第一章 その6 白熱ミュージアム
明くる火曜日。博物館の会議室にはずらっとパイプ椅子と長机が並べられ、市民団体と市職員とが向かい合って座っていた。
ちょっとした講演会も開けそうな広さのあるこの部屋を、朝早くから準備するのは大変だった。そういえばこの部屋がまともに使われているのを見るのは初めてかもしれない。
睨み合って火花を散らす住民と市職員。そんな両者に挟まれるように、博物館の森重館長と職員の里美さん、そしてなぜか私の3人は身を寄せ合って座っていた。
「博物館は今後市を支える子供たちが歴史資料に親しみ、郷土愛を育むための施設です。お金がかかるから、収入が見込めないからと目先の利益だけを求めてはいけません!」
市民の先頭に立って力強く主張するのは例によって例のごとくあの男性だ。本当にこの人、何者なんだ?
「ですが市の財政はもう何年も赤字が続いています。教育にも相当の予算が必要であり、先に財政を安定させることが重要です」
きっぱりと反論するのは市の担当者の50歳くらいのおじさんだ。物腰は低くとも譲れないものは譲れないと、強い意思を漂わせる。
「そうなったのはこれまで市が対策を怠ってきたからでしょう。次世代の教育機会を奪うのは道理にそぐわない!」
両者一歩も退かない大舌戦、私たちは当事者だというのにすさまじいアウェー感だ。こういうの見ると、うちの市って本当にヤバイんだなって身に沁みる。
このままだと議論の体をしただけの罵り合いになってしまいそうな予感が漂い始めた頃。突如会議室のドアがそっと開き、若い男性の市職員が滑り込んできたのだ。そして担当者に駆け寄ると、ゴニョゴニョと耳打ちする。
「え、何だって?」
担当者のおじさんがすっとんきょうな顔を浮かべ、なんだなんだと市民団体側も声を上げる。
「すみません、記録を止めてください」
おじさんが手を上げると書記がパソコンを打つ手を止め、市民団体もざわめき立つ。こんなの脚本に無いぞ。
おじさんは椅子に座り直す。そして難しい顔を貼り付けながら話し始めたのだった。
「私たち担当者だけでの話し合いではお互いに満足いくものにならないでしょう。ですがもしここから先をオフレコでという条件を汲んでいただけるのでしたら、より深い話し合いもできますが、いかがでしょうか?」
「オフレコですか?」
市民を率いる若い男性のこめかみがぴくりと震える。
今までにない緊張感。たまらず私は隣に座る里見さんに「これどういうことですか?」と小声で訊いていた。
「記録に残せない内容ね」
こんな状況でも里見さんは至って冷静だった。人事課でバリバリやって来た人だ、こういう場には覚えがあるのかもしれない。
「不思議なものでね、大切なことってのは会議で決まるわけではないの。むしろ公表されない口約束ほど、大きな決定に関わるものよ」
そんなものかぁ? 今ひとつ要領を得られず、私は首を傾ける。
一方の市民団体はみんなで肩を寄せ合い、ごにょごにょと話し合っていた。この交渉に乗るべきか乗らざるべきか、全員の意見を確認しているようだ。
だが話がまとまるのに時間はかからなかった。若い男性は改めて座り直すと、「わかりました、では条件を呑みましょう」とニヤリと笑いながら答えたのだ。
担当者が頷き、扉に向かって「どうぞ」と呼び掛ける。
ゆっくりと扉が開く。そして時が止まった。
「市長……!?」
秘書を伴い、扉の向こうから現れたのは我らが船出市の市長だった。
整えた白髪混じりの頭髪、若い頃ラグビーで鍛えたという老いてなお屈強な肉体。そして知性を感じさせる真四角の眼鏡。
連日テレビを騒がせる、あの市長その人だった。
「本物!?」
驚く市民に混じり、私もとび上がってしまった。私のような下端の非正規職員が市長と顔を合わせることなどまず無い、実物を見るのは初めてだ。
すっと背を伸ばして歩き、そのまま担当者の隣に座る市長。対峙する男は明らかに嫌悪の相を浮かべていた。
「どうも、市長の松岡才蔵まつおかさいぞうです」
うわー市長の生ボイス。ちょっと感激したのは内緒だよ。
まさか議案を出したご本人の降臨とは、こりゃ確かにオフレコ案件だわ。
挨拶もほどほどに、市長は早速本題に入る。気のせいか、その目はまるで向かい合う男性を睨み付けているようにも思えた。
「私が博物館閉鎖を提案したのが緊縮財政策の一環であることは理解いただけると思います。これは選挙戦の頃から公約として掲げていました。そんな私を選んでくださったのは市民の皆様、つまり博物館の閉鎖に賛成する市民が多数派であることはご承知いただけますでしょうか」
悲しいかなこれが民主主義だ。一部の市民が現在の市の方針に対し強く反対したところで、結局は選挙の結果選ばれた市長のやり方が最も多くの賛同を得られているのに変わりはない。
「しかしマイノリティの声を全て跳ね返すのはキメ細かい行政を目的とする市町村の長としていかがなものでしょう。特に博物館はそもそも公立学校や公園と同じで、収益をもたらすための施設ではありません。単にお金がかかるからというだけで切り捨てては、今は良くともこれからの船出市のさらなる停滞をも招くでしょう」
市民団体も負けてはいない。男性は宿命の敵と相まみえているかのように、めらめらとたぎっていた。
だがそんな若い男を市長は涼しい顔でいなす。
「何か勘違いをされていませんか? 私は緊縮財政を推し進めますが、それは無駄な支出を削るというもの。つまり収益の見込める施設や維持に大きな負担にならない程度の施設であれば削減対象には組み込みません」
男は「何ですと?」と言葉を詰まらせた。ガチンコで対決するつもりでいたのに話題を逸らされ、少し面食らっているようだった。
そんな男性を気にも留めず、市長はふとこちらに顔を向けた。
「郷土博物館の1年間の来館者数は何人ほどですか?」
何の前触れも無かった。なんと市長はまっすぐ私の目を覗き込むように尋ねてきたのだ。
突然の流れ弾に私は取り乱し、「え!?」と部屋中に聞こえる声で反応してしまった。途端、全員の視線が私に注がれる。
あ、これはもう私が答える流れだ。一番どうでもよさそうな奴を引き込んで話の主導権を握るなんて、まったくずるいよ市長さん。
「えっと、およそ5000です」
以前見た資料に載ってた数字はたしかこんなもんだったかな。にしても1年でそれだけなら1週間でも
100人か。こんな数じゃ小さなうどん屋さんでもやっていけないぞ。
「そうですか……それだけでは電力さえ賄えるかどうかといったところでしょう」
市長は腕を組み、うーんと唸る。
はい確かに、博物館の維持費って結構すごいんですよ。空調や光熱費で電気を使うのはもちろん、清掃の委託や壊れた展示品の補修、時には資料を守るため専門の業者を呼んで殺虫剤を散布することもある。それら莫大なコストに比べれば入館料なんて子供のお小遣いみたいなものだ。
考え込む市長はしばし沈黙していた。それをじっと見守る市民団体や職員たち。全員が市長の次の発言に耳を傾けている。
「5万人……」
そしてぼそっと市長が呟く。
「へ?」
今、「ごまん」って言った?
よく聞き取れず、私たちは全員耳をさらに尖らせた。
市長は大きく頷き、汲んだ腕を解く。そして意地悪に微笑むと、よく通る声で話したのだった。
「来年度、博物館の年間来場者5万人を達成できれば存続を許可しましょう。結果が出るまでの1年間、博物館閉鎖についての議題は凍結いたします」
「ご、5万!?」
私は唖然とした。約10倍、市の人口とほぼ同じ数。それだけの大人数を1年で呼び込むなんて無茶にもほどがある。
当然ながら市民団体もどよめき立っていた。博物館の現状をはるかに上回るノルマに「バカにしてんのか!」と感情を抑えきれない人もいた。
だが市長は冷ややかだった。
「存続を願うならそれくらいクリアしてもらわないと、市としても認めることはできません。市の財政が困窮し公共サービスを切り詰めて多くの市民の皆様にもご協力いただいているというのに、博物館だけが今と同じというのも妙な話ではありませんか」
突き放したような、それでいて誰も反論できない堂々たる態度。その言い知れぬ威圧感に誰もが黙り込んでしまった。結局市民は松岡市長の手玉に取られていただけなのだ。
まったくこんなのどこが交渉だ、かぐや姫もびっくりの無理難題じゃないか。市民団体に肩入れするつもりはないけれど、同情はしてしまう。
「わかりました」
だがそんな沈黙を破った声に、市長はむっと口を曲げる。声の主はいつも博物館に来ている若い男性だった。
「来館者5万人、必ず実現させましょう。私たち『博物館を守る会』と職員の皆さんで」
彼は硬く拳を握り、まっすぐに市長を睨み返して言い放ったのだった。
聞いて市長は「それは楽しみですね」とわざとらしく笑い返す。
市民団体から「おおっ」と歓声が上がる。ともかく市長の口から博物館閉鎖撤回の条件を言わせ、約束までこぎつけたのだ。彼らにとって無謀とはいえ大きな前進には違いない。
だけどちょっと待って! 今、「職員の皆さんで」とも言ったよね!?
私たちのことなど置いてけぼりに、市長と市民団体とでいつの間にか話が変な方向に転がっているよ!
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