル、と。

 知らず知らずのうちに声が出ていた。

 その声が、かつての俺とまるで違うことに気づいて、今見ていた光景が夢であったのだと理解する。

 そんな不愉快な目覚めを、何度経験しただろうか。目覚めなければいいのに、と思ったのも何度目だったか、と考えかけて、数える意味を感じなかったので魂魄の片隅に追いやる。

 結局のところ、俺は、過去の記憶に溺れきることもできずに、今と過去の間を浮き沈みし続けている。「今」にどれだけの意味があるのかもわからないけれど、まだ、俺の肉体と魂魄は、この時間に縛り付けられたまま離れてくれない。

 窓もなく、時計もない、明かりも一定のこの独房では、時間の流れも曖昧だ。届けられた夕食が冷めて表面が乾き始めているところを見るに、夜も更けてきた時刻だろうか、と呆けた頭で判断する。

 食欲はない。

 ここに連れて来られてから食事に手をつけた記憶がないが、全く空腹を感じない。

 じくじくと痛みを訴える左の肩を刺激しないよう、右の肩を下にして横になったまま膝を抱える。

 せめて、もう少し夢の中にいたかった。どうせ、そのくらいしか今の俺にできることもなかったから――。

 瞼を閉じかけたその時、何かが近づいてくる気配がした。足音、ではない。それが何であるのかを鈍った頭で判断する前に、音が止まる。そして、二回のノックの音と共に。

「久しぶりに遊びましょう、オズ?」

 ロイドの声が、聞こえた。

 まさか、と思いながらも何とか体を起こして、鉄格子越しに廊下を見る。

 そのまさかで、車椅子に乗ったロイドがひらひらと手を振っていた。ミラーシェードの向こう側の表情は計り知れないが、口元は親しげな――俺のよく知る笑みを浮かべている。

「基地司令が、こんなとこで油売ってていいんです?」

「私だって、慣れない仕事が大量に降ってきて疲れてんのよ。わかりなさい」

 今まで、サードカーテン基地はあまりにも暇だった。長らく時計台の霧航士ミストノートをやっていた俺が、暢気な空気に眩暈を覚えたくらいには。その基地司令として着任して今までやってきたロイドにとって、この緊急事態は紛れもなく「慣れない仕事」のはずだ。

 とはいえ、それだけが理由とも思えない。

「で、本当の目的は?」

「ゆっくりあんたの話が聞きたいのよ、オズ」

「でも、俺に話せることなんて……」

「いいのよ、どうでもいいことで。私はあんたと話したいだけだし、ここでの話は、よくも悪くもあんたの処遇には関わらない」

 よくも悪くも。なるほど、俺がここで洗いざらい吐いたところで、逆に丸々嘘をこしらえたところで、何一つ俺の未来は変わらないということだ。そして、ロイドが言葉を違えるような男でないことは、俺が一番よく知っている。幾分気が楽になったので、その場に座り込み、扉に背を預ける。

「で、何で遊ぶんです? 俺、出られませんけど」

 扉にもたれかかったまま、こんこんと後ろ手に叩く。ロイドは声だけで笑って返してきた。

「チェスでもどう? 私の記憶が正しければ、今のところあんたが勝ち越してたでしょ」

「ここからじゃ盤面もろくに見えませんよ」

「見えなくたって十分でしょ。その程度、あんたにはハンデにもならないじゃない」

 ロイドの言うとおり、何度も目隠しで打たされた経験はあるし、それ故に負けたこともない。翅翼艇エリトラを操ることと、体を使うことはてんでダメだが、純粋な首から上だけの勝負で後れを取る気はさらさらない。

「いいでしょう、受けて立ちます。今のところ俺の三十一勝三十敗十二引き分け、無効試合が二です」

「ここに来てからゲイルとして打った回数は除いて、ね」

「当然。あの下手さを再現するのもなかなか大変だったんですからね」

 ちなみに無効試合の内訳は、突然乱入してきたゲイルが盤面をひっくり返したのが一回、トレヴァーに追いかけられたゲイルを匿った結果うやむやになったのが一回。これだから霧航士ミストノートってやつは。主にゲイルとトレヴァーな。

 ロイドは、車椅子に座った膝の上に、訓練生当時よく目にした携帯用のチェス盤を乗せているのだろう。駒を置く音を響かせながら、楽しげに笑う。

「どうやら、記憶力と頭の働きは健在みたいね」

「まあ……、意識さえあれば、ですけどね」

 つい、自嘲気味な呟きが漏れてしまう。だが、そのくらいは許してほしい。俺が、一連の出来事に対してあやふやな言葉しか選べない理由は、何もかもその一点に起因するのだから。

 ロイドは一瞬駒を置く手を止めたが、すぐに再開して全ての駒を盤の上に載せ終わったようだった。

「手番は選ばせてあげる。どっちがいい?」

「では先攻で。白の歩兵をe4へ」

 かつり、と。駒が盤を移動する音が響き、俺の想像上のチェス盤の上でも駒が動く。ロイドはほとんどそれにかぶせるように相対する黒の歩兵をぶつけ、しばし、間髪入れずに切り結ぶ。

 数合のやり取りの後、ロイドが女王の駒に手を出したところで一拍呼吸を置くことにした。盤面の状況を確かめながら戦術を検討していると、ロイドがぽつりと問うてきた。

「ねえ、オズ」

 思考を続けながらも「はい」と返事すると、次いで質問が投げかけられた。

「何で、姿を消していたの?」

「……馬鹿馬鹿しい話です。一言で言えば、誘拐されたんです」

 誘拐? と、怪訝な声が聞こえてきた。そういえば、サヨも全く同じ反応だったと思い出す。本当に、馬鹿馬鹿しい話だ。大の大人が誘拐だなんてお笑いだが、当事者の俺にとっては笑い話でも何でもなかった。

 扉の側に置かれた盆から、水のコップを取り上げて、口を湿す。どうしたって、長い話にしかならないから。

「七年前、俺は、現在の教団幹部と呼ばれている連中に誘拐され、監禁されました。理由は単純で、俺が『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』の閲覧権限保持者だったから、です」

 奴らはこう主張した。

 世界の全てを記述する『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』を解析することができれば、世界の真実を手にした人類は更なる飛躍を遂げる。是非、唯一の『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』閲覧権限を持つ君に協力してほしい、と。

「俺はもちろん拒否しました。別に、世界の真実になんて興味ありませんし。それより、早く戻らなければゲイルや皆に迷惑がかかるとばかり、思ってた」

 俺が協力する姿勢を見せなかったことで、連中はすぐに本性を表した。俺が進んで協力するなんて、最初から思ってなかったんだろう。拘束されて床に転がされた俺を見下ろす連中の目は、明らかに人ではなく「もの」を見る目だった。

『そうだ。これが、人である必要はない』

『人の形をしているだけでいい。不要なものは全て削り落とせ』

 そう言ってのけた連中は、まず、俺の手足と声を奪った。とはいえ「人の形」を残すために、腱を切り声帯を潰すという形で。その後、薬と術で魂魄を壊すことで俺の自我を奪った。挙句の果てには、物理的、精神的な抵抗ができなくなった人形同然の俺を、解析機関に括りつけた。頭蓋骨を切除して、脳に解析機関との接続端子を埋め込むという形で。

「解析機関を通して『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』の情報を読み出せるように、俺を『部品』として組み込んだわけです。そんな、意志も思想も持たない、問いに答えを返すだけの『書庫』が、『原書教団オリジナル・スクリプチャ』教主オズワルド・フォーサイスの正体です」

 今も俺の手足が不自由なのは、戦闘での怪我ではなくこの時に受けた傷の後遺症だ。治療を受けて腱自体は繋がっているが、四年に渡る『書庫』として過ごした時間は、人らしい動きを忘れるのには十分すぎた。

「……長い話になりましたね。d4の歩兵を一歩前へ」

 想像上の盤面を確認し、駒を動かす。ロイドは「なるほど」と俺の話かチェスの戦局かどちらに対してかわからない感想を漏らしてから、低い声で言う。

「つまり、あんたは三年前に教団の本拠地が壊滅するその時まで、表向き教団の教主として祭り上げられながら、実際には連中の言う教典――『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』として使い潰されていた」

「ええ。先生は話が早くて助かります」

「でも、どうしてあんたが狙われたの? 『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』なんて実在自体が疑われてるじゃない」

 そう、それは当初、俺も疑問に思っていた。

 ロイドは俺の能力――もしくは「異常性」を正しく理解している。俺が『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』の閲覧権限所持者であることも。その事実を知るのはロイドと、軍関係者でもごく一部。霧航士ミストノートの同期と『エアリエル』の設計に携わる変態エロ魔女アニタ・シェイクスピア博士、それに直属の上司くらいだったと思う。

 他の連中は、俺のことを「少し勘のいい奴」としか思っていなかったはずだ。そもそも『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』なんて、一部の神学者の間で実在が議論される程度のオカルトで、存在を知らない奴が大半だ。

 ただ、『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』は確かに存在するし、書庫に触れられる人間も実在するわけで。

「ほとんど記憶はないですが、かろうじて捉えられた連中の話を総合するに、どうも連中を組織したのは数十年前に死んだ、先代の閲覧権限保持者らしいんです」

「……何ですって?」

 これは流石にロイドも初耳だったらしい。教団が爆発的な勢いで勢力を広げ始めたのが今から数年前なのだから、その前身が長らく息づいていたこと自体が意外だったのだろう。俺だってそんな教団、実際に囚われるまで存在も知らなかったのだ。

「で、厄介なことに先代が死に際に予言したらしいんですよ。自分が死んでも新たな教主が現れ、信ずる者に無限の知識を与えるだろう、と」

 かくして、血眼になって『虚空書庫ノーウェア・アーカイブ』の閲覧権限保持者を探し求めていた連中の手にかかった俺は、『教主』の肩書きを持つ、もの言わぬ書庫と成り果てた。

 三年前――、ゲイルが、俺を助けに来るその時までは。

「黒の歩兵をb5へ」

 ロイドは、盤上の駒を動かし、静かに問いかけてくる。

「三年前、何があったの? どうしてゲイルが死んで、あんたが『ゲイル』にならなきゃならなかったの?」

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