第五章 その5 うわばみミュージアム

「たしか才蔵の実家は本屋だったわ。長男なんだけど、そっちは弟が継いだはずよ」


 本屋さんか、偶然にしても出来すぎている。シュウヤさんの家のことだろうと、私は静かに確信した。


 一応は仕事時間中の私語、掃除のおばちゃんは声をひそめ、ロビーの椅子に腰かける来館者をちらちらと気にしながら話した。


「ここからは人伝で聞いた話なんだけどね。その本屋、20年くらい前に一度潰れかけたのよ。で、その時才蔵は融資を組むために、当時の上司に頭を下げ回ってお金を工面したそうよ」


 あの頑固者の権化みたいな市長が?


 市職員からは薄情者と陰で罵られる市長であっても、身内のためには恥も体面も捨てられるのは意外だった。


「そのおかげで閉店は免れたんだって。だから弟夫婦は今でも才蔵に頭が上がらないみたいよ」


 ああ、だからか。今までの話から、なんとなく分かってきた気がする。


「あの、弟さんの家族についてはご存知ですか?」


「うーん、よく知らないわねえ。私、昔住んでた所と今住んでる所はだいぶ離れてるから」


 さすがにここまでは確認できなかったが、十中八九私の予想は当たっているだろう。


 もしシュウヤさんがその弟夫婦の息子だとしたら、シュウヤさんと市長とは甥と伯父の関係になる。


 そして一家は市長のおかげで、今も書店を続けられているとしたら?


 書店に市長の講演会のポスターが貼ってあったのは、何も偶然のことではない。恩義のある身内を支援するのは、至って普通のことだろう。


 シュウヤさんと市長が以前からの知り合いに見えたのはこういった理由からだろう。


 そうなると残る疑問はひとつだけだ。ふたりはなぜ、身内同士であることを口にすることなく、あそこまでいがみ合っているのだろう?




 5月も下旬、博物館の駐車場に植えられたサツキの花が見ごろを迎える季節となった。ここからしばらくは連休も無く、おだやかな天気に骨抜きにされたように館内も静かになってしまう。


 だがそれは私たちにとってむしろ好都合だった。この頃、来るべき夏休みに向けて、新しいアイデアを実現するための会議が着々と進められていた。


「展示はただ見るだけでは印象に残りません。別の角度であったり、実際に触ってみたり、工夫があるかないかで印象は大きく違います。例えばそう、この琵琶湖博物館のコウガゾウの骨格標本のように」


 事務所脇の会議室、ボランティアの皆さんが見つめる中高らかに話していた私は、パソコンのエンターキーを押して天井から吊るされたスクリーンの画像を切り替えた。


 表示されたのは先日、私が実際に撮影してきた例のゾウの骨格標本。その巨体の真下に悠里乃ちゃんが立ってこちらにピースを向けているのを目にし、ボランティアのお爺さんたちは「おお!」と小さく歓声をあげた。


「この下を実際にくぐれるのです。ゾウの大きさを身をもって体験できますし、普段は見られない真下からのアングルで標本を見れます」


 聞きながら頷くボランティアの皆さん。今まで博物館に何を置くか、に思考を巡らしていたのに対し、どう見せるかという新たな切り口を提示されて閉塞を打ち破る何かを得た様子だ。


「へえ、これはおもしろそうだ。でもうちの博物館でここまで大きな展示物は……あ、塩田の道具! あれってこういうのに使えないか?」


「いいな。あと道具も実際に触ったり持ち上げありできるようにすると、おもしろいかもしれないぞ」


 たちまち盛り上がるボランティアのお爺さんたち。みんながみんな積極的にアイデアを出し合い、実現に向けて計画を練っていくその様子は、見ていて微笑ましくも頼もしかった。これは夏休みの展示も待ち遠しい。


 だが同時に、私はもう一つ待ち遠しいものがあった。


 実はこの日、私はついに20歳になったのだ。


 朝から高校時代の友達からお祝いのメッセージがぽんぽん届き、長らく出会えていない友人の顔を思い出しながら自分もようやく20になったのだと嬉しくもあり寂しくもあった。しかし今日は平日、他のみんなも働いていたり大学に通ったりとそれぞれ忙しく、直接出会って祝うことはできない。悲しいが成人式が楽しみだね、と返信を送るしかできない。


 それを知った博物館ボランティアの皆さんが、仕事終わりに飲み会を開こうと私を誘ってくれたのだ。


「おめでとう、あずさちゃん!」


 いつもの市民ボランティアの皆さんに加え、シュウヤさんに悠里乃ちゃんも席について拍手を贈る。


 会場は駅近くの小さな居酒屋だ。ボランティアのおじさんが店主と仲が良いそうで、店を貸し切りにしてくれないかと頼んだらしい。平日で客も少ないので、店主は快くOKを出してくれたそうだ。


 友達と比べてもちょっと、いや、だいぶ高齢な方々からのお祝いだが、やっぱり嬉しいものは嬉しい。それに成人を迎えて最初の日に飲み屋に入るなんて、本当に大人になったみたいで多少なりともわくわくする。


「これでようやく一緒にビールが飲めるな、ほらどうぞ」


 おじさんのひとりが結露滴るビール瓶から、とくとくとビールをグラスに注ぐ。そして白い泡と黄金の比がきれいに3:7になったところで、私はそれをこぼさないようゆっくりと受け取った。


「へえ、これがビールか」


 私はシュワシュワと小さな飛沫を弾けさせる液面を覗き込んだ。うちのお父さんもビールは好きで、仕事が終わると毎晩飲んでいる。だがビールはあくまでお父さんが飲むものであって、私も飲もうとはこれっぽっちも思ったことは無かった。そのため、今まで実際にビールを口にしたことは無い。


「あんた、慣れない子にあんましすすめるんじゃないよ」


 ボランティアのお婆ちゃんがかっかっかと笑うおじさんにきつい一言を入れる。その隣の悠里乃ちゃんは羨ましそうな眼で私のビールをじっと見つめていた。


「苦味が強いから無理はしなくていいぞ」


 お猪口を手にシュウヤさんも心配そうに声をかけてくれるが、私はむしろあなたの方が心配ですよ……。


 初めての体験。どんな味がするのだろう?


 大きく息を吸い込み、私はグラスを持ち上げてぐいっと喉に流し込んだ。


 周りの皆さんが「おお!」と驚く。だがそれ以上に、私は口の中に溢れる麦の苦み、プチプチと跳ねる炭酸の感触に目をかっと開いた。


 なんだこれは? 今まで飲んできたどんな飲み物とも違う。初めてなのに、


「ぷはあ、にがーい!」


 そして私はグラスをすべて飲み干すと同時に小さなげっぷをした。


「けど……美味しーい! すっごいスッキリする!」


「だろ? 疲れた時にこの喉越しが堪らないんだよ。さあ、もっといけいけ! 今日は特別にあずさちゃんの飲み代は俺が奢ってやるよ」


 私が最初の一口ですべて飲み干してしまったのに驚いたのだろう、おじさんは気前よく空いたグラスに2杯目を注いでくれた。


「私も……飲んでみたい」


「悠里乃ちゃん、未成年はこれで我慢してな」


 物欲しそうに見つめる悠里乃ちゃんの前に、シュウヤさんがそっと置いたのはミカンジュースだった。お隣愛媛県産のミカンだけを使ったこだわりの逸品で、愛媛出身の人は決まって愛媛の魂とか大逸れたことを言っている。


 まあ、香川におけるうどんみたいなものかな? 香川からうどんを抜いたら、アイデンティティの半分以上をごっそり奪われてしまう。


「お、もう2杯目も空けちまったのか、早いな」


 そんな悠里乃ちゃんを横目に見ていると、私はあっという間に追加のビールまでも飲み干してしまった。すすめてきたおじさんも驚いて面食らったようにきょとんとしている。


「じゃあ次はこっち試してみるか?」


 別のお爺さんがそっと差し出してきたのは徳利とお猪口、そう、日本酒だ。県内の酒蔵で醸造された、一切の濁りの無い吟醸酒。


 お爺さんは徳利からお猪口にとくとくと酒を注いで手渡すと、私はまずそれを鼻に近付けた。


「いい匂い! まるで果物みたい」


「だろ? 美味い酒ってのは香りから美味いんだよ。ほれほれ、くいっとくいっと」


 言われるがまま、私はお猪口を傾けた。


 今度は喉の奥がかっと熱くなる。しかし同時に舌の上を走るクセになるような甘みに、私はこの上ない心地よさを覚えてしまった。


「おお、良い飲みっぷりだ!」


 そして何倍もお猪口に注いでは飲みを繰り返し、ついに徳利が空っぽになってしまうと、お爺さんたちは憧れのプロレスラーを歓迎するかのようにぱちぱちと拍手を贈った。


 ちなみにこの時、既にシュウヤさんは店の隅っこでダウンしていた。毎回毎回学習能力の無い人だ。




「お嬢ちゃん、あんた本当に酒は初めてか? 一升瓶、まるまる空けちまったぞ」


 店主さんが心配そうに声をかけてくれたのは、酒盛りが始まって3時間近く経った頃だった。既におじさんたちは皆べろんべろんに酔っ払い、一部は酔いつぶれてカウンターに突っ伏したまま眠ってしまっている。


「はい、お酒って美味しいので、いくらでも飲めちゃいます」


 だが私は一向にペースを落とさずぐいぐいと飲み続けていた。ビールも日本酒も焼酎も、この店に置かれているお酒には一通りチャレンジしてみたかな?


 それぞれに違った味と香りがあって、その日の気分や食べ合わせによって、何を飲むか選ぶ楽しみもある。一言でお酒と言っても、その種類がたくさんある理由は飲んで初めて気付くものなのだ。


「こりゃすげえ、底なしだな」


 顔を真っ赤にしながらも焼き鳥をついばんでいたおじさんが、若干呆れたように言い放つ。


 それを見ていた店主は小さく頷くと、厨房の冷蔵庫を開き、そこからごそごそと何かを取り出す。


「これはお嬢ちゃんのような人にこそ飲んでもらいたい」


 そしてそう言いながら、店主はドンと一升瓶をカウンターに置いた。


「これは?」


「うちの秘蔵のにごり酒だ。得意先の酒蔵でできた上質なおりだけを使った最上級品だ。本当は非売品で客に出すことも滅多に無いんだが、あんたの飲みっぷり気に入った、是非とも味わってくれ!」


 私は「いいんですか!?」と目を輝かせると、店主は「ああ」と頷き、新品のグラスにその酒を注ぎ始めた。にごり酒との名の通り、ろ過し切れていない白いもわもわとしたものが漂っている。


 だがアルコールの味を覚えたばかりの私は、どんなお酒でも珍しければ飛びついてしまうようになっていた。


「本当だ、パチパチ弾けるみたいで、おいしーい!」


 これは新しい感覚、日本酒なのに日本酒じゃないみたい。初めてのお酒の虜になってしまい、私は堪らずくうーっと唸った。


「あずさちゃんがヤマタノオロチなら、たぶんスサノオは勝てなかった」


 そんな私を見ながら、焼き魚をつついていた悠里乃ちゃんがぼそっと吐き捨てる。


 ヤマタノオロチ?


 何のことかよくわからないが、私は店主の出してくれた秘蔵の酒を飲み干すと、すぐにおかわりを要求した。

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