第五章 その3 さざなみミュージアム


「うっわあ、魚のトンネル!」


 薄暗い館内に突如現れたのは壁と天井を泳ぐ何百もの魚たちだった。巨大な水槽と通路をトンネル状のアクリル板で隔てている。おかげで私たちはまるで水の底を歩いているような気分だった。


「でも淡水魚だから、なんか地味」


 後ろからぼそっと呟く悠里乃ちゃんに、それは言わないお約束だよと苦笑いする。まあカラフルな熱帯魚や巨大なマンタでもなければ、ここを泳いでいるのはコイにギンブナ、オイカワなのだから、仕方ないと言えば仕方ないか。


 それでも校外学習に来た子供たちは楽しそうに歓声を上げて走り回っている。


 この琵琶湖博物館はなんと水族館まで併設しているのだ。琵琶湖に生息する魚をはじめ、国内外の淡水の生物が飼育されている。知る人ぞ知るデートスポットとしても有名らしいが、私たちにはまだ縁が無いかな?


「ビワコオオナマズ、全然動かないね」


 大きな水槽の中、くり抜かれた岩の間でじっと動かずこちらを睨みつけているのは体長1メートルもの巨大ナマズだ。


「夜行性だからね」


 悠里乃ちゃんはフラッシュを焚かない設定にして、スマートフォンでナマズのご尊顔を撮影する。


 どうやらこのナマズがマスコット枠らしい。その名もビワコオオナマズ、日本在来の淡水魚としては最大級の大きさを誇り、琵琶湖・淀川水系にしか生息しない希少種のようだ。たしかにこんなでっかいのが暴れたら、地震が起こるかもと昔の人は思ったのかもしれないな。


 それにしてもナマズって、もっとかわいいのいなかったのか? 我らが船出市のえんでんおじさんと良い勝負だが……いや、あっちはただのおっさんだ、まだこっちの方がマシかな。


 正直なところ淡水魚ばかりの水族館と侮っていた。ここはそこらの水族館にも負けない魅力的な展示に溢れている。


 琵琶湖固有魚のビワマスが、まるで回遊魚のように何百匹と群れを作り、円形の水槽の中をぐるぐると泳いでいる。流線形で美しいマスの姿は幻想的で、水槽全体が光り輝いてさえ見えた。


 それにしてもさっきレストランで食べたばかりのビワマスをこんな風に見せられると……罪悪感が湧いてくるな。


 少し進むと魚屋を再現した一角も置かれている。魚屋と言ってもタイやマグロは扱っていない、川魚屋だ。コイやフナの模型が並べられ、モロコの佃煮やコイの子作りが食品サンプルで置かれている。


「ここで泳いでる魚たちも、運が悪ければこんな姿になっていたのね」


 しかしこう見ると川魚も意外と美味しそうに見えてくるものだ。しみじみと食品サンプルを見つめる私に、悠里乃ちゃんが「ねえ」と声をかける。


「鮒ずしの匂いを嗅げるコーナーだって。嗅いでみる?」


 小さな機械の前で小悪魔のように微笑む従妹に、私は「やめておく」と即答した。


 そして一番の人気スポットはここだろう。海外の淡水生物を集めたコーナー、その一角にロシアのバイカル湖の生物を展示した水槽がある。だがこの周辺だけ他と異なり、明らかに人だかりができていた。


「え、アザラシ!?」


 私は今日一番女の子らしい声を上げたかもしれない。壁の写真にはバイカル湖固有の『バイカルアザラシ』の愛くるしい表情が映し出され、水槽前に集まる子供たちのわずかな隙間から悠然と泳ぐアザラシの巨体がちらちらと見え隠れしている。


 まさか公営の博物館でアザラシを飼育しているなんて、思いがけない幸運だ。やはり私も一応は女子、ナマズでもなければえんでんおじさんでもない、可愛いらしい生き物が一番好きだ。


 うーんと背伸びして、ようやく水槽のようすが見える。魚雷のようにでっぷりと丸く太った二頭のアザラシが仲良く連れ添って水槽の中をぐるぐると泳ぎ回っている。


「か、かわいい!」


 一目で私はノックアウトされた。グレー一色の体毛も、真っ黒な眼玉も、何もかもがかわいい。


 さらにラッキーなことに、始まったのは飼育員による餌やりだ。しつけられているのか、バケツから魚を貰う時に飼育員の手の動きに合わせて身体を回したり跳びはねたりと、ショーのように芸を披露してくれる。当然ながら観客の子供たちからは拍手と歓声が沸き起こり、私はじめ数名のいい大人も子どもたちに混ざってきゃあきゃあと歓声を上げていた。


 そんな風にアザラシに首ったけになっていたおかげで、私はいつの間にかいっしょにいた悠里乃ちゃんの姿が無くなっていることに、しばらくの間気が付かなかった。


「あれ、悠里乃ちゃん?」


 忽然と姿を消した悠里乃ちゃんをきょろきょろと探しまわり、チョウザメやガーパイクが悠然と泳ぎまわる巨大水槽を横切る。


「あ、ここにいた!」


 だが彼女は案外すぐに見つかった。悠里乃ちゃんは子供たちに混ざり、腰の高さよりも低い水槽をじっと眺めていたのだ。


「待たせてごめんね、何してるの?」


「あずさちゃん、はい」


 申し訳なさそうに近付く私に、悠里乃ちゃんは不敵ににやっと微笑む。そして何かを握ったまま立ち上がると、こちらに両手を突き出してきたのだった。


「ん?」


 思わず私は両掌を上に向けて「ちょうだい」のポーズを取る。その手の上に、悠里乃ちゃんは何かをぽとりと置いた。


 手に乗せられたのはでっかいアメリカザリガニだった。うめうめと蠢く細い8本の脚に、ごつごつとした立派なハサミが肌に触れる。


「ぎゃああああ!」


 私の悲鳴が館内にこだまする。子どもたちも職員も、全員がきょとんと目を向けた。そりゃあこんなもん突如喰らわされて、平然といられる人間はなかなかにいない。


 だが私とて田舎の子、不意打ちに取り乱しはしたが所詮はザリガニ、落ち着けばどうってことはない。


 博物館が飼育するザリガニである以上、このまま放り投げるのはぐっと堪える。小さい頃はカエルもカメも平気でつかまえていたのだ。ザリガニを刺激しないようゆっくりと手を動かし、背中から甲羅をつまみ上げる『安全な持ち方』に変える。そしてすぐさま悠里乃ちゃんを叱りつけた。


「ちょっと、どこから持ってきたの!?」


「そこ、ふれいあ教室のコーナー」


 にやっと笑う悠里乃ちゃんの指差す先には、なるほど子供たちがザリガニや魚を直接触れるように大きな池のような水槽が設けられている。田舎の子なら何ら珍しくもないことだが、こういう機会でなければザリガニに触れない子も多いのだろうか。


 それにしても悠里乃ちゃん、この子は!


 博物館に出入りするようになってからというもの、どうも性格が変わった気がする。こんなイタズラ、するような子だったっけ?




「すごかったね、ここ」


 帰り際、田んぼ道を走るバスに揺られていると、私も悠里乃ちゃんも今日一日の疲れがどっとのしかかってきたようにへろへろと崩れる。


 とても一日では見足りない規模だった。ひとつひとつをじっくり見ていると、集中力が続かない。


 加えて今朝は早くから家を出てきたおかげで身体もくたくただった。ホテルは京都駅の近くで予約しているので、今日はもう観光には行かずにゆっくりと休もう。


「うん、博物館って結構自由なんだなって思った」


 売店で買ったお茶のペットボトルを口につけながら、悠里乃ちゃんがぼそっと呟くように返す。


「私たち、博物館って聞いて勝手にイメージ固めすぎちゃってたのかもね。館長や里美さんにも教えてあげなくちゃ」


 私も悠里乃ちゃんに共感して頷き返した。お勉強のための堅苦しい施設、博物館に対するそんな先入観がどこか心の奥底に残っていたのかもしれない。その印象を根底から覆す、それほどの衝撃を私も悠里乃ちゃんも受けたようだ。


「ねえ、何が一番印象に残った?」


 なんとなく、話のネタとして悠里乃ちゃんに訊いてみる。


「私、昔の道具がたくさん並んでいるあそこ」


「悠里乃ちゃんはやっぱ歴史が好きだねえ」


「ううん、それだけじゃない。当時の社会情勢や環境問題もわかるようにひとつの展示に色んな情報が盛り込まれてる。でも無理なく理解できるような工夫がされていたのが印象的だった。多くは語らず、来館者の感受性に任せるような、受け取り方は自由ですよってのが」


 今日見た展示品のひとつひとつを思い返しているのだろうか、話す悠里乃ちゃんの目はどこか遠いところを見つめているようだった。


 そして同時に、私は悠里乃ちゃんの観察眼に驚きを隠せずにはいられなかった。この子は私よりも深い洞察を巡らせながら展示を見ていたのだろう。でなければこんな感想は出てこない。


「あずさちゃんは?」


「私?」


 一方の私はちょっと返事に困り、「ええと」と言葉を濁してしまう。


 今日一番の思い出、そんなものバイカルアザラシに決まっている。ついミュージアムショップでぬいぐるみまで買ってしまった。


 だが悲しいかな、うちの郷土博物館で水族展示が実現することなどまずあり得ない。ましてアザラシなどもってのほかだ。

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