第六章 その4 空腹ミュージアム

 今日は燻蒸の実施日。前日から職員と業者さんは収蔵庫備え付けのガス発生装置にポリタンクまるまる一本分の薬剤を投入し、ガスが漏れ出ないようドアのわずかな隙間も目張りして、スイッチを起動した。


 ここからは充満したガスが殺虫殺カビを成し遂げ、さらに完全に排気されるまでは安全を考慮してお客さんを呼ぶことはできない。博物館は立ち合いの職員を除いて、数日の間しんと静まり返る。


 というわけで私はしばしの連休だ。立ち合うには正規の職員である必要があるため、池田さんと里美さんが交替で出勤する。今頃広い館内池田さんひとりでカタカタと月間報告書でも打ち込んでいるだろう。


 そんな神様が与えてくださったような休みの初日、私は駅からもほど近いお洒落なレストランにいた。


「悠里乃ちゃん、ごめんね」


 青々とした庭木も見えるアンティーク調の道具をそろえた店内には、あちらこちらで有閑マダムが仲良さそうにランチを楽しんでいる、まさに予想通りの状況。平日昼間のこんな店に女ひとりで来るのはちょっと気まずいというのもあって、無理言って悠里乃ちゃんにも同行してもらったのだった。


「うん、別にいい。フレンチ食べられるって聞いたし」


 向かいの席に座った悠里乃ちゃんは素っ気なく返した。だがこれでも彼女にとっては結構ご機嫌であることは、ここ最近いっしょにいるおかげでなんとなく察せられる。


「でも……」


「何だ、文句あるのか?」


 悠里乃ちゃんの隣に座る男が、むっと口を曲げる。悠里乃ちゃんといっしょについてきたのは、兄のてっちゃんだった。


「てっちゃん、ここ結構本格的なお店だけど、大丈夫?」


「バカにするな。それに平日の昼間に、ボランティア以外で妹を連れ出されるのは気持ちの良いものではないからな」


 つまりは非番で暇らしい。まあ、車出してくれたし、そこは感謝しとこう。


 私たちがやって来たのは、ふなで食品が運営するレストランだ。ここはふなで食品では珍しい西洋料理専門店で、元は個人経営の洋食屋を買収したことから始まったらしい。


 先日覗き見た資料によれば、今ここで働いているシェフをミュージアムレストランの料理長に抜擢するそうだ。何せ東京のホテルで働いていた経験もある人のようで、どんな料理が出てくるのかと期待せずにはいられない。


 ずっしりと重みのあるメニューブックを開く。大半の白地に最低限の文字だけが記されて、贅沢なスペースの使い方だ。


「ええと、ランチは……チキンソテーコース、ビーフストロガノフコース、メカジキのコンフィコース……」


「コンフィって、どんな料理?」


 初耳の料理に、悠里乃ちゃんの顔が好奇心と不安で歪む。


「なんか洒落たもんばっかだな。もっと普通にオムライスとかエビフライとか、わかりやすいのはないのか?」


「いつの洋食屋のイメージよ、それ」


 20代とは思えぬ発言の従兄に、私は鋭く返した。きっとてっちゃんは血液までうどんつゆでできているのだろう。


「もう考えるのもめんどくさい。俺、チキンソテー」


「私、ビーフストロガノフ」


 悩む私のことなどおかまいなしに、さっさと決める兄妹。こうなると不思議なことに他のふたりとは別のものを選びたくなるものだ。


「それじゃあメカジキで」


 悠里乃ちゃん、ビーフストロガノフはフレンチじゃないよ。そんな野暮なことは口にはせず、私はウェイターを呼んだ。




 しばらく待って出されてきたのは夏野菜と旬のアジを使ったマリネ、しっかり味付けされたコンソメスープと、お手頃価格のランチセットとは思えない構成だった。そして主菜の3品はいずれも見た目からして垂涎もので、どれを選んでも絶対にハズレは無いと確信できた。


「ねえ、一口ちょうだい」


「じゃあ俺ももらうぞ」


 互いの料理を突っつき合う私たち3人。親戚同士ならこういうのも躊躇ないのが気楽なところだ。


「カジキって、こんな風に料理されるんだ」


 フォークで突き刺した魚肉を眺めながら、私はぼそっと呟いた。


 私にとってカジキは、あまり身近な魚ではない。というのも瀬戸内海ではカジキは獲れないからだ。


 クロダイやタコといったメジャーな魚介はもちろん、マナガツオやコチのようなややマニアックな魚も旬の季節を知り尽くしている模範的香川県民の私だが、カジキは滅多に口にすることは無い。海はひとつにつながってはいても、場所によって獲れる魚はまるで違う。


 そして口に含む。やはり美味しい、淡白なはずのカジキの身が、ソースと絡まって中からうま味を引き出しているようだ。


 こんなに美味しいのを作れる料理人がまさか船出にいたなんて、驚いた。しかも博物館にやってくるかもしれないなんて。


「いらっしゃいませ」


 ウェイターの声がする。入り口に背を向けているので見えないが、新しいお客さんが入ってきたようだ。


「ママー、ハンバーグ食べたい!」


「ええ、好きなの注文しましょうね」


 おや、親子連れなんて珍しい。ふと頭を上げると、悠里乃ちゃんが目を大きく開いて驚いた表情のまま固まっていた。


「ねえ、あの人って」


 悠里乃ちゃんが小さく言うので、私は後ろを振り向いた。そしてなぜかそこにいた意外すぎる人物に、「ええ!?」と声を上げてしまった。


「里美さん!?」


「あら、偶然ね」


 料理の味すら忘れてしまっていた私を見て、里美さんは一回まばたきして頬に手を当てる。そしてもう片手には、幼稚園児くらいの男の子の手をしっかりとつないでいたのだった。




「おいしーい!」


 使い慣れないナイフとフォークに悪戦苦闘しながらも、満面の笑みで料理を食べるのは里美さんの子供の亮太くんだ。


「そうかそうか、良かったなぁ。お母さんにちゃんとありがとう言うんだぞ」


 そんな亮太君をコーヒー片手に相手するのはてっちゃんだ。昔から面倒見の良いてっちゃんは、小さい子供から好かれやすい。


 里美さん親子は私たちの隣の机に座り、さらに机を動かして5人でいっしょになってランチを食べていた。ちょうど私たちも食後のコーヒーやデザートを待っていたところだったので、お店も快くOKを出してくれた。


「里美さんもまさかここに来るなんて」


「ええ、やっぱり気になってたのよ。せっかくの平日休みだし、今日は子供も保育園休ませてランチでもしようかしらって」


「まさか博物館に入るのがこの店だなんて」


 悠里乃ちゃんも小声になる。ここが博物館に出店希望を出していることは職員以外には秘密であったが、私と里美さんが同じ日に同じ店に食べに来たことに、偶然とはいえ出来過ぎていると勘付いてしまったのだった。


「この店ってわけじゃないわ。地元の食材を使って、船出市らしさを出すみたいよ。まあ、あくまで仮にの話だけど」


 里美さんの返答に、亮太君とじゃれ合っていたてっちゃんも反応する。


「船出市らしさ? そんなのうどん屋で決まりじゃないのですか?」


 この人の脳内には香川イコールうどんしかないのか?


「多すぎて差別化できなさそう。コンビニより数多いんだから」


 ため息交じりに私が答えると、てっちゃんも珍しくうーんと考え込んだ。


 ちなみに香川県内における讃岐うどんの店舗数はおよそ700店舗。県内コンビニチェーンの450店舗を大幅に上回っている。香川県民がどれほどうどんを食べているか、おわかりいただける数字だろう。


「まあ、そこは私たちが口出しできるところじゃないわ。できることを先にやるわよ」


 まるで何の迷いも無いように、里美さんは明るく言い放った。どうにもならないことをくよくよ考えても仕方ない、まずは今の自分にできることから済ませる。これが里美さんの仕事術なのだろうか。


 燻蒸という特別な休みの日に、偶然にも出会った私と里美さん。普段うかがい知れない里美さんの日常を垣間見えたようで、なんだか嬉しかった。


「……そういえば、資料を燻蒸した後、また収蔵庫にしまいなおしちゃうのってもったいないと思いませんか?」


「そうね。でも開けたまんまにしておくのもダメだから」


 里美さんはメインディッシュのカジキの最後の一口を放り込んだ。


 あの収蔵庫も何かに活用できればいいのに。


 せっかく食堂スペースに再生の兆しが見え始めたのだ。普段あまり使われていないものをどんどん活用していきたいと、欲が出るのは当然だろう。そしていずれは、まだ手を付けていない2階も。


「収蔵庫って、そんなに広いのか?」


 不意にてっちゃんが尋ねてきたので、私は答えた。


「うん、面積なら1階と2階の展示室の両方を合わせたよりも大きい」


 そういえばてっちゃんは入ったこと無いのか。まあ、普段は立ち入り禁止の区域、職員でもボランティアでもないから当然か。


 立ち入り禁止。つまり見ることはできないのだから。


 ……ん、待てよ。


 普通なら見えないものを見ることができれば、どんなものであっても意外と人はおもしろいと感じるのではないだろうか? ちょうど今日、私が里美さんの私生活をほんの少しながら覗けたみたいに。


「ねえ、てっちゃん」


 ぐいっと身を乗り出して迫る私。てっちゃんは気だるげに「なんだ?」とコーヒーを流し込みながら返した。


「博物館の裏側、お見せしますって言ったら、見に来る?」

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