最終話:狂える世界とボヘミアン

最終話

誰も傷つかない。


そんな都合のいい幻想ゆめを見ていた時期が、確かにあった。


今よりずっと、大人になれば。

今よりずっと、強くなれれば。


何かをきっと、守れるはず。

誰かをきっと、救えるはず。


けれど世界は、非情さに満ちていた。

自分の手が届く範囲、その中の、ほんの一端でさえ、悲嘆なげき悲哀かなしみから他者だれかを救うことができない。




豊かな都を旅した。

──────────そこで、かくひそむような悪意を見た。


辺境の山村を旅した。

──────────そこで、つどかこうような悪意を見た。


南海の孤島を旅した。

──────────そこで、にごまるような悪意を見た。


覆い隠された戦場を旅した。

──────────そこで、よろこさけぶような悪意を見た。




そして、それらがもたらす、おびただしいかばねの山。


他者だれかを助けられたのか、そうでないのか。

なにもわからぬまま、旅先を去ることもしばしば。

なにひとつ変えられぬ自身の無力を知り、おのれの手を見る。




もちろん、旅の中で、人の光も、垣間見かいまみはしたけれど。


その彼我ひがの差は、歴然で。

いつしか心は、えていく。

凍りゆく心を自覚しながら、光の欠片かけらを探す旅。


だが、見せつけられるのは、人の心の闇ばかり。

そんな旅が続けば、嫌でも気づく。








人間が生きている限り、邪悪あくい憎悪にくしみは消えることはない。

ゆえに、人々は、永遠に救われることはない。







なんて醜悪な世界。

なんて残酷な人間せかい


こんなことを知るくらいなら、あの時、あの場所で、死んでいればよかったのに。

そう、涙を流しはしても。


命は続く、せかいは回る。

ならばこの身はせめて、誰かの景色しあわせを守るために在り続けようと。

それでも誰かの笑顔を守る、ひとつの盾になるのだと。


自らには願望のぞみのない、伽藍堂がらんどうの心。

いびつ理想ねがいを抱いて、かたくなに歩き続け、ひとり。

延々と、人間ひとの矛盾を、見つめ続けることになる。








平等をきながら、他者だれかしいた

平和をとうとびながら、他者だれかを殺し

愛情をうたいながら、他者だれかを排す








ああ──────────なんのことはない。


人間のせかいは、とっくの昔、根本からして、破綻くるっていた。


そんなせかいの中で。

純粋に、正しさをくすまいと。

自分の理想ねがいを捨てずに生き続けようとすれば、それは。




異端者ボヘミアンとして人々せかいからうとましがられ。

漂泊者ボヘミアンとして人々せかいからはずれた旅路いきかたをするしかない。








─────────────それでも、夢旅人ボヘミアンであり続けようとおもった。








理想ねがいが叶わぬことを悟りながら、信じ続けている。

他人だれかから見れば道化のような、そんな旅路いきかた

誰の理解も、祝福もない。


辛く、苦しく、後悔ばかりの道行き。

しかし、この旅路いきかた未練おもいのこしはないと。


それだけは胸を張って、歩き続ける。




その道で、あのひとと出会った。




あどけない笑顔でいて、深遠な瞳。

銀色の髪を躍らせて、高貴なたたずまい。


不思議な子だな、と素直に感じたのが最初の記憶。


初めて見た時の出で立ちは、青色のスポーツウェアに、パーカーを羽織っただけ、というもの。

気軽さ、ラフさが半端なかった。


自分と同じ年頃の女の子かと思いきや、なんと伝説の〈吸血鬼ヴァンパイア〉で、お姫様。


〔ははぁん、わかりました。さては、ひねくれ屋さんなのですね?〕


もっとも、初めて会った時は、やたらお姉さんぶりをしたがる、世間知らずのお嬢様としか思えなかったのだけれど。


そんなこんなで騒動に巻き込まれ、あれよあれよと大冒険。

気がつけばあのひとと共に、〈人外アーク〉のカルト集団を向こうに回し、地球の危機に直面することになった。


……ああ、そういえば、この時も、〔敵〕のお題目は、人々の〔救済〕だった。

大地の精霊の集合体、星の巨竜、〈災凶竜〉を呼び起こすことで、龍脈を乱し、〈大破壊カタストロフィ〉を引き起こす。

そして、地上の生命体を間引けるだけ

──────────それが、地球という惑星ほしの寿命を延命させる方法で、人類という種、そのもののを永続させる、唯一の手段なのだと。


まったく、〈救世主〉を名乗る輩は、どいつもこいつも極端だ。


〔知るものですか! そんなこと!〕


その時の〈救世主〉に、あのひとは、思うさま啖呵たんかを切った。


〔わたくしにわかることは、わたくしの真実きもちだけ。それは貴方も同様です。そんなこともわからずに他者だれかを救おうなどと、思い上がりもはなはだしい!〕


格好いいなあ、このお姫様。


そんなことを思いつつ、最終的には僕も〈救世主〉を許せなくなり、我を忘れるほどに大激怒。


呼び起こされた〈災凶竜ラスト・ドラゴン〉を、〈輝源力吸収ジェネシス・ドレイン〉で弱体化させ、どうにかこうにか殴り殺したその直後。


夜明け前の海岸、崖の上で、あのひとは、ズタボロになった僕を、抱きしめてくれたのだった。






〔ありがとう〕


───────別に、お礼を言われることじゃありません


〔……え?〕


───────僕はただ、あの男のやることなすこと、全部を認めたくなかった



竜を殺してなお収まらぬ怒りに、そんな風な八つ当たりを、あのひとに言ったのだったか。



〔…………それでも、ありがとう。あなたは、人々の未来あしたを、守ってくれたから〕


───────そこまで、考えて動いたわけじゃありません


〔それは、嘘です。……考えてはいなかったのかもしれませんけれど。あなたはきっと、わかっていた〕


───────なにを?


他者だれかが命を落とす理不尽に憤る、正しい怒り─────正義を〕


───────なんですか、それは



反射的に、僕は強がりのような、あま邪鬼じゃくをやってしまっていた。

あのひとから逃げるように身を離して、わめいてしまったのだ。



───────そんなものは、この世のどこにも存在しません


〔………ひねくれ屋さんなのですね。確かに、口に出してしまうのは、気恥ずかしいのでしょうけど〕


───────そんな虚構みえないものを、信じてるんですか?


〔信じていますとも〕




きっぱりと、あのひとは断言した。




〔この世界の誰もが否定しようとも。わたくしひとり、ただひとり、信じ続けます。でも───────〕





あなたも信じていてくれるなら、心強いです、と。

あのひとはそう言って、微笑んだ。





…………ああ、よかった─────────。


あのひとの言葉に、心の底から、そう安堵あんどした。


理想ねがいもって歩き続けるこの旅路いきかたは、間違ってはいなかったのだと。

そう思えたのだ。


それまで心の中で渦巻いていた怒りも、どこかに消えて。

緊張の糸が切れたように、僕は、あのひとの前で、ガクンと片膝を地面に落としてしまった。



〔……ニフシェ・舞禅。これからはどうか、わたくしの、騎士になってください〕


───────え?


〔特に目的もなく世界を旅している、と言っていたでしょう?〕


───────それは、そう言いましたけど


〔なら、わたくしの騎士として働いても、かまわないでしょう?〕


───────いや、なにが『なら』なのか、つながってませんけど


〔あら、では、嫌なのですか?〕



まったく、そんな言い方をされては、かなわない。

押しに押されて、押しきられたような。

そんな会話のさなかに、あかつきの光が差して。


夜明けと共に、僕は、あのひとの騎士になる契約をわしたのだった。




〔すべてはお気に召すまま、気の向くままに。………でも、末永く、よしなに〕




そう言って微笑わらった、あのひとの姿は、きっと一生、忘れることはない。


なんだ。


この時にはもう、あのひとのことが、好きになっていたのだ。

あのひとの笑顔しあわせを、守りたいと願っていたのだ。


ああ─────────────────────困ったな………………。


今、まさに、死にかけていることを思い出してしまって。

同時に、未練おもいのこしを抱いてしまった。


もう一度。

もう一度だけ、あのひとの。




姫様の笑顔を見たいと──────────────                  







泥濘でいねいの中を、落ちていくような感覚があった。


目を開けているのか、開けていないのか。

意識が戻ったのはいいが、視界がはっきりとしない。


身体に苦痛は感じなかった。

だがこれは痛みが消えたわけではなく、肉体の限界を越えすぎて、痛覚が麻痺してしまったのだろう。


そのせいで、体調不良からくる精神的苦痛も感じない。

そうすると、意識があるだけでも、奇跡と言っていい状態だった。


しばらく落ちる感覚だけを感じていたが、断続的に目に入ってくる光景で、今、自分がどのような状態にあるかがわかった。


周囲は黒一色の虚空。

眼下には、黒い海と、暗灰色の都市。

海岸沿いにポツリと見えた、白い、できそこないのピラミッドの輪郭りんかく


そう───────どうやら僕は、神楽市の上空を、落下しているらしかった。


姫様が持つ魔法の護符を座標にしたとはいえ、急造でこしらえた〈銀〉では、おおまかな位置への次元転移しかできなかったようだ。


格好としては、ほぼほぼ頭から地上へ落ちる体勢で、落下中らしい。


元の〈物質世界マテリアル・プレーン〉に戻って来れたのはいいが、このままでは海に墜落する。


どの程度の高さから落ちているのかはわからないが、海面に激突したら、僕の肉体は端微塵ぱみじんになるのは間違いなかった。


顕現天使エヴァンジェル〉の不死性も、そこまでは埒外らちがいだろう。


…………まあ、姫様のいる世界で死ねるだけ、ましなのかな。

そんな、前向きなのか、後ろ向きなのかわからぬことを、うっすらと思い浮かべ。


すべなく、無明の空を、落ちるがままに、落ちていく。


───────高々度の空の気温は、マイナスだっけ、どれくらいだったっけ。

ほとんど死んでいる身体で、外気の心配をしても意味はないのだけれど、そんなことを考えるほかに、できることはなにもなかった。


もう、指先ひとつも、動かすことができない。


顕現天使エヴァンジェル〉の超回復能力が、まるで働いていないのだ。

〈世界〉ひとつ壊すために、この身に宿るすべての〈力〉を出し尽くしたのだから、当然の結果だった。

むしろ、それだけで済んで僥倖ぎょうこうと言うべきなのだろうか。

このまま〈魂魄消滅ロスト〉したとしても、おかしくはない状態だ。


……意識のほうも、秒ごとに、飛んでいる気がする。


空中で気絶したまま、海に落ちて絶命、という形に、なり、そう、か──────────。

まともに、思考も、できな───音と、目にす─────も、ない。


風の音。


自分の体が起こす音。


暗闇、街。


まだ明けない空。


闇───闇、闇、闇、闇、空、夜─────────────────────。








地上にひとつ、星が見えた。








さだかではない視界で、かすかな光をとらえた。


薄れゆく意識が、そのかすかな光に、引き戻される。

───────それは、夜闇に包まれる中でともされた、街の灯りだった。


それが、徐々に増え、広がっていく。

人為的に封じられていた電力網が、復旧したのだろう。


…………地上の混乱は、収まっただろうか。

姫様とボーア老公は、無事に救助されただろうか。

あの男が消滅したことで、巨大な魔力障壁まりょくしょうへきの結界が消えていればいいのだけれど。


手放しかけた意識で、ぼんやりと、あれこれ浮かぶ心配ごと。


今の僕にはもう、どうしようもないことばかりだけれど。

せめて、姫様の安否だけは、確認してからきたかった。


それだけが、唯一の心残り。


…………………………………………………………………………………………と。


うっすらと、きたるべき最後の時へ覚悟をしている僕の目に、ひときわ強く輝く閃光が飛びこんできた。


それは、蒼い炎をまとったきらめき。

まるで、地上から飛び立った流星のよう。


そう、その煌めきは、凄い速さで夜空を飛翔し、こちらに向かって近づいてきているのだった。


光速で飛んでいるのか、と、おぼつかない頭で錯覚するほどの、尋常でない速度。


…………確証はなかったけれど、その煌めきの正体に、心当たりがひとつあった。

唯一の心残りが、心当たり。


いやはや、なんの洒落しゃれにもなっていない。

嬉しいやら、苦笑したいやらの心持ちなのだが、残念なことに、表情筋すら動かすこともできないのが、今の僕である。


だから、自由落下に身を任せるがまま、待つことにした。


蒼い煌めきは、またたく間に、落下する僕へ急接近してくる。


やがて、その姿を、おぼろげに視認することができた。


僕の心当たりは、間違っていなかった。


二枚の青い翼を背に広げ、夜闇を飛翔する、少女の形をした蒼い煌めき──────────。


マリア・アルトヴェリア王女殿下。

僕の、一番大好きなひと。

姫様、だった。


姫様の無事な姿を目にして、心底ほっとする。

だが、姫様が、その顔に浮かべた表情が必死そのものだったので、不安もよぎった。


またあれから、何事か起こったのだろうか。


いや、それよりどうして僕が空を落下中だと気づいて─────ああ、魔法の護符を使ったのか。


……姫様は、僕の体へ手が届く距離まで近づくと、落下する僕に並行するようにして飛行を続けた。

そして、僕の落下速度と姫様の飛行速度が等速になった時。

姫様が、体当たり気味に、僕の体を抱きしめてきた。


グン、という軽い衝撃を覚えたかと思うと、落下速度が劇的にゆるんでいった。


視界が、夜の虚空の中にいるとは思えぬほどの、光に満たされる。


それから、姫様の顔が、ありえないくらい目の前に迫って──────────。

唇に、柔らかで、甘く、力のある感触を覚えた。


……………………えっ。


今の、は──────────────?


自分の身になにが起こったのか、きちんと認識する間もなく、姫様の顔は離れた。


それから今度は、僕の左首筋に、サス……と、優しく、なにかが触れた。

次の瞬間、僕の頸動脈が、爆発した。

もちろんそれは錯覚だったのだろうけど、それぐらいの、凄い灼熱感だった。


その熱が、僕の首筋から、一気に体の隅々まで広がっていく。

ああ。

これは、命、だ。


姫様が、僕に、ご自身の血を、分け与えられたのだろう。

僕の身体に、わずかだが、活力が戻った気がした。


それでついでに、思い出したことがあった。

吸血鬼ヴァンパイア〉の輸血行為。

それは、自分の〈眷属〉に魔力を与える時に行われると聞いた。

そして………純血統の〈人外アーク〉、それも、王族の間では、愛情を相手に示す行為である、とも。


緊急事態とはいえ、僕なんかのために、申し訳ないことをさせてしまった。


と、いうか。

そうだ。

〈銀〉に飛びこむ前に、姫様に告白してしまったのだった。


勢いで、庶民の、しかもどこの骨とも知れぬ若造が、暴走気味に、やってしまったのだった。

どうしよう。

今更だけど、どうしよう……!?


告白をするだけして、事件を解決したあとのことは、これっぽっちも考えていなかった。

………不敬罪とかに、該当しちゃったりするのだろうか。


いまだ体を動かすどころか、声を出すこともできない状態なので、姫様に弁解も謝罪もすることはできない。

心だけが、慌てふためいて、もどかしさと恥ずかしさで死にたくなる。


〈…………許しませんよ〉


ただひたすら狼狽する僕の心に、姫様の声が響き渡った。


え。

これは……?


〈わたくしの血を分け与えたのですから。……体を触れ合ってさえいれば、精神感応テレパシーの会話くらい、できます〉


そうなのか。

それはそれとして、再び響いてきた姫様の声に、怒気がこもっているのをひしひしと感じた。

あ、これ、黙ってたらまずいやつだ、と、直感でわかるくらいに。


これはやはり、不敬罪かなあ…………。


僕の心の声も、姫様に届くのだろうか。

姫様に向けて、思念を集中してみる。


〈……どういう理屈かわからないけど、そうなんですね。えー…………それで、その、姫様、やっぱり怒ってらっしゃいます?〉


〈……怒っています〉


姫様は、僕の首筋から顔を離すと、僕の目を覗きこんできた。


〈わたくしを、婚姻前に未亡人にするつもりだったのですか?〉


〈えっ〉


〈『えっ』ではありません! 何故、わたくしを置いて、ひとりであの男と戦おうとしたのですか! 絶対に、許しませんから!〉


〈えっ〉


姫様からの矢継やつばやな言葉に、僕は、混乱した。

今の今まで瀕死状態だった僕の頭は、ただでさえうまく働いていない。

だというのに、唐突に場違いな単語が飛び出てきたので、面食らったのだ。


婚姻前?

未亡人?


……とりあえず、答えられることには、答えておこう。


〈すいません。……でも、あの大儀式魔法で開かれた別次元への『扉』は、姫様の回復を待っていたら、間違いなく消えてしまっていたでしょうし、っていたぁーっ!?〉


姫様から、耳をぎゅうっ、と引っ張られた。


〈そのようなことを訊いているのではありません!〉


姫様は涙目で、そんな理不尽なことを言ってくる。


いや、ちょっと、本気で姫様がわからない。

そもそもの意思疎通が、困難になってる気がした。


僕がそう困惑していると、姫様は、僕の体を抱きしめてきた。


〈─────こんなに、消耗しきって……。ひどい有様ありさまなのですよ。………また、無茶をしたのでしょう〉


無茶。

無茶だよなあ…………。

〈世界〉を身ひとつで滅ぼすようなことをしてきたのだから、まあ、なんと言い訳のしようもない。


言い訳はしないけれど、そうしなければならなかった理由は言える。


〈…………姫様と、姫様の信じるものを、守りたかったから。だから、頑張りました〉


〈─────────────────────────!〉


なにやら悲鳴のような、姫様の感情の波が、僕の心に伝わってきた。


〈……………………もうっ─────そんなことを言われたら、怒れないではありませんか………〉


ねたようにそう言って、姫様は僕の体をまた強く抱きしめてきた。


……しばらくの間、お互いに無言で、僕らは夜空をゆっくりと落ちていっていた。

いや、より正しく言うなら、滑空かっくうだろうか。


おそらくは姫様の〈魔渉力ミストフィール〉により、ゆるやかな飛空状態で移動しているのだろう。


気づけば、自由落下による激しい風圧もなくなっている。

姫様の、この蒼い炎をまとう光が、一種の結界として作用しているようだった。


おかげで、ようやく命の危険が去ったのだと、安心できた。


心に余裕も生まれてきたのか、夜空を姫様とふたり、遊覧飛行しているような気分にもなってきた。

地上の街灯りを眺めながら、ふたり、時間を忘れて、飛び続ける──────────。

それは、ロマンティック、なのかな。


………でも、このまま地上まで黙っているのも気まずいので、まずは、こと顛末てんまつを伝えておかなければ。


〈姫様、あの男は─────〉


〈……ニフシェが倒したのでしょう。今は、それだけで充分。詳細は、あとで聞きます〉


姫様は、強い語調で僕の言葉をさえぎった。


〈……………もう少し。このまま、なにもかも忘れて、飛んでいたいのです〉


〈………わかりました〉


なんだかよくわからないけれど、素直に了解して、姫様の飛空に身を任せる。


うすっら考えていたことが、にわかに実現してしまい、胸の内が温かくなった。


しばしの間だけれど。

この限られた時間を、大切にするとしよう──────────。


……………………………………………………………………………………………………………………。


〈……もうっっ! どうしてなにも言わないのですかっっっ!?〉


〈ええっ!?〉


なんだか良い感じで、温かな気持ちにひたっていたのだが、当の姫様からいきなりぶち壊された。

台無しだ。


しかも続けて、ぷりぷりと怒った調子の感情が、姫様の心から流れこんできた。


〈そこは、ちゃんとささやくべき言葉というものがあるでしょうっっ!〉


えっ、なにを?

と、反射的に返しそうになった思念を、危うく押しとどめる。


間違いなく、火に油案件の受け答えになるところだった。

それにしても、ささやくべき言葉とは。


弱った頭でぐるぐると思考を高速回転させたけれど、最適解さいてきかいは浮かんでこなかった。


なので、素直な気持ちを、思念の波に乗せて送ることにした。

それは、姫様と無事再会した時に、真っ先に言うべきだったこと。


〈………姫様。この世界に、姫様のもとに帰ることができて、本当に、本当に嬉しいです〉


そして続けて言うのは、これからのこと。

未来あしたへの、個人的な、ささやかな理想ねがいだ。


〈─────どうか、これからもずっと、姫様のおそばに、いさせてください〉


〈───────────────っっっっっっ!!!!!!!!!!!!!!!!!〉


思念で僕の気持ちを伝えた瞬間、大歓声のような感情の激震が、僕の心を揺さぶった。


あまりの精神衝撃に、目眩めまいを起こしたほどだった。


その余波が治まらぬうちに、姫様は、ぽす、と僕の胸元に、額を押しつけてきた。


〈……聞きたかった言葉とは違いますけれど。それ以上のことを聞けたので、よしとします〉


それから、はずんだ声、というか喜びに満ちた思念が、念を押すように伝わってきた。


言質げんちは、取りましたからね?〉


言質。

はて、今の会話のどこに、取られては困る言葉があったのだろう。


そう疑問が浮かんだが、明確な解答を姫様に問いただすのも、地雷を踏み抜くような予感がして、はばかられた。


さらに言えば、全身に、じわじわと広がりだしている感覚が、追求する気力をいでいた。

意識が遠のいていく感覚だ。


姫様から血を分け与えられ、命を取り留めたとはいえ、心身の極限的疲労は、消えてはいなかったのだ。

端的に言って、眠い。


このまま意識をたもっているのも、そろそろ限界のようだった。


〈すいません、姫様。……少しだけ、眠らせてください。さすがにちょっと、疲れちゃったみたいで〉


姫様は、ぎゅ、っと僕の体を抱きしめ直してきた。


〈ええ。わたくしがちゃんと、起こして差しあげます。だから──────────〉


安心して、お眠りなさい。

そう言ってくれたのだと思う。


と、いうのは、姫様の言葉を最後まで聞き取ることはかなわず、僕は、眠りの淵へと落ちていったからだ。


そして最後に目にしたのは、見下ろす海と、街と、空──────────。


それらに、光の幕がかけられていたような光景。


もちろん世界が輝いているのではなく、姫様の〈魔渉力ミストフィール〉の光ごしに見たから、そう目に映っただけのことだ。


知らず、あの、白い〈街〉を思い出していた。


あの〈世界〉と、この世界。

ひょっとしたら、本当は、どちらも大差のない、狂える世界なのではないか………。


そんな思いが、一瞬だけ、僕の心をよぎった。


だから、僕は、眠りに落ちる瞬間。

半ば以上まどろんだ心の内で、祈りの言葉をつぶやかざずには、おれなかった。


…………どうか、この狂える世界で生きるすべての人々に、祝福を。


そして。









虚構みえないものを信じ、理想ねがい持つ人々の前途みちゆきが、光で満ちますように、と──────────。









                      「狂える世界とボヘミアン」完


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狂える世界とボヘミアン メルヘンポエマー @merupoe

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