神殿図書館にて
レッジョ中央広場の一角に
その神殿内でひと際大きなスペースが神殿の離れにある。
それがウェルス神殿内のこの図書館。レッジョ神殿内の裁判所が下した判決や判例、裁判記録からあらゆる法律関係の書物が
重々しい雰囲気であるが、その厳かさと大量の重厚な紙の香りがルロイは気に入っていた。
「ここに来るのも、なんか久しぶりだな」
都市法の条文を引いて分かることなら事務所にある法典で間に合うが、より複雑なケースを調べる場合。判例やら判決といった裁判記録。はたまた法解釈の学説を調べることもある。今回のアシュリーと種付けおじさんの売買契約において、特別の事情の存在を証明できるかどうかもあやふやな状態でまずはそこを法的にはっきり認識することから始める。ルロイは今、裁判記録の判例がひしめく書架の前で悪戦苦闘している最中であった。
「
せわし気に判例集のページをめくるルロイの背中に、厳粛な声が響いた。書架の列の入り口には厚手の白い法衣を来た白髪の老人の姿があった。
「これは、フィオーレ
「よい、頭をあげい」
資料探しに没頭していたルロイは思わず恐縮して頭を下げる。エンツォ・ディ・フィオーレ。このウェルス神殿の神殿長であり、レッジョの市参事会で司法長官をも務める司法界のトップであり、ルロイを魔法公証人に任じた公証人ギルドの長でもある。
「ははっ」
ルロイは頭を上げフィオーレの言葉に緊張を少しばかり解いたが、それでもなかなか穏やかにとはいかない。なんと言ってもルロイにとってみれば最高権力者である。
肩まで垂らした白髪に豊かに蓄えた白いあごひげ。かなりの老齢にも関わらず背筋はぴっしりとしており誰もが、目の前の老人を誉れ高い賢者の中の賢者として認める。
「お主がここにくるなど久しいの。今回は随分と厄介な案件とみた」
「はい、
「ふむ。どれ……」
フィオーレが興味深げにルロイに歩み寄って、ルロイが手にした判例集のページに目をやる。
債務者が債務の目的物を不法に処分したために債務履行不能となった場合、
損害賠償額の算定基準時は履行不能時だが、
履行不能後も目的物の価格の高騰が続いている特別の事情があり、
債務者がこれを知っていたか知りえた場合、
債権者は目的物の高騰した現在の価格を基準に算定した損害額の賠償を、
債務者に請求できる。
「ほう、なるほど」
感心したようにフィオーレが
アシュリーの話を聞く限り、種付けおじさんが種をアシュリーではなく、『
現状を認識するにはここまではいい。問題は――――
「債務者が特別の事情を知りえたか。それが問題じゃ」
フィオーレは鋭くルロイが直面している課題を言い当てる。
「ええ、やはり
ルロイは苦笑いする。
まさに、種付けおじさんがこの種の高騰を予見していたことを具体的に立証しなければならない。そのためには単にプロバティオ発動時において高騰を予見していたか否かを問うのではウェルス証書を作成するには弱いのである。
「その高騰の正体を突き止めねば、真実にはたどり着けぬ」
「ええ、その通りです」
どうやら、フィオーレはルロイが今抱えている案件を初めから知っているようであった。
単なる、売買取引の詐欺や文書の偽造であればその偽りそのものについてプロバティオで相手を問い詰めればいい。しかし今回は違う。フンゴジャッロの大繁殖と種の高騰の理由、及びに種付けおじさんがその高騰を確かに知りえた理由と事実を魔法公証人であるルロイが理解しなければ、種付けおじさんにプロバティオは通用しない。
「ふむ、なかなかの難問だな」
「ええ、それに加えて……」
改めて事の厄介さを認識し、頭痛のするルロイはフィオーレに事のあらましを話した。途中でフィオーレは何度も頷きルロイの話を聞き終えた。
「うむ、やはりな。やはり奴の名前は知れぬか……かの得体のしれない種売りの噂と『
「え!」
「それだけでなく、ダンジョンの所有者に無断で種を植え付けているらしい」
「そんな、被害届は出ていないんですか?」
「ふむ、勝手にどこの馬とも知れん
「あるいは?」
「その種付け行為が、結果的にダンジョン主にとって
確かにあり得ない話ではない。種付けおじさんの種付け行為によってなにがしかの作物が生ればその作物は当然ダンジョン主のものとなる。その作物が有益であれば、ダンジョンへの不法侵入はともかく種付けおじさんの行為は結果として、ダンジョン主に利益を与えることなる。そして、自分に利益をもたらした人間を訴え出ようとする人間はいない、という訳である。
「ここ数年はまったく目撃情報がなかったが、今になってレッジョに戻ってきたのが気掛かりではある。いずれにせよ、その種売りが危険人物であることには変わりないと私は見ているがね。わしから治安維持局にも警備の強化を申し出たがなかなか奴の足取りはわからん」
「そうですか……」
「今回の事件。一筋縄ではいかんだろうが、私としては嬉しくもある」
「嬉しい?」
「あの時の、廃人も同然だった
厳粛そうな顔立ちを少しばかり崩し、フィオーレは老練な賢者らしかぬ意地悪い笑みを見せる。この街に来たばかりの時は、ルロイはまさか自分がこの仕事に就くとは夢にも思ってもみなかった。これまでの過去に思いを巡らせると、ルロイ自身色々な思いと
「何、力になれそうなことがあればわしを頼るがよい。今は、お主は一人ではないということを忘れず前に進めばよいのだ」
フィオーレは温かく笑いルロイの肩を叩くと、「では、邪魔をしたな」と言い残し図書館を後にした。
「一人ではない。……か」
あまり、過去の思い出に浸って感傷的になっている場合ではない。それでも、ここに至るまで多くの仲間の助けがあった。自分一人ではこれまでの依頼や事件とて太刀打ちできなかっただろう。そして、おそらくは今回も誰かの助けを得てゆかねばならないのだろう。それを恥と思う必要はない。しかし、助けられた分自分も彼らに恩義を返さねばならない。頼られるということはそういうことだ。
一先ず、決して勝ち目がない戦いではないということ。そして、勝つための条件がなんであるか分かっただけでも一歩前進。
ルロイは、次なる手掛かりを得るために図書館を出たのだった。
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