第五章 その6 こくはくミュージアム

「ほらシュウヤさん、もうすぐで自宅ですよ」


「うううん……すまん」


 私の肩にもたれかかっていたシュウヤさんが、重々しく身体を持ち上げる。今日は私の誕生日だと言うのに例によって例に漏れず、飲み会終わりのいつも通りのタクシー送迎だ。


 後部座席に私とシュウヤさんが並んで座り、夜の住宅地をひた走るタクシー。狭い車内に若い男女ふたりとなると何か想像を掻き立てられそうだが、実際この無言の車内には異様な酒臭さが充満してロマンもクソもない。


 ちなみに未成年の悠里乃ちゃんについては、しばらく前にてっちゃんが車で迎えに来てくれた。お前もいっしょに送ろうかと誘われたが、私はもう少し飲んでいたいと断っていた。


 むにゃむにゃと目を擦るシュウヤさん。一眠りしたからか、一応は意識を保てる程度には回復しているらしい。


 そんなシュウヤさんの横顔を見て、私は小さく頷いた。ずっとずっと言いたかったこと、言うなら今しかない。


「シュウヤさん、ありがとうございます」


 静かに、だが力を込めた声で私は言った。


 こちらとしては結構覚悟していたのに、相手にとっては突然のことだったのだろう、シュウヤさんはクエスチョンマークを浮かべながら「どうしたんだ突然?」と尋ね返す。


「私に博物館の面白さを教えてくれて。私、自分のしてきた仕事を内心、ずっとバカにしていたんだと思います。職員の人数も少なくてお客さんもいない、こんな博物館なら閉鎖しても仕方ないって」


 そう話し続ける私に、シュウヤさんは少し驚いたような顔を向けていた。仮にも1年以上博物館に勤めている職員だ、自分の職場に対して少なからず愛着が湧いているはずなのに、よくもまあそんなことを言えたものだと思っているのだろう。


 そんな彼の心中を察して、私は申し訳なさそうに笑う。


「でもシュウヤさんが市民の皆さんを引っ張ってこられたのを見て、気が付いたんです。あの博物館のために多くの人が必死になって考えて、展示も工夫して、守ろうとしているって。そして博物館について勉強していく内に、博物館の本当の目的や理想を知ることができて、自分の仕事がこんなに多くの人と関わっているんだって自覚できました」


 シュウヤさんはずっと黙ったまま、話し続ける私を見つめていた。なんだか照れくさく感じてきたが、ここまで言ってしまったのだ、最後まで言い切るしかない。


「私、博物館が好きになったみたいです。全部シュウヤさんのおかげです」


 しばらくの間、シュウヤさんも私も何も言わなかった。静まり返る車内、だがなぜだろう、この静寂は決して居心地の悪いものではない。


「そうか……」


 だがやがてシュウヤさんはふっと微笑むと、そのまま俯いた。そして唐突に語り始めたのだった。


「昔、ある人に言われたんだ。お前の勉強している歴史学は何の役にも立たない、若いうちは金を生み出す経済学や医学を身に着けろと」


 どこか遠い眼をしながら話すシュウヤさんの声を、私は一字一句聞き漏らすまいと耳を傾けた。思えばシュウヤさんの過去についてはほとんど聞いたことが無い……いや、別に知ったところでどうということもないのだが、どういうわけか個人的な関心か、私はそのことについて無性に知りたく思っていた。


「俺は3度の飯よりもテレビアニメよりも、歴史の本を読むことが好きだった。数学や物理も嫌いだったわけではないが、歴史の勉強をしている時はまるで新しいおもちゃで遊ぶ子供みたいに時間も忘れていた。そんな俺に歴史の勉強をするなと言っても無理な話だ。博物館は俺にとって、嫌なことを忘れてどっぷり歴史に浸かれる場所だったんだ」


 語るシュウヤさんの声を聞いていると、私まで胸が熱くなってくるようだった。彼は本当に歴史が好きなようだ。だからこそ博士の学位まで取得してポスドクになったのだ。お金よりもやりたいことを貫いてきた、その覚悟は並々ならぬものだろう。


「だからあの博物館だけは、何としても守り通したい……」


「ですね、私もそう思います」


 私は強く頷いて答えた。船出市郷土博物館はまだ死んでいない、夏休み、シルバーウィーク、冬休みとまだまだ逆転のチャンスはある!


 それにしても1年目なんていつ転職したらいいかとばかり考えていたのに、いつの間にかいつも博物館のことばかり考えるようになってしまって……不思議なものだ。


 やがてタクシーは目的地に到着し、私はシュウヤさんを引っ張るようにして車を出る。まつおか書店、シュウヤさんの自宅に到着したのだ。


「ごめんくださーい」


 店の裏手の玄関に設けられた呼び出しベルを押すと、すぐに玄関の扉が開けられる。


「あら、また! すみませんね、本当に」


 顔を覗かせたのはエプロン姿のシュウヤさんのお母さんだ。泥酔した息子の情けない姿を見て、その表情はたちまち険しいものに一変する。


「このバカ! 30手前にもなって、何酔いつぶれて迷惑かけてんのよ!」


「あはは、すんませー……ん?」


 これから折檻でも受けそうな勢いで腕をつかまれ、家の中に引きずり込まれるシュウヤさん。だが足元に目を向けた途端、シュウヤさんは固まってしまった。


 タイルの上にきれいに並べて置かれていたのは、ぴかぴかに磨かれた男物の革靴。シュウヤさんが愛用している履き潰した靴とは何十倍も値段が違っていそうな、いかにも高級で上質な代物だった。


「母さん、これは?」


「才蔵さんが来てるのよ、用事があってね」


 才蔵さん。その名前にあっと私が反応する。


 それはシュウヤさんも同じだった。一気に酔いが醒めたように、とろんとした眼付がたちまち険しいものになる。


「わかった、もう寝る」


「ちょっと、お風呂くらい入りなさい!」


「いい、あの人が帰るまで呼ばないでくれ」


 そう言ってずんずんと家の奥へと消えていくシュウヤさんを、お母さんは速足で追いかける。だが私の存在を思い出すと「ちょっと待ってて」と奥に消え、小さな紙袋を持って玄関に戻ってきたのだった。


「こんなものしかないけれど、良かったらどうぞ」


 私はその紙袋を「ありがとうございます」と受け取った。包装されていて中身はわからないが、どうやら箱に入ったお菓子のようだ。


 そして扉を閉め、私は停車したままのタクシーにとぼとぼと戻る。


 あんなに人が変わったようになるなんて……シュウヤさんと市長とを隔てる溝は、そう簡単には埋まらないようだ。

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