第二章 白玉洞(2)

 神山サモ・タグはヨグドゥーイ山脈の中でもエイク族をはじめとし、アルトゥン・コイ族、ウシュケ族の様々な伝承が残る地である。今でも神獣や祖霊がこの山に降臨するという信仰が三部族にはあって、深く信仰されている。

 山頂にはそれぞれの小祠があり、人々が願をかけては参拝に来る。聖水や聖油、花や布で供養されているがゆえに小祠はいつも艶やかに着飾っていて、色の上にまた色が重なり鮮やかだ。故に山頂に登れば一目で小祠の在り処が分かるという。部族に命を授かったならば、一生に一度は足で詣でるべき場と言われていた。

 シャマルとアルマは朝から複数の巡礼者を馬で追い越してきた。

 今日は馬車でないのもあるが、昨夜の山道よりもずっと道幅も広く、踏み均されていて馬を歩かせやすい。三匹が横並びになってまだ余裕があるほどだ。

 巡礼路なので民道や皇道という区分もない。実際そうはいかないが、建前上祖霊の前では巡礼者は皆平等なのである。

 山道は、山間の街道というよりはむしろ参拝路といった性格のほうが強く、商人よりも巡礼者が圧倒的に多い。小さな祠の前で祭文を唱える者や、水や花を供する者、投地して拝む者と祈り方も様々である。祠は山肌に沿うように置かれているものや、木の幹に精霊の家のように取り付けられているものなど様々だったが、山道の途中のどの祠にも花や布、それに水が奉納されていた。

 ケリシュガンは鹿毛の馬に乗りながら、ひときわ捧げ物の多い祠や自然物にだけは止まって、馬上から祈りをこめた。

 小さな祠は基本的には通り過ぎるのだが、捧げ物が多い祠はアルトゥン・コイにとって重要な神や旅の守り神らしい。彼はその都度、祠や自然物がアルトゥン・コイにとってどのように大切なもので、どのような伝承があるのかと話す。

 シャマルは深く感動するでも、つまらなさそうにするでもなしに、適度に相槌をうったり、たまに質問したりしたが、アルマにはケリシュガンの話はとても夢の溢れるもので、護衛も忘れてうっとりと聞き入った。

 子供の時分は古老の伝え話を聞くのが好きだった。古老の昔話はどんな辛いことがあってもアルマを一瞬で別の新しい世界へ連れて行ってくれる。だが、シャマルと行動を共にしてからはそういう機会は滅多にない。伝承はひとつの部族の出自や血の基礎を固めるものであるから、あちらこちらに放浪して特定の部族に長く所属しない二人が伝承に接する機会を逸するのはいたしかたない。だからこそ、昔話を歌うようにして次々と物語られるのが今でも楽しくて仕方がない。

「ケリーさんは色々なことを知っているのね。ウシュケ族の領地はどんなところなの?」

 アルマは先頭で馬を歩かせるケリシュガンの横に付いた。尋ねるとケリシュガンは顎を摩った。何となしによく顎鬚を弄るので気になるならば剃ってしまえばいいのにと思うが口にはしない。三匹横並びになれる道幅とはいえ、他の巡礼者や馬の通路を塞いでしまうので、できるだけ一列に組んで歩いていたのだ。

「うーん、そうだな。このまま山中に村が現れそうだと思うかもしれないが、ウシュケの自治領は一面の草原で、所々丘になっている。丘というか小山というか微妙なところだが、その丘がよく鉱山になっていてな。掘ると沢山貴重な石が出るんだ」

 でも、とケリシュガンが続ける。

「今度の白玉洞はちょっと特殊な場所でな。まあそれは着いてからのお楽しみにしておこうか」

「えー。気になるなあ」

 殿しんがりのシャマルがアルマに敬語を使うように指摘する。当のケリシュガンは気に介さないようすだったが、兄としての躾けだろう。アルマは幼い頃から大人に囲まれて多少の無礼を許されて育ってきた――陰でシャマルが謝っていたわけだが――ので、言葉が気安いのだ。

 山の中腹まで登ると、道が大きく二股に分かれていた。一本はこのまま更に山を登る道で、もう一本は真っ直ぐ進む道だ。前者は境界のように大きな岩が点々と置かれている。人一人なら余裕で入るが、馬が通る隙間はない。

「こっちだ」

 ケリシュガンは真っ直ぐの道に馬を進めた。

「向こうの道は山頂の祠に向かう神路なんだ」

 見れば、皆ここから馬を下り、周辺の木や水場の柱に繋いでおいてから履物を脱いでいる。馬を繋いだ場所から確実に逃さないように、見張り番で小遣い稼ぎをする子供たちまでいる。

「ここからは神の体の一部ってことで、どんなお偉いさんでも靴を脱いで登る。もし足を汚したくない場合はそら」

 指の刺された先に、木の板や布地を貼った担架のようなものを脇に置いた男たちが木陰で涼んでいる。皆、日に濃く焼けていて、まるで褐色肌を持つブグラ族やヨルワス族のようだったが、ぎょろりとした目玉を持つ顔つきは明らかに違った。

「ああいう運び屋に頂上手前まで連れて行ってもらうのさ。とはいえ、金もかかるし、急な坂の連続だから座り心地は悪いけどな」

 彼が言うには、サモ・タグの神路は天の神ウスマンの右足なのだという。祠がある山頂は平らになっていて、天の神が切り落とした足首の断面だそうだ。祠があるすぐ後ろには小さな岩の段差があって、それは足首の肉から覗く神の骨だと伝えられている。

「機会があれば一度行ってみると良い。別にエイクやアルトゥン・コイじゃなくとも参拝してもかまわないんだからな。以前だって曄帝が行幸なすっててっぺんの岩壁に字を彫って帰ったんだ。――そういやお前さんたちはどの部族の出身なんだ?」

「エイクです」

 ケリシュガンの問いに、シャマルが馬の首を撫でながらすかさず答える。本当は嘘であるのだが、曄朝時代にアルマのブルキュット族は鏖の触れが回っていたので大っぴらにできない。今はボティルの助けもあってエイク族ということになっている。勿論二人の旅券もエイク族だし、名前も変えている。アルマはもう昔の名前をほとんど覚えていない。二三個これだったかなという候補があるのだが、使うこともなければ呼ばれることもないのであまり気には留めていない。

「ただ、兄妹揃って鍛冶師には向いていなくて用心棒稼業に」

 なるほど、とケリシュガンは呟いた。彼はシャマルとアルマの騎乗する馬を見た。二匹とも全身の黒い毛並みが日の光で青く輝いている。角度によっては褐色にも見える。若い用心棒の二人が持つにしては不釣り合いに美しく立派な馬だと思ったのだろう。

「馬が好きなようだね」

「ええ。エイクは馬を駄馬としか見ていないので変わり者扱いされますが」

「世話はシャマルがしているのかい」

「半々ですね。最近は有難いことに依頼も多くなってきたので、こいつらを置いて出る時は人に任せています」

 子熊亭バンド・ボラ・エイクは中規模の宿屋だが厩はない。シャマルはボティルの紹介された民家の厩をいつも借りているのだ。

「にしても立派な毛並みだな。さすが馬好きなだけある。がこうも美しく育てるのは並みの努力ではなかなかできんだろう」

「いえ、ボティルの紹介してくれた馬丁が良いんです。僕は成人してすぐに暮らしていた集落を飛び出したんで馬の扱いすら半人前のままなんです」

「へえ、そりゃまたなんで?」

凰都こうとに憧れて」

 シャマルは苦笑した。

「とは言っても、曄国では未成年者扱いだったので一人で暮らしていけるわけもなく、結局放浪するはめになってボティルに拾われたんですけどね」

「あいつは面倒見がいいからなぁ」

 そうですね、とシャマルが笑う。白い歯列が見た目の印象と違って悪戯っぽく、もっと言えば幼く見える。出会った時からアルマに対しては保護者のように振る舞っているシャマルだが、こういう表情を見せるといっぱしの青年なのだなと感じる。

「それで、凰都はどうだった?」

 ケリシュガンは凰都に入ったことがないのだという。曰く、凰都には鉱脈がないので行く用事がないそうだ。彼が凰都として認識したことがあるのは大きな三重の城壁のみで、中の様子は全く知らないらしい。

「とても美しい街でしたよ。十二年、いや、もう十三年前の話ですが。滞在したのもたった一日だけですけどね。少なくとも僕は魅了されました」

 瑛国の前身である曄国のみやこ・凰都はかつて天帝の園をこの世に写し取ったと言われたほど美しい街だった。

 道は大理石や煉瓦で舗装され、常緑の街路樹は美しく剪定されていた。道に沿って建てられた様々な迎賓館は赤い柱や緑の瓦が白や朱色の石畳に映えたいて、すべてが一級の建築士や彫師によって作られたものであろうことは一目瞭然であった。そして何と言っても王宮である。黄色の瓦屋根が龍の背のようにずらりと並んでおり、城壁の傍からでも燦然と輝いて見えた。大きな街の中にまた大きな街が出現したような錯覚を見るのは何もシャマルだけではなかろう。

「しっかし、不幸中の幸いかもしれないな。もしそのまま凰都に居れば動乱に巻き込まれていたかもしれないだろう?」

「ええ。まさか既に国歩艱難にあるとは思いもよりませんでした」

 シャマルは憂いとも失望とも取れる複雑な表情をした。彼が曄に人並みならぬ思いを抱いていることをアルマは知っていたが、当のアルマは曄国とは無縁の生活を送っていたので一体何をがっかりしているのかてんで想像がつかない。今まで、こういった話はしたことがなかったのだ。

「何でも大将軍が帝から王位を簒奪しようと裏で画策してたんだってな」

「噂には聞いています。僕は遠目から将軍を見たことがありますが、何ていうか、とても恰好良くて憧れていました。人は見た目によらないものですね」

 栄えある曄国は三年前に滅び、今は「瑛」と名と支配者を変えて旧国の領土を受け継いでいる。瑛国建国直前の混乱期に凰都は大きな被害を受け、今なお復旧は完全ではない。シャマルが憧れた凰都は新たな為政者の元、新たな文化を徐々に吸い取って変化し続けているのだ。

 その後も二人の曄国時代の噂話や伝聞は続いた。遊牧七民族同盟イェッテ・カビーレの東側の事情に疎いアルマは二人の話に口を挟むこともできず、じっと聞き耳を立てた。

 山越えは順調だった。

 途中で倒れかけていた巡礼者に水やノンパンを施したくらいで、追剥も出なければ旅行者同士の諍いにも出くわさなかった。

 山道を抜けると、これまで幾重にも連なって緑の屋根を形成していた木々がたちまち消えて、辺りには広大な草原が広がっていた。陽は南中していた。

 馬のくるぶしほどの高さの草が爽やかな風に吹かれて緑の波間を形作る。波模様の所々に朱、黄、青紫の花が地を這うように咲いている。灌木が点在し、なだらかな丘陵が起伏して、遠くの山裾まで続いている。

 左右を見れば同様の景色が広がって、山羊と羊が白や茶の粒を草原の緑色の絨毯に描いていた。一見微動だにしないように錯覚するこれらの群れは、ほんの少しずつではあるが草を食む口を移動していた。

「ここからがウシュケ族の自治領だ」

 アルマは背後の神山サモ・タグを仰ぐ。

 サモ・タグを跨いでハシャルの町周辺とこちらとでは様相がかなり異なっている。エイク領に比べ、ウシュケ領は土地が肥沃で湿潤に見えた。理屈があったわけではないが、こちらのほうが目に飛び込んできた草の色が濃く感じたのだ。

「アク・タシュ村はここから北西だ。陽があと三十度動く頃には着いているだろう」

 ヨグドゥーイ山脈の北西にスブ・ユルト山というのがあるらしい。アク・タシュ村はその山の麓にある小さな村だという。

 ケリシュガンが言うには白玉洞の他には目立った特徴のない草原の村で、人々は山の木々を削って化粧した板を縦に並べて組んだ家に定住しながら、周辺に放牧をして生計を立てているらしい。ここは緑豊かなのでわざわざ家畜の食料のために移動しなくても良いようだ。それとも家畜の数を規定しているのか。

「ウシュケ族はかなり深く神々を信仰しているから、あまり迂闊に茶化すなよ。奴ら不思議な力を持つ神懸りな者たちもいるんだが、偽物も多いから宗教布教者の話は半分で適度に流すようにな」

「心に留めておきます」

 ウシュケ族には神秘主義者や隠者が多く、皆がそれぞれの信心を掲げてはいるが、根底はウシュケ――山羊の神霊――の伝承体系を引き継いでいる。宗教先導者や聖人と呼ばれる者はウシュケ自治領内で神秘的な体験をした者が多い。

 そうそう、と付け加える。

「今から行く白玉洞の巫女は本物の神懸りさ」

 ケリシュガンは片目を瞑って口角を上げた。

 白玉洞などの聖地は本当に神秘的な力を持つ人間にしか巫女にはなれないのだという。普通の人が見えない大地の気脈や大気の気流を視ることができるのだ。

 アルマはきらきらと目を輝かせた。伝承や神話に語り継がれる神秘的な巫女様を想像するとうっとりする。手綱を持つ手を胸の前に合わせるアルマにシャマルが近寄る。

「君は巫女様の周りで騒いだり喜んだりしないんだよ、アルマ。巫女様が神懸りと言えど僕らと同じ人であることには間違いないのだからね」

「はぁい」

 釘を刺されたアルマは唇をつんと尖らせた。

 少しの湿気を孕んだ風が緑の波を縫って行く三匹の毛並みを撫でつけた。

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