第二章 その3 だんらんミュージアム

「うわ姉ちゃんどうしたんだよ、ブッサイクな顔して」


「黙れゴミ」


 疲れて家に帰ってくると同時にいらんこと言ってきた弟の脳天に、私はチョップを叩き込んだ。高校生になってもまったく成長の無い奴だ。


「あずさー、今日は遅かったわね」


 リビングからお母さんがひょっこりと顔を出した。そういえば用事もないのにお父さんよりも遅くに帰ってくるのは初めてだ。


「ちょっと色々あってね」


 私は返事をぼかした。特に5万人云々は非公式の会議での発言だ、親と言えど市民の前でみだりには話せない。


 私の家は新興の住宅地に建つ築17年の一軒家だ。両親が結婚して、私が生まれてしばらく経ってから購入している。もうすぐローンも払い終えるらしい。


 既に晩酌を始めていた父の待つリビングでは夕飯の準備もできていた。今夜は冬の逸品、牡蠣鍋だ。


「あずさ、工場事務は受けるのか?」


 お父さんが好物の牡蠣をちゅるんと呑み込みながら尋ねた。高校卒業と同時に生まれ育った徳島を出てからずっと働き続けてきた工場だ。父にとっては人生そのもの、愛着もあるのだろう。


 弟が放り込んだ牡蠣にも躊躇せず箸を伸ばしながら、私は「まだ決めてない」と濁した。


 そんな私の煮え切らない態度に母は苦言を漏らす。


「受けるなら早く言いなさいよ。こんな安定した仕事、滅多に無いんだから」


 両親とも博物館の閉鎖案を聞いて、娘の今の職場を不安に思っているのだろう。そもそも非正規雇用の身分だ、少しでも収入の良い仕事に就かせたいと思うのは親として当然だ。


 だがそんな親心を理解できない弟は、鍋に新しく牡蠣を放り込みながら言うのだった。


「別に家から通う必要なんか無いんだから、いっそのこと東京とか行ってみたらどうさ?」


「バカ言わないの、家から近いに越したことないでしょ」


 すかさず母が厳しく言を入れた。


 私は返事も頷きもしなかったが、実際のところ一人暮らしに憧れたことは何度もある。しかし家事能力が冗談なく低い私がそんなことしたらどうなるか? 部屋がゴミで溢れ返るのは目に見えている。


「そういうあんたはどうなのよ? 進路について真剣に考えてる?」


 アツアツの豆腐を息で冷ましながら、私は能天気な顔の弟に話題を振った。


「俺は大学受けるよ、この前の模試で東大合格圏に入ってたし」


 そして弟は得意気に答える。


 腹立たしいがこいつはなぜか勉強はできる。中学で自分は勉強と無縁だと悟った姉とはまるで違う。


 さらに物作りの好きな父の背中を見てきたせいか、自動車の開発に携わりたいのだという。将来については姉以上に見通しているのだ。


「具がなくなってきたな」


 もくもくと鍋をつついていた父がぼそっと言うと、家族全員視線を鍋に移した。もう追加できる具材は残っていない。あるのは牡蠣のエキスをたっぷり煮出した残り汁だ。


 だがここで終わりではない。鍋はここからが美味いんだ。


「やっぱ鍋と言えばこれよね」


 そう言って席を立った母が冷蔵庫を開ける。取り出したのはうどん玉だった。鍋の具材は多種多様なれど、シメはうどんが一番だ。


 香川県民とうどんは切っても切れない太い麺……ではなく赤い糸で結ばれている。学生は部活帰りにうどん、サラリーマンは駅で立ち食いうどん、そして大みそかには紅白歌合戦を見ながら年越しうどんを食べるのが我々香川県民なのだから。




 夕食を終えお風呂にも入り、パジャマに着替えた私は自室のベッドで仰向けになる。


 高校を卒業してすぐに就職したので学習机や教科書がそのまま残っているこの部屋だが、片付けるとなるとどうも気が乗らない。


 そして満腹感と入浴で身体が温まりリラックスしたところで、今日一日起こったことが府と思い返される。


「博物館再生計画……か」


 今日シュウヤさんが教育長に見せたのは、30ページ以上にもなる市民団体の活動計画書だった。市民主導の博物館の活性化を目指すため、私たちはその計画実現のサポートに取り組む。


 市役所から帰ってきた後に私自身も目を通して見たのだが、読み込むにはかなりのエネルギーが要った。今日帰宅が遅くなったのは閉館後も事務室で続きを読んでいたからだ。


 書かれていたのはやはり博物館に人を呼ぶためにどうすればよいか、という案がメインで、例としてざっとこれらが挙げられていた。


・展示品の入れ替え

・他所から貴重な展示品を借りる

・ワークショップの開催

・SNSによる情報発信

・市民参加企画の開催

・体験型展示の導入


 短い期間、知恵を絞って考えたのだろう。自分たちでも実現可能な範囲で様々なアイデアが列挙されていた。


 だがもし私が博物館とは関係のない一市民だとして、これらのような取り組みを行ったところで博物館に行こうと思うだろうか?


 水族館や動物園ならいざ知らず、博物館というのは遊びや観光目的で訪れるにはターゲットも絞られる。デートでもテーマパークや映画館はお決まりのコースだが、博物館というのは如何せん少数派ではなかろうか。


 そして改めて思うのは5万というハードルの高さだ。


 全国5600以上の博物館で最も多くの入館者数を誇るのは、やはり上野の東京国立博物館だ。ある調査では1年間で240万人と桁違いの数字を記録している。


 しかし他の博物館も同様に人が入っているというわけではない。正直なところ全国ほとんどの博物館が苦戦を強いられているのが現状だ。


 年間来館者数が5000人を下回っている博物館は全体のおよそ4分の1。このラインを1万人まで上げると全体の4割、さらに3万人になると6割と過半数が達成できないことになる。


 5万人以上が訪れる博物館は全体の3割にも満たない。100万人以上の超人気館はほんの1%ほどだ。


 来館者の見込めない博物館に対して周囲の目は冷たい。常勤の職員が置かれていない、資料購入の予算がゼロ。予算人員ともに削減され、さらなる苦境に立たされるという負のスパイラルに陥ってしまう。


 うちは常勤職員に池田さんと里美さんのふたりがいるだけマシな方だ。資料購入予算は雀の涙ほどだが、ここ数年は新たに資料を購入せずプールしていたらしい。


 ただいずれにせよ5万という目標は遠い。計画書もまだまだ具体的な案が煮詰まっていないのでは先行きも不安でしかない。


「どうにかなるってレベルじゃないよ」


 ごろんとひっくり返って枕に埋もれた途端、瞼が異様に重くなる。ここ最近の疲れがどっと押し寄せてきたのだろう、私はさっさと眠りに落ちてしまった。

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