第三話 陽炎の家

「バス停まで迎えに行ったのに、全然来ないから心配したよ」


宿に着くと、民宿の若旦那がすっかり板に付いた友人が出迎えてくれた。

部屋に通され、差し出されたお茶に口を付けながら、ここに来る途中で親切な婦人に助けられたことを話した。


「ああ、それは川嶋さんだね。あの人もけっこう世話焼きだから」

「知ってるのか」

「そりゃあ、小さな町だからね。客商売の基本は地元の人間と懇意になることだって、親父さんにさんざん言われたよ」


この口ぶりだと、婿養子先で上手くやってるようだ。元々、誰とでも親しくなるのが得意な男である。


「川嶋さんも気の毒な人でねぇ……。旦那さんを早くに亡くして、一人息子を女手一つで育て上げたが、それも今度の戦争で兵隊に取られて亡くしちまった。気丈に振る舞っちゃいるが、本音では寂しいと思うよ」


「……なんだって?」


友人の言葉に、三河さんは自分の耳を疑った。


「一人息子を亡くしただって?」


その反応に、友人はキョトンとした顔をしている。


「間違いないのか?」

「間違いも何も、うちに出入りしている酒屋の息子が、川嶋さんの息子と同じ部隊にいたのさ。彼が最期を看取ったと聞いたよ。インパールにいたそうだ」


インパール作戦。一九四四年(昭和十九年)三月より帝国陸軍によって開始され、同年七月初旬まで継続された。

大戦末期、戦局打開を図るため、当時占領していたビルマ(現ミャンマー)から国境の山岳地帯を越え、インドにあるイギリス軍の拠点都市インパール攻略を目指した作戦である。

約九万人の将兵が参加し、そのうち約三万人が戦死、約四万人が戦病死した。帰還できたのは、たったの二万人ほどであった。

補給線を軽視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫した、無謀な作戦の代名詞とも言われている。


作戦中の戦闘より、作戦中止後の撤退の最中に病死や餓死する兵が多かったのが、この作戦の異常さを示している。


一九四四年の六月、インド、ビルマ国境地帯は雨季に入っていた。

この地方の降水量は世界一とも言われる。このときも三十年に一度と言われる大雨が続いた。

雨季の到来後、マラリヤや赤痢が広がったのが、さらに死者を増大させた。

雨が遺体の腐敗を進め、わずか十日ほどで骨にしたと伝えられる。


ビルマ西部チン州のテディム街道には、敗走する途中で力尽きた、おびただしい数の日本兵の白骨遺体が累々と続き、「白骨街道」「靖国街道」と呼ばれたのは有名な話である。


「川嶋さんの息子は撤退の途中、運悪く大腿部を撃たれてね」


友人は酒屋の息子から聞いたという話を語り始めた。


「なんとか野戦病院まで辿り着いたものの、ろくな医薬品もなければ医療設備もない。周りは傷病者だらけだから軍医も手が回らない。出血もひどいものだった。おそらく動脈を傷付けていたんだろうね。母さんごめん、母さんごめんと、うわ言のように繰り返しながら、やがて息を引き取ったそうだよ」


還りたかったのだろう。会いたかったのだろう。

友人の話を聞き終え、三河さんは天井を仰ぎ瞑目した。

戦場で足をやられた者は致命的だ。皆、“遠い道”の途中で斃れ、力尽きて死んでゆく。


「顔色が悪いが大丈夫か?」


心配そうに覗き込む友人に、三河さんは大丈夫だと答えた。


「とりあえず風呂を沸かしてあるから、夕飯前に入って疲れを取ると良いよ」


そう言って、友人は部屋を出て行った。


一人になった三河さんは、開け放たれた窓の外を眺めた。先ほどまでの晴天が嘘のように、黒い雷雲が空を覆いつつある。

なぜあの家で、婦人以外に誰かが住んでる気配を感じなかったのか、その理由が分かった気がした。

そしてわずかに開いた襖の隙間から覗き込む、どこか虚ろで侘びしげな男の目を思い出した。


あの婦人の一人息子が、実はとっくに戦場で亡くなっていたのだとしたら。


戦場で足をやられたのだと、婦人は言った。


ずずっ……、ずずっ……と、畳の上を引き摺る不自由な足音が、今も耳の奥に残っている。


それなら……。


それならあのとき、自分が見たものはいったい……。


遠くで空を引き裂くような雷鳴が轟き、やがて屋根を打つ雨音が薄暗い室内に響いた。




それから三日間ほど、三河さんは友人の宿に滞在し、近くの川で鮎釣りを楽しんだ。

ときおりあの婦人とその一人息子のことが思い出されたが、努めて考えないようにした。


友人とその婿養子先の家族に見送られて宿を出たその日、近くの停留所からボンネットバスに乗り、来たときとは反対方向に流れる景色をぼんやりと眺めた。


やがて、白く埃っぽい道の向こうに、あの家が見えて来た。


一人息子を戦争に奪われた母と、その母を慕い、死霊となって還って来た息子。


遠ざかる車窓の彼方、虚ろに揺らめく陽炎に包まれて、その家はひっそりと、まるで息を潜めるように静かに佇んでいる。


夏が来るたび、その光景が今も思い出されてならないのだと、三河さんは話した。


              

                (完)


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陽炎の家 月浦影ノ介 @tukinokage

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