後編:懺悔

 この世界は、東に位置する桜華と、西に位置するディシプリンが長きにわたり戦争を繰り広げている。しかし、勝利への目的と理念は開戦から百年を経過した今、誰一人として明確には記憶していない。本来は、領土の拡大や国家の思想の対立というはっきりとした大義名分が存在していた。両国の人間は、国家の尊厳と思想を守るため、勇敢に戦場で戦い、散っていった。それゆえ、かつては高貴で主体性に満ちた戦争がなかったわけではなく、先の30年前までは、戦争という行為にあっても、まだ人間としての尊厳は保たれるべきという風潮も両国家に存在していた。

 

しかし、両軍ともにいわゆる呪術に傾倒していってから、選挙区は徐々に泥沼の様相を見せ始める。人間の声による呪詛により一種の錯乱状態にさせ、痛みを感じない兵士を作り出してはそれらを戦場に投入する。その結果、痛覚も倫理感も麻痺した戦うためだけの人間が戦場に跋扈した。そこにはもはや倫理観や人間としての尊厳はなく、あるのは目前の敵をただ屠るという、本能以下の人間崩れだった。

 それでも、大量投入と呪術者――桜華では「華扇かせん」、西国では「ストーンド」と呼ばれる――が存続し、倒錯さえさせれば脳が死亡するまでは半ば永久的に戦わせることのできる兵士は重用された。そうして次第に人間としての尊厳と国家が戦争をする意義自体は、皮肉にも戦争早期終結のための呪いによってかき消された。

 

そして、ほどの戦場の様に、ただ意味もなく怒りと恐怖の走狗と化し、撤退よりも戦闘を行うという不条理さが現れるのであった。


 この戦争に、もはや正義も悪もない。勝利もなければ、敗北もない。存在しうるのは、戦場では意味もなく人間が死に、国家はうたかたの戦争特需であぶく銭を稼いでは、無駄花に水をやり続けるかの如く戦争を長引かせる。

 奇妙なことに、両国ともに同じ思考で動き回り、誰一人としてこの状況に否の声を上げるものはいない。というよりも、国民でさえもこの戦時中に生まれたものの方が多く、誰しもがこの戦時中という状況に順応してしまっていた。親が戦争が正しいものだと錯覚すれば、その子供にも受け継がれ、やがては孫へと末代に渡るまでこの現実の異常さが伝わらないまま、世代だけが重なり、風潮として存在していたものが常識となり、常識は世論となる。国家、国民、兵士総出で泥沼、というよりは底なし沼へと集団自殺していく。まるで、その行動自体が自らと国が選んだ総意の結果であるように。

 それこそが、この世界の紛れもない実情であり、膚李はどうすることもできずただ人を殺めるしかできない己の無力と、望まぬ力の大きさに大きくため息をついた。辺りは既に日も沈み、闇と血液の生温く、それでいてどこか絡みつくような鈍重な空気が漂っている。

「……ごめんよ、いくら君たちがそっちの世界から僕を呼んでも、僕はまだ死にたくないって思えてしまうんだ」

 膚李には、この風の重さが戦場で散った、あるいは自分が殺した兵士達が冥府へと呼びこんでいるように感じられた。後ろを振り向けば、確かに冥府の入り口のような闇が、延々と光さえ見せずに広がっているように見えた。


 あの後、僕らはなんとか撤退することができた。その日は新月で夜道に光が全くなかったことが幸いだった。

先ほどの乱戦で敵の戦力は大きく分断され、統率が大きく乱れたことで敵軍は僕らの足跡を追うことも出来ず、ただ撤退していくしかなかった。それだけ、僕はたくさんの兵士を殺したことになるんだ。

 僕は一人、敵の殺気が徐々に消えていくことに全身の緊張がほぐれ、張り詰めていた筋肉が一気に緩んでいくのを感じた。足元がふらつき、全身から緩やかに力が抜けていく。

 やがて、拠点としている村が見える頃には僕の視界はおぼろげだった。今までここまで疲れたことはない。あんな風に人を殺すことは、当たり前だったんだ。なのに、今日に限ってどうして。それは、僕が一瞬でも敵兵の死に際の感情を考えてしまったからだろうか。僕は、徐々に進まなくなる足を引きずって、前に進んだ。

 歩きながら、僕は改めて考える。兵士の首を斬りおとす時、恐怖も何も感じる間もなく、気が付けば無限の闇の中へ放り込まれている。そんな感覚を、僕は何故か共感できてしまえた。自分がもし向こうの立場ならば、と。

 張り詰めた緊張の中、いつ敵に襲われるかも分からず、しかし気が付けば様々なことをやり残して死んでいく。その刹那に、一体どれだけの後悔があったのだろう。その数秒だけ、ようやく人間らしい思考が生まれて、その瞬間に死んでいく。それは、あまりにも残酷すぎた。

 やがて、村の入り口で僕の意識は暗闇へと消えていった。その時、ようやく僕は死ぬ間際に見る闇の暗さが分かるような気がした――



「あ、起きた!おはよう!」

 幼く、しかし活気のある声が微睡の中にある膚李の耳を抜けていく。

「……君が面倒見ててくれたんだね、ありがとう」

 目を覚ました膚李の前には、小さく丸みを帯びた笑顔が広がっていた。まだ五、六歳程度のその少女は、濡れた雑巾を膚李の頭から取り、額に手を当てる。小さいが柔らかく、それでいて確かな人の熱を持った人の手だった。

 膚李は、久方ぶりに感じる生の熱に、どこか体が温まっていくのを感じていた。

「うん、お熱はないね!お兄ちゃん、急に倒れたからみんなびっくりしてたよ。どっか悪いの?」

「ううん、ちょっと戦いで疲れちゃってね。だから、もう村の前で寝ちゃったんだ」

「ふーん……。すごくぐっすり寝てたね。一日くらい寝てたよ。お兄ちゃん、そんなにたくさん戦ったの?」

「あ、起きた!おはよう!」

幼く、しかし活気のある声が微睡の中にある膚李の耳を抜けていく。

「……君が面倒見ててくれたんだね、ありがとう」

目を覚ました膚李の前には、小さく丸みを帯びた笑顔が広がっていた。まだ五、六歳程度のその少女は、濡れた雑巾を膚李の頭から取り、額に手を当てる。小さいが柔らかく、それでいて確かな人の熱を持った人の手だった。

膚李は、久方ぶりに感じる生の熱に、どこか体が温まっていくのを感じていた。

「うん、お熱はないね!お兄ちゃん、急に倒れたからみんなびっくりしてたよ。どっか悪いの?」

「ううん、ちょっと戦いで疲れちゃってね。だから、もう村の前で寝ちゃったんだ」

「ふーん……。すごくぐっすり寝てたね。一日くらい寝てたよ。お兄ちゃん、そんなにたくさん戦ったの?」


 少女の質問に膚李は口ごもった。確かに戦った。一人で、数えきれないくらいの人間を殺してきた。その事実を、少女一人には言いたくなかったが、それ以外の答えを言い換えられるほど、膚李は器用な人間ではなかった。

「うん、まあ、ね。いろんなところで戦ってきたから……。たくさん戦ったよ。数えきれないくらいね」

「そっかあ……。でも大丈夫!またこっちに帰ってきたら、私がお兄ちゃんのこと治してあげる。でも、今は元気になったら一緒にお外に出よ!きれいなお花があるところ!きっと元気になるよ!」

 少女の笑顔はあまりにも眩しかった。しかし今の膚李には、その笑顔の眩しさに応えてやれるほどの勇気も、そして思考もなかった。どこか、そうしてはいけないような気がして。あの笑顔に応えてやれたとしても、自分にはいったい何を返してやれるのかはわからない。だからこそ、子供の純粋さを裏切るような大人ではいられないし、かと言ってそれ以上の代案を出せるほど器用でもない。

 膚李は、結局戦にしか能のない自分をとことん無力だと痛感した。

 膚李は少女に一言「ありがとう」と礼を言うと、その柔らかい手を優しく握り、額から降ろさせた。そして、上着を羽織るとその部屋から早々に出ていこうとした。




 

 

 

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