第二話 帰還兵

しばらくして目を醒ますと、雲が太陽を覆ったのか、日差しが翳っているのに気付いた。

微かにさらさらと心地好く響くのは、家の前を流れる用水路であろう。風に揺れる風鈴の音が、それにときどき合いの手を添える。

婦人が土間の方から手拭いで手を拭きながら、具合はどうだい、と笑顔で現れた。

三河さんの体調はだいぶ楽になっていた。畳の上に正座して、改めて礼を述べる。


「良いんだよ、礼なんて。それより腹が減ったろうから、これをお上がり」


と、婦人が皿に載せて差し出したのは、麦飯のおにぎり二つと、大根の漬物であった。

終戦から数年が経ち、食料事情も徐々に回復しつつあった。

終戦直後はこんな田舎町にも、都市部から人々が食料を求めて殺到した。逆に田舎から東京などの闇市へ食料を運ぶ「かつぎ屋」と呼ばれる者も大勢いた。

都市部からの買付けも闇市も今だに残り、貧しい者も多かったが、それでも戦後の復興は確実に前へ進んでいた。


ありがたく手を合わせ握り飯を頬張る三河さんを、婦人は微笑ましげに眺めた。


「顔色は良くなったけど、無理はしない方が良いね。ところであんた、ちょっと留守番しててくれるかい。私はこれから手伝いがあって出掛けなきゃならないんだ」

「それは構いませんが、赤の他人の自分に留守番などさせて良いんですか?」

「怪しい人だと思ったら最初から連れて来ないよ。それに見ての通り、この家に盗られる物なんてなんにもありゃしないわ」


婦人は声を上げて笑う。確かに裕福とは言えないが、それでも屋内は掃除が行き届いており、清潔感があって居心地が良かった。


「葬式ですか」


ここへ来る途中で見掛けた葬列を思い出し、三河さんが尋ねると、婦人はこくりと頷いた。


「この近くの家なんだけどね。跡継ぎが病死したんだよ。まだ三十手前で、せっかく兵隊から還って来たっていうのにねぇ……」


あんた戦争へは?と、三河さんは婦人に尋ねられた。


「海軍にいました。終戦は米軍の捕虜収容所で迎えまして……」


つい語尾を濁す。軍人だった頃は「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を叩き込まれたはずだった。

整備兵として乗艦していた駆逐艦を沈められ、艦の残骸に掴まって海上を漂っていたところを、敵であるはずの米軍に救助された。

大勢の戦友が海の藻屑と消えたのに、なぜ自分はおめおめと生き残ったかという忸怩たる思いがある。


「……そう。でも生きて還れて良かった。せっかく若いのに、戦争なんかで死んではもったいないよ」


三河さんが復員したとき、出征を見送ってくれた母はすでに病没していた。死の間際まで、ずっと自分のことを気に掛けていたという。

母に再び会えなかったのが心残りだったが、どこか母の面影を感じさせる婦人にそう言って貰えたことで、三河さんは心の重荷が少しだけ軽くなったような気がした。


そのとき、閉め切った襖の向こう、隣室の奥の方から、ゴトリ、と響く音がした。


水面に投げた小石が波紋を広げるように、それは三河さんの耳朶を打った。

口を閉じ耳を澄ませたが、蝉時雨が響く屋内に物音は二度と聴こえる気配はない。


「実は、息子がいるんだよ……」


婦人のその言葉は、三河さんに軽い驚きを与えた。なぜかこの家に、婦人は一人暮らしだとばかり思い込んでいたのだ。


「戦争で南方へ行ってね。片足をひどく怪我してしまって、それを見られるのが嫌で、人前には姿を見せないんだよ。だから何か物音が聴こえても、放って置いてやっておくれ」


三河さんは、分かりましたと頷いた。戦争から無事生還しても、身体と心に深い傷を残す者は大勢いる。自分はたまたま無傷で済んだが、紙一重でそうなっていたかも知れないのだ。

それじゃ頼むわね、と言って、婦人は再び近所の葬式の手伝いに出掛けて行った。


一人になると何もやることがない。三河さんは畳の上にごろりと横になった。

腕時計を確認すると、午後三時を過ぎたばかりだ。予定の時間に現れないので、友人は心配しているかも知れない。

宿には日暮れまでに着けば良いさ、と大きく伸びをする。


開け放した縁側から涼しい風が入って来て、細い銀の糸のような風鈴の音が、夏の午後の静けさに溶けて行く。

どこかで子供のはしゃぐ声がする。その声に耳を傾けながら、三河さんはいつしか再び、微睡みの中へと落ちて行った。



ゴトリ……と、音がした。



微睡みから醒めるには十分な音であった。身を起こし、音のした方へ視線を向ける。


隣室との境を仕切る、先程まで確かに閉め切られていたはずの襖が、ほんの僅かに、開いていた。


その隙間の向こうの暗がりに、誰かが立っている。


カーキ色のズボンに、白いシャツ。薄暗い陰に浮かぶ生気のない男の顔。襖の隙間にほとんどぴったりくっつけるようにして、その片方の目玉が、何かしら物言いたげに、じいっと三河さんを見据えていた。


畳に腰を下ろしたまま、思わず後ずさり、息を呑んだ。

あれほどうるさかった蝉時雨が、すんとも聴こえない。

背筋を冷たい汗が流れ落ちる。


男は無言であった。明るい夏の光が届かない暗い陰の奥に身を隠し、その僅かに開いた隙間から覗く片方の目玉は、どこか虚ろで、そして侘びしげに感じられた。


ややあって、三河さんは婦人の息子の話を思い出した。

兵士として南方に赴き、足を負傷して還って来た男。その怪我が元で人目を避け、誰にも姿を見せたがらない孤独な帰還兵。


家の中に見知らぬ他人がいれば、警戒されるのは当然である。

せめて挨拶して事情を話すべきであろうと思ったが、なぜか金縛りに遭ったように身体が動かず、さりとて声も出ず、如何ともし難かった。


ヒグラシの啼く声が、西陽に和らぐ無人の庭にこだまする。

無言のままじっと注がれ続ける視線を、三河さんはただ黙って見つめ返していた。


どれくらいの間、そうしていたか。


ふいに何の前触れもなく、ぴしゃりと音を立て、襖が閉まった。

と同時に、金縛りが解けたように全身から一気に力が抜け、三河さんは大きな息の塊を吐き出した。


ずずっ……、ずずっ……、と畳の上を擦るような音がするのは、怪我をして不自由になった片足を引き摺って歩いているせいなのか。

海の戦場は地獄であったが、南方もまた地獄であったと聞く。

同じ兵士だった者として何か言葉を掛けてやりたい衝動に駆られたが、放って置いてやっておくれ、という婦人の言葉を思い出し、言葉を呑み込んだ。

不自由な歩みは静かに遠ざかって行く。隣室の奥で再び襖が開き、また閉じる音がして、それきり何も聴こえなくなった。


婦人が帰って来たのは、それから間もなくだった。

すっかり体調の戻った三河さんは、そろそろ暇乞いをすることにした。

助けて貰ったことに丁寧に礼を述べ、どうぞ身体を大事にしてお元気で、と言った。婦人の笑顔は、やはり亡くなった母の面影にどこか似ていた。

婦人の息子に会ったことは言わなかった。なぜか話さない方が良いように思えたのだ。


「あんたこそ身体を大事にね。死んだ戦友の分も長生きするんだよ」


玄関先で見送る婦人に、三河さんは深々と一礼した。


西に傾き出した太陽は、すでに昼間の苛烈さを失っていた。空は柔らかな茜色に染まりつつある。

山脈のような入道雲が遥か頭上を覆い、微かに湿り気を帯びた風が、雷雨の気配を連れて通り過ぎて行った。





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