第11話 数字と格闘

 え。ええ……。

 

「翠……」

「どうしたの? 九十九くん」


 躊躇せずずんずんと前へ進んで行っているけど、海水が首の辺りまできている。

 遊ぶには少し深くないか?

 

「翠!」


 翠の頭がそのまま海の下に沈んで行った。

 彼女は泳ごうともせず、足を海底につけたままだったぞ。

 このままだと溺れてしまう!


「翠! あばれずじっとしていてくれ! すぐに引っ張り上げるからな」


 大きく息を吸い込み、海の中へ潜る。

 ちょ! 翠がこっちに笑顔を向けて手を振っているじゃねえかよ。

 あ、あれ。口からぶくぶくとした気泡がまるで出ていない。

 あ、そうか。

 

 って俺の息が限界だ。

 

「ぷはあ。翠、浮いてこれる?」


 俺の呼びかけへ翠は泳がず、そのまま浮き上がってきて顔を水面に出した。

 ちょ、ちょっと不気味だな……これ。

 そうだった。彼女は息をしないんだ。

 

「翠、水面の上に立ってみて」

「うん!」


 翠は、すうううっとそのまま浮き上がり水面へ立つ。

 いや、「正確には立っているように見える」だな。彼女の足先は僅かだけど水面より上にあるんだ。

 でも、水面の上に立つ美少女。

 とても絵になるよなあ。

 

 顔をあげ下から見上げるように彼女の姿を眺めていると、彼女はパレワンピースの裾を手で抑えた。

 

「もう、九十九くん」

「あ、いや。全くそんなつもりはなかった」

「ほんとー?」

「うん。幻想的で綺麗だなあって」

「もう!」


 翠は頬に朱色がさし、唇を尖らせる。


「いや、でも。翠」

「誤魔化そうとしてるー」

「……海底を歩くことができるなら、アクアラングなんて使わずに海中を見たい放題だな。素晴らしい」

「あ、そっかあ」

「今まで海の中に入らなかったの?」

「うん。今日が初めてだよ。でも、今まで海の中に行かなくてよかったかも」

「ん?」

「だって、九十九くんと来れたんだもの。二度目より初めての方が海に入ったことへ感動するじゃない!」


 ちょっと言葉の意味が捉え辛かった。

 が、意味が分かると頬が熱くなる。

 初めての方が、二度目より感動が大きく楽しい。初めての体験が一人じゃなくて、俺と一緒だったからよかったってことだよな。

 

「九十九くん、頬が赤いー。またえっちなことを」

「だから違うって。その発想しかないのかよお」

「冗談だよー」

「く、くうう」


 いちいち引っかかる俺も俺だよな。


「ちょっと戻る。翠が自由に海中に潜ることができるんだったら、俺も」

「うんー」


 磯遊び用にシュノーケルとゴーグルを持ってきていたんだよ。

 これを使えば、海中に俺も潜りやすい。

 こう見えて俺、泳ぎは苦手じゃないんだぜ。


 ◆◆◆

 

 海中で翠と一緒に泳ぐ魚を見たり、岩に張り付く貝を剥がしてとったり……ワカメに引っかかったり……と楽しい時間を過ごす。

 ひとしきり遊んだら、砂浜に戻ってお昼を食べ、折りたたみチェアに座り少し休憩をとった。

 翠は全然元気なんだけど、俺がもたねえよ。

 彼女は体力とか関係ないからな。


「楽しいね。九十九くん」

「うん。とても楽しい」

「キミと海へ石碑へ行けて、わたし……とっても嬉しいよ!」

「なんだよ。急に」

「えへへ。伝えたいことはすぐに伝えるの。恥ずかしいとか思ってたらダメだってね!」


 そうだ。

 そうだよな。

 翠は今を精一杯過ごしている。後悔しないように。いつ消えてもいいように。

 いや、そもそも彼女は優との経験から時間制限について重々分かっていた。彼女の素直さ、朗らかさが俺の胸をちくちくと刺激する。

 対する俺は……迷い、彼女へ伝えたいことも飲み込み。躊躇していた。

 翠のことを俺がどれだけ思っているのか。心の丈を全てぶちまけたい。でも、彼女が消えてしまうのが怖くて言えないでいる。

 情けない俺でごめんな。

 

 このまま彼女と仲良くなっても、彼女の眠る時間ができるだけと確信できれば……いや、希望だけで物事を認識すると理解を放棄してしまうことになりかねない。

 

「……俺も嬉しいよ」


 結果、口をついて出た言葉はそれだけだった。

 

「よかった!」


 それでも翠はこぼれるような笑顔を俺へ向ける。

 

「翠、午後は何しようか?」

「……」

「翠? 翠!」


 彼女が急に無表情になって虚空を見つめているではないか。

 さああっと血の気が引いた俺は、祈るように彼女の肩を両手で掴みゆさゆさと揺する。

 

「翠!」

「……九十九くん」


 翠の目に光が戻り、俺へ顔を向けた。


「よかった……」


 俺は心の底から呟く。このまま消えてしまわなくてよかった。


「ごめんね。少し……眠たいや。少しだけ眠っていいかな」

「寝るなら布団まで……もたないか?」


 こんなところで眠ったら、俺がここに居続けるのが難しいじゃないか。

 キャンプ道具は……倉庫にあるかもしれないけど……。いきなりここでキャンプなんて始めたら、下手に注目されるかもしれない。

 そうなると、翠のことで変な噂がたってしまいかねないからな。


「九十九くんがおんぶしてくれるなら大丈夫かな」

「よっし分かった!」


 服を着て、膝を屈めると翠が後ろから俺の首へ腕を絡めてくる。

 

「翠、もし寝ちゃったら俺の目には見えなくなるのかな?」

「どうなんだろう。分からないや。でも、成仏とかそんな予感はしないよ……大丈夫。ね、九十九くん。ふああ」


 あくび混じりに翠はそう言ってのけるが、俺の方は気が気じゃない。


「って、翠。本当に俺の背中に乗っかってる?」


 翠の柔らかさと低い体温は感じるんだけど、人を背負っているような重さがないんだ。


「うん、しっかり、九十九くんが好きな密着をしているよ?」

「密着って……否定はしないけど……」

「えへへ。わたしの……ふああ……九十九くんの背中は気持ちいいなあ……」

「言葉が繋がってないぞ。翠。寝ぼけているのか?」

「やっぱりダメかも……ね、眠たいかな……」

「この軽さなら、すぐだ。走る!」


 緊急事態だから、翠をおぶったまま自転車に乗ろうかと思ったけど……彼女がしがみついていてくれないと振り落としちゃうからなあ。

 いつ寝てしまうか分からない状況では使えない。

 そんなわけで、自転車をスルーしてそのまま留蔵の家に向けて走る。

 

 行きは自転車を押して三十分くらいだったから、走れば十五分もかからないだろ。

 ただし、俺がずっと走ることができればだけど……。

 

「え、ええい。走るったら走るんだ」


 ◆◆◆

 

――自室。

「翠、よく耐えてくれた。絶対、絶対に起きてくれよ。待ってるから」

「うん……大丈夫だよお。九十九くんは心配性だなあ……」


 布団にパレオワンピース姿のまま寝ころんだ翠が、俺へ微笑みかける。

 でも、彼女の目はトロンとして今にも眠ってしまいそうだった。

 

 心配で仕方ないけど、ここは彼女の言葉を信じる。

 

「うん、分かった。おやすみ、翠」

「九十九くん、おやすみ……大好き……」


 最後の方はくぐもって何を言っているか分からなかったけど、翠は喋り終わらぬうちに寝息を立てて眠ってしまった。

 翠の姿は見えている。この前眠った時も見えていたのかなあ。

 あの時さんざん探したけど、彼女を発見できなかった。起きたらどこで寝ていたのか聞いてみるか……神社とは言っていたけど。

 もちろん俺はあの時神社を捜索した。それなりに見たつもりだけど、屋根の上とか木の上だったら確認しようがないからなあ。

 

 とりあえず、俺にとって大きな収穫だったのは、翠が見えることだな。

 見た所、姿が希薄になった様子もないし。彼女の言葉通り、眠っているだけに違いない。

 どれだけの時間、眠るのかは分からないのが辛いところだけど。


 寝息も立てない翠の頬をそっと撫で、立ち上がる。

 これから砂浜へ行って、自転車や荷物を回収しとかないと。

 

「おやすみ、翠」


 再び彼女へ声をかけ、俺は自室を出た。

 

 余談ではあるが、折りたたみチェアを含めて一回で運ぶのは翠の助けがないと無理があったらしく……途中で何度か落としてしまう。

 なので結局、留蔵の家と浜辺を二往復した。

 

 ◆◆◆ 


 ふう。なんのかんので倉庫から持ち出した物を片付けていたら、夕日が美しい時間になってしまった。

 それにしても……海水が乾いてベタベタになった体へ大量にかいた汗が混じり、とにかくシャワーを浴びたい気分だ。

 一旦、自室へ戻るかあ。

 

 ――自室。

 スヤスヤと眠る翠をチラリと見やる。

 長い睫毛に微動だにしない口元。まるで一流の芸術家が美の粋をふんだんに凝らした彫刻のようだった。


 すぐにシャワーを浴びに行くつもりでチラッと見ただけだったんだけど、長いつややかな黒髪へ吸い寄せられるように翠の枕元へしゃがみ込む。


「翠……」


 彼女の髪を指先でくしけずる。

 じーっと見ていたら、彼女の薄い色をした唇に釘付けになり……俺は顔を寄せ。


 ダ、ダメだ。

 何しようとしてんだよ。

 王子様のキスで目覚めるなんてまやかしだ。逆にそのまま消えてしまうかもしれない。

 今はジッと待たないとな。うん。


 名残惜しいが、部屋を後にしてシャワーを浴びた。

 スッキリしたところで、夕飯をいただき再び自室へ戻る。


 戻ったはいいが、手持ち無沙汰だ。

 いや、眠る翠を見ているだけでいくらでも時間が潰せそうな気がするが、それだけじゃあなあ。スマホをいじるにしても翠が気になって……。

 あ、そうだ。

 彼女が起きた時に何か遊べる物が無いか留蔵に聞いてみよう。


 ダイニングで晩酌中の留蔵へ何か遊ぶものはないか聞いてみたら、最初にテレビを出してきた部屋を見てみろとのこと。

 勝手に部屋のモノを触っていいと了承を得たので、さっそく隣の部屋へ行く。


 部屋は長く使ってないようで、整頓こそされているものの、物の上には埃が目立つ。


 えー、どれどれ。

 テレビ台のところにスーパーファミコンを発見。横の棚の中には、ソフトも十二本あるじゃないか。

 続いて……将棋盤と駒、オセロ、トランプもソフトがあった棚の下の段に入っていた。


 全部自室に持ち込み、スーパーファミコンはテレビに接続して動くかチェックする。

 うん、問題ない。

 スーパーファミコンとか触ったこと無いけど、翠の世代にならちょうどいいんじゃないかな。


 あぐらをかき一息ついた俺は、翠を眺めながら古銭を磨く。古銭は彼女の持つかんざしと同じ、昔から大事にされてきたもの。

 そう思うとなんだか彼女との接点みたいに思えてきて、磨く手にも力が入る。


 夜になっても翠が目覚めることはなかった。

 不安に駆られながら、翠の眠る布団の隣へゴロンと寝転がっていたらいつしか寝てしまう……。

 

 ◆◆◆


 ……。

 ……。

 朝日がキラキラと容赦なく差し込み、目がチカチカする。

 あ!

 

 翠は?

 ハッとなって、彼女が眠る布団を見たけど、眠り姫はまだ眠っている。

 

 今日は、八月三日だ。ここに来てもう六日経つのかあ。

 まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。

 

「なあ、翠」


 彼女の頬を撫で、肌をそうようにして指先を髪の毛へ動かす。

 留蔵の手伝いをして、適当に海へ行ったりしながら過ごすつもりがこんな可愛い女の子に出会えるなんてな。

 世の中どう転ぶか本当に分からないよ。

 

「起きるのを待っているよ。眠り姫さん」


 ピンと彼女の髪の毛を指先ではじき、微笑みかける。


「ふああ」


 窓を開け外気に触れるとあくびが出て来た。

 まずは顔を洗って、朝食とするかな。

 

 っとその前に、紙とボールペンを出してきて翠へ書置きを残しておこう。

 彼女がいつ起きてもいいように。


『翠。悪いが起きてもここで待っていてくれ』


 枕元に書置きを置き自室を出る。

 

 朝食を食べた自室へ戻り眠る翠の横で着替えを済ませた時、ふと思いつく。

 そうだ。

 首にかかったチョーカーを手に取り、翠の手に握らせた。


「いってきます。翠」


 物資もきれて来たし、コンビニに行こうと思ってね。

 戻ったら、ずっと部屋にいるつもりだ。

 飲み物とか何か遊べそうなものがあったら買ってこようと思ってさ。

 

 ◆◆◆

 

 自転車を走らせ、コンビニまで行く途中で提灯が目に付いた。

 電柱に引っかけるように置かれた提灯には、個人名や商店の名前がそれぞれ書かれている。

 あ、そうか。たしか八月四日は祭りをやるって言ってたよなあ。翠がそれまでに起きてくれたらいいんだけど……。

 

 コンビニへ近づいてくると人の姿もチラホラ見かけるようになってくる。

 こっちは留蔵の家周辺と違って、隣接して家が建っているしスーパーや学校もあるからな。

 車に何度もすれ違ったし、翠とこの辺に来る時は俺が挙動不審に見えないように注意しなきゃ。

 

 コンビニで飲み物を中心に買い込み、翠の気に入りそうな物は無いかと、外にあるガチャガチャを物色しながらアイスを食べる。

 んー。あんまりかなあ。さすがにガチャガチャだと気の利いたもんはないか。

 可愛らしい妖怪のキャラクターだったらどうだ? 幽霊に妖怪のキャラクターとか何だか良く無さそうだからやめとくか……。

 

 ん。

 コンビニからちょうど出て来た小学生くらいの男の子二人が持っている買い物袋へ目が行く。

 あ、あれは花火か。

 いいかもしれない。

 

 アイスを食べきった後、再びコンビニに入り花火セットを買い留蔵の家に帰還する。

 

 ◆◆◆

 

 戻ってもまだ眠り姫が寝たままだったので、昼食を食べた後、彼女の隣であぐらをかく。

 待っている間、何をしよっかなあ。

 翠の顔を見ていてら、我慢できなくなってがばあああっと行ってしまいそうだし……。

 何かに集中したい。

 

 あ、そうだ。

 想像し、俺の顔が二ヤつく。

 

 さっそくスマホで検索だ。

 きっと翠はビックリするぞお。

 

 三十分経過――。

 検索するとすぐに出て来たのだが、意外にこれ難しい。

 長文を書くには向いてないな。

 

 スマホの画面を見ながらボールペンをクルクル。

 紙へ書いていく。

 

『三三、一二』

 

 これで「すい」か。

 

『十五、六一、八五、一三、八九、三三、一二』


「よっし、これで完成だ!」


 満足気に紙を見やる。

 しかし、今自分で書いたところなのに、何を書いているのか読み取れん。

 て、手強いなこれ。よくこんなのでやり取りをしていたもんだ。

 

「何ができたのお? 九十九くん」

「これだよ。これ……え! 翠!」

「おはよう。九十九くん」


 布団の上にペタン座りして、目を擦る翠は大きなあくびをした。

 俺は彼女へ言葉を返さず、先ほど数字を書いた紙を彼女へ手渡す。

 

「ん。んん。えっと、『おはよう❤すい』。九十九くん、すごい。わたしのために?」

「うん。しかし、本当に数字だけで読めるんだな……」

「慣れだよ。慣れ。えへへ。嬉しい」


 翠は数字の書いた紙を胸に抱き、にへえと笑みを浮かべる。


「ちょっとお寝坊だったけど、ちゃんと起きてくれてホッとしたよ」

「そんなに寝てたんだ。どれくらいかな?」

「昨日の晩から……翌日の夕方かな」

「前と同じくらいかなあ……」

「とにかく、起きてくれてよかった!」

「心配してくれたんだ。えへへ」


 「そ、そら心配したさ」と言おうとして思わず言葉を飲み込んでしまった。

 なんて嬉しそうな顔をするんだよ。翠の満面の笑みに吸い込まれ、言葉を失ってしまう。

 

「そ、そうだ。これ、隣の部屋にあったんだ」


 テレビに取り付けたスーパーファミコンを指さす。

 

「九十九くん、ゲームやるんだ?」

「うん。翠は?」

「ほとんどやったことないんだあ。余り体によくないとかお母さんが」

「そっか。じゃあ、これからやろうよ」

「うん。あ、ダメだよ。九十九くん、先にご飯とお風呂!」

「分かった! すぐ終わらせる」


 顔を見合わせお互いに「にまあ」と笑いあう。


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※前回「できますできます」で吹き出した人。せんせい怒らないから素直に言いなさい。

詳しくはこちら。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885125601/episodes/1177354054885225280

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