後編:懺悔②

「あら、軍人さん、起きたんですね。もう行かれるんですか?」

「おかげでだいぶ楽になりましたよ。ありがとうございました。娘さんにもよろしく言っておいてください」

 膚李は、なるたけ後腐れなく家を出ようとした。自分と関われば、間違いなく誰にでも戦禍が降りかる。そんな気がしてならなかったからだ。

戦場であれだけ大量の人間を殺してきた。それもすべて一人で。ならば、敵国の関心が自分一人に向くのは自明の理で、膚李はそれを恐れて人と関係を持ちたがらなかった。

自分という存在がそこにあるだけで、それは死神と同義であろうから。


「……ちょっと待ってください」

その少女の母親は、どこか悲しげで、それでいて優しげな声で膚李を呼び止めた。膚李が振り向いて見てみると、その表情は何かを手放したくないというような、名残惜しささえ感じられた。

「ごめんなさい、僕はここに長居はできませんから。また次の戦いがありますから」

「分かっています。急なお願いをしてしまうってことも。でも、ほんの少しだけ、戦場に戻るのを、待ってくれませんか。私たち、戦争で父親が亡くしていて……。多分、あなたが軍に入る頃には戦死していたと思います。だからこそ、戦争へ行く前のあの人にあなたがすごく似ていて……。今のあの子にとって、看病したあなたが戦場へまた戻ってしまうということは……きっとすごく辛いことだと思います」

「……僕は兵士です。それも、何人もの人を殺してきた。あなた達のお父さんとは、確かに年齢や雰囲気も近いのかもしれません。それでも、僕は優しくされたくはないんです。あなた達の気持ちもよく分かります。きっと僕も、同じような兵士を数多く殺してきたから。だからこそ、僕はあなたたちの願いには応えられない……いや、応える資格もないんです」


 膚李は、その母親の気持ちも、娘の気持ちも理解できた。しかし、それに応えるにはあまりにも人を殺しすぎた。悲しいかな、その父親と自分が似すぎてしまったがゆえに。境遇も、この家から離れる前の年頃も。不自然なほどに重ね合わさった人の生き死にの残り香が、膚李というその温かさを何も知らない人間に委ねられ、また戦いに行く前にその熱を感じねばならなくなってしまう。

 そうすれば膚李はまた、人の死を意識して戦うことに矛盾を感じてしまう。

 しかし、それではあの狂気と不条理の戦場では生き残れなくて。これほどまでに人の善意に報いてやることの難しさ、そして何より、大人としてそれに応えられない自分の人間としての不出来にただうつむくしかなかった。


「……はい、お兄ちゃん。これ」

 すると、先ほどまで膚李を看病していた少女が、手に一輪の花を持って膚李の前に立った。その手には金色にも似た鮮やかな橙色の花が握られ、まるで太陽の様に瑞々しさを保ったまま、少女の手の中に爛々と咲き誇っている。

 恐らく、先ほど言っていた「きれいなお花が咲く場所」からわざわざ持ってきたのだろう。膚李は、少女の前にしゃがんでその花を受け取った。

「僕のために、わざわざ持ってきてくれたの?」

「だって、お兄ちゃんまた戦いに行くんでしょ?だから、お守りにって思って持ってきたんだ。お兄ちゃんの寝顔、お父さんにそっくりで、もしお父さんが帰ってきてたらこんな風に看病してたのかなって。元気になってねって言えたのかなって。だから、お兄ちゃんが元気になって、本当にうれしかった。だから、お兄ちゃんは死んじゃだめだよ?私が看病したんだからね」


「ごめんね、僕には君のお父さんの代わりに、花を摘みに行ってあげることはできないんだ。だけど、君に看てもらったこと、ちゃんと覚えておくよ。この花をもらったことも、もちろんね」

 少し泣きそうになっている少女の頭をなで、改めて母親に会釈をすると、膚李は家を出る前に立ち止まり、親子のほうへと振り向いた。

「お母さん、娘さんはあなたが思うよりも強く育っているようです。その強い気持ちは僕ももらった。だから信じてください。僕は死なない。次に戻ってきたときは、一緒に花を見に行きましょう」

 それだけ言うと、膚李は今できる精一杯の笑顔を向け、家を後にした。この時の膚李の笑顔が、どことなく悲しげに見えたのは、きっと気持ちを無碍にしたことへの後悔だけではなかった。


できない約束をした、と僕は振り返って思い出す。またあの二人の元へ帰ってくる保証もなければ、あの二人が戦禍の中を果たして生き残れるかという保証もない。僕が生きていたとしても、僕にはきっとあの少女と一緒に花を見に行くことはできないのだと思う。

 僕には、あの少女の手の温度が暖かすぎた。熱いわけじゃない。その温かさは、人殺しの僕にはない暖かさだ。だからこそ、僕にはそれを受け入れられるほどの器はない。

人殺しの優しさは、畢竟どこか狂っている。首を跳ね飛ばし、刹那の間に死を実感させずに屠る。果たして、そんなとち狂った優しさで、僕はあの少女の手を握り返せるはずだろうか。いや、そんなはずはない。そう自分で結論を出せるほど、僕は人を殺しすぎていた。

 あの少女だって、きっと僕の服の匂いには気づいていたはずだ。どこか生臭く、錆び付き、さらには時間が経ってなおさら死を実感させてくるあの血液の匂いに。僕をより人殺したらしめる、色と匂い。あの小さな少女は、よくも目をそらさず僕を看病してくれたと思う。今はさっぱり洗濯され、ほんの少しの赤黒さを残した青に戻った服も、あのお母さんが洗ってくれたのだろう。血の匂いと、それ以外の飛び散った臓器が乾いたものと向き合いながら。分で洗ったこともあるので分かるが、擦るたびに水が赤く染まり、洗濯板から血が流れるほどに染み付いた血液を洗うことは、おぞましくはなかったのだろうか。程よい香りのする石鹸の匂いに、僕はふと意識が浮わつくのを感じた。

 僕も、母さんには時たまいいせっけんを使ってもらって、服を綺麗にしてもらっていたっけ……。


郷愁に暮れつつある膚李の前に、黄金の草原が姿を現す。戦時中という混沌の中にある、ほんの少しの自然そのままの姿。今では花畑も数えるほどしかなく、膚李自身も本の中でしかその光景を見たことはなかった。もうすぐ日が暮れようという空は、赤と青の境に紫を地平線の手前に讃えて、再びの夜の訪れを予感させている。

 しかし、それは昨日の戦場の様に暗く、そして不条理さも絶望も何も感じさせない、ただ自然の営みが存在しているだけであり、膚李はその輝きと世界の変わり目の美しさをただ感じていた。

「同じ夕暮れ時だというのに、ここまで綺麗だなんて……。戦場じゃない場所が、まだこの世界にあったんだね」

 今は敵の気配も感じない。殺気もない。血の匂いですら存在しない。人が本来いるべき場所は、このような何もなく、ただただ時間が流れていく緩やかで平穏な時間なのだ、と思い知る。眼前に咲き誇る無数の黄金の花弁は、静かに風に揺れながらその香りを載せて運んでいく。どこか甘く、それでいて儚げな香りは、膚李の手の中で揺れる花の香りと同じだった。この時、膚李はようやく少女が連れてきたかった場所と、その意味に気付いたのだった。

「君は僕にこの景色と、この花たちを見せたかったんだね……。ありがとう」

 膚李はそう静かに手に握った一輪の花に礼を言うと、草原の中へと入っていった。


風に舞う花びらを、一つ手で掬ってみる。僕の手をするっと抜けてまたどこかへ飛んでいく花びらたちは、僕が今生きている時代が戦時中だと忘れるほどには綺麗だった。夕日の神々しいまでに鮮やかな光が花びらに反射して、まるで宝石が舞っているような、そんな感覚さえ覚えてしまう。

 僕は、今までこんな景色を見たことはなかった。僕の周りには、いつも死体と血と刀が転がっていて、どこも荒れ果てた荒野にしかならなかった。殺し、奪い、そうやって生きてきたから、それにまつわる以外の景色は、僕の記憶の中にはうすぼんやりとした実感のないものでしかなかった。

 だけど、今は目の前にそんな景色がある。僕が見たことのない世界が。そして、僕が知らない、人の営みもあった。

 温かく、まだ何かを信じて前を向こうとしている幼い少女がいた。

 それを支えて、僕に父性を見出してくれた人もいた。

 僕にも、子供のためにできることがあるのだと、そう示してくれた人もいた。

 その期待には、今はまだ応えられないのだけれど。何故なら僕は、軍人として、そして人を殺して戦う以外の生き方を、まだ知らないのだから……。


 夜ともなり、膚李は再び暗い道を拠点へと歩いていた。山の裏のあの家から、拠点まではしばしの距離があり、それまでの間に何か整理をつけたいと思いながら。

 自分は一体、これからどうすべきなのか。今日ふと、膚李の中には一人の人間として、生きていきたいという気持ちが芽生えた。今までなかったわけではない。ただ、あまりにも混沌と、そして殺伐とした状況の中で消えていった感情が、再び湧き上がってきたような感覚だった。

 あの二人と出会い、少しでも語らい、そして今まで見たことのない景色を見てしまった。それだけでも、膚李という一個人にとって、今までの生き方、そしてその業を見つめなおすには十分すぎる出来事ではあった。

 この業を背負ったまま、自分はきっと生きていかなければならない。戦場で大量に人を殺し、あまつさえそこに正義があると信じてきた。

 しかし、今はもう正義も悪もない。

 では自分は何のために戦ってきたのか。生き延びるという、足掻きのため以外の目的などはもはやありはしない。その実感は、膚李の中には十分すぎるほどにあった。それでも、戦場では殺さなければ生きてはいけなかった。その生き方に身を置いた時点で、膚李が背負った業はあまりにも重すぎたのだった。


 しかし、本当にそれだけが、膚李に残された生き方なのだろうか。


「……僕の力は、どこから来たか分からない。だけど、持って生まれたものならば……、それは自分自身で使い方も決められるはずだ。ならせめて、僕はこの力で人を守っていきたい。たとえそれが、国を裏切ることになっても、それ以上に大事なものが、きっとあるはずなんだ」

 手の中の花は、徐々に枯れ始めていた。膚李は、それをゆっくりと抱き留めて、近くを流れる小川の側に植えて、ゆっくりと上から水をかけてやった。

「僕にできること……この花一つ、咲かせることも難しいけれど。それでも、僕は自分には逆らいたくないんだ」

 一人、うっすらと姿を現した月の光を見つめながら、膚李は意を決した。そして、小さな花が見守る中、一人拠点へとその足をゆっくりと、それでいて軽快に踏み出していくのだった。


「……ありがとう」

そう告げた刹那に、金盞花の花はふわりと優しく月に揺れた


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金盞花の陽炎 蒼紅命 @kuuta06

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