復讐の系譜(3 剛なる男)

 紫月は十人ばかり人を集めると、旅行会社を介して日本行きのツアーを手配した。行き先も東京、名古屋、札幌とばらばらであり、出発日もずらしている。旅費は、全て紫月持ちである。人集めも旅行も、すべて紫月が香港の裏社会を通して築き上げた人脈である。もちろん、サービスでも何でもない。「旅行者」の条件は、一人七百グラムの金塊を持ち運び、日本で換金し指定の口座へ送金すること。入国にあたって申告が必要な量を、少しだけ余裕を持たせた分量であるが、七百グラムでも三百万円を超える計算となる。しかも消費税が加算されるため、日本で売るだけで八%の利子が得られるのだ。これによって、諸経費を引いても手付金のうち三千二百万円を難なく日本に運び入れることに成功した。

 一方、紫月と維維は沖縄行きの客船に乗り込んでいた。途中石垣島を経由して那覇へと向うこの客船は二千人を超える収容力を誇り、一時のピークこそ過ぎたものの購買意欲の旺盛な乗客を満載して毎週往復していた。人口五万人程度の小さな島に過ぎない石垣島は、就航日には島全体がお祭騒ぎ状態である。特にドラッグストアや観光客向けの焼肉店などは、文字通り嬉しい悲鳴の飛び交う戦場と化す。しかも飛行機に比べ荷物の制限も緩いため、東京や名古屋と比べても「爆買い」の度合いもまた違う。

 紫月は電動車椅子に乗って入国審査に臨んでいた。電動車椅子には人口呼吸器が取り付けられ、二本の管が鼻へと伸びていた。電動車椅子には十キログラム、およそ四千五百万円の金塊が隠されている。紫月の提示したパスポートは、香港籍の偽造品だった。係官はパスポートと彼の顔を見比べて、首を二,三回ほど傾げた。何かが怪しいと勘づいたのか、単に今まで経験がなかった入国者だからに過ぎないのかわからない。少なくともこの時点で日焼けはすっかり失せていたため、素人目には一見病人を装った健常者とは見えないはずだ。紫月は無表情のまま無言のまま、係官を見つめ返していた。

「早くしろ!」

「いつまで待たせるんだ!」

 紫月の後ろには、船から下りたばかりの乗客たちが長蛇の列を作り、痺れを切らしていた。追い立てられるように、係官はパスポートにスタンプを捺した。

 紫月がターミナルを出ると、一足先に入国手続を済ませた維維がセレナを紫月に横付けした。レンタカーで調達したものだ。紫月と電動車椅子を乗せたセレナはまず船会社へと行き、電動車椅子を東京まで発送の手続を取った。分解でもしない限り中身に気づくことはないし、通常のものより重量が十キログラム違うことを見破ることができる者は、まずいない。船会社の次は、まっすぐに空港へと向かった。紫月は何事もないように歩いてセキュリティチェックを通過し、羽田行きの便に搭乗した。観光の島であるにも関わらず、二人が滞在したのは二時間に満たなかった。

 一週間ほどを要したが八千万円近い当座の軍資金を確保した紫月が連絡を取ったのは、新聞記者の梶谷裕樹だった。新宿のアイリッシュパブのカウンターで、フライドポテトを肴に互いにビールグラスを傾けた。

「いつも急に電話してくるんだもの。あなたの行動は、本当に読めないなぁ」

「読まれた時点でアウトなのは梶谷さん、あなたが一番ご存じでしょう」

 梶谷は厳密には雑誌記者と呼ぶべきかも知れない。彼の所属する編集部が出す「デイリータイヨー」は一般的にはスポーツ新聞に類似したタブロイド紙として認知され、確かに新聞紙を用いた紙媒体である。しかし同紙が親会社の事情で日本新聞協会に未加盟であることから、区分上は雑誌とされているのだった。権力を歯に衣着せぬ、というか時には口汚いぐらいに批判・風刺する姿勢で他の全国紙とは一線を画している一方、芸能ゴシップやアダルト記事も多いことから好き嫌いの極端に分かれるメディアであった。

 梶谷が紫月と知り合ったのは、三年ほど前の取材がきっかけだった。カムイ銀行という北海道の地銀をめぐる事件の真相を追い続けて、紫月に辿り着いた。当時の梶谷にとっては、紫月は既に死亡していたはずの人物だった。しかも不可解なことに、遺書も死体も発見されていないにも関わらず、入水自殺したとマスコミが一斉に報道した。今もなお、紫月は既に死んだ人物として認知されている。

 ちなみに、当時梶谷が属していたのは、日本でもメジャーな経済雑誌だった。彼がデイリータイヨーに移ったのも、紫月と出会った後のことである。カムイ銀行の疑惑を誌面で連載し続け、単行本の発行に漕ぎ着けようとした矢先に、ストップがかかってしまった。限界を感じた梶谷は活動の場を移し今に至っている。

「今度は、どこを狙ってるんです?」

 冗談とも本気ともつかぬ笑みを浮かべながら、梶谷は切り出した。

「日本JX。あの会社を何としても乗っ取りたいというのが、今回の依頼者ですよ」

 梶谷は正面を向いてふーん、と引き伸ばし気味に声を上げた。興味をそそった時の、百戦錬磨のジャーナリストの癖であった。かと言ってもちろん、具体的な依頼者の詳細にまで突っ込んだ質問をするほど野暮な人物ではなかった。

「あそこの会社は容易じゃないですよ。会長が会長なだけに、入り込む余地はほとんど無いんじゃないですかね」

 会長の藤田剛も、財界人としての知名度に関してはコーヨー電子のルドルフ・フランセンに負けていなかった。七十歳を超える高齢を感じさせない剛健な容貌と、決して考えを曲げない頑固一徹な性格で知られていた。その一方で、ボールペン一本購入するのにさえ決裁書を要求するほどの神経質さも併せ持っており、本人自ら著書で徹底した現場主義を信条として謳っていた。なるほどトップがこれでは、開明社のようにはいかないだろう。

「取引先の立場でも、なかなか手は出せないでしょうね?」

「会長が絶えず目を光らせていますから。怪しい取引があればすぐに見つかってしまいます」

 例えば、従業員が仕入先から不当なマージンを得ることである。大企業である限り、協力会社に対しては圧倒的に優位な立場に立っているのが現実である。それでも会社の方針として公平を期すれば良いが、その地位を悪用して仕入先に対し個人的に金品を要求することが往々にしてある。あるいは、取引を継続したいがために仕入先が自ら贈答することもある。

 仕入先が税務調査によってこれらの支出が発覚してしまい、激怒した会長によってその日のうちに降格させられた職員もいたと言う。元請けに知られるのを恐れるため、勘定科目をカモフラージュするか社長のポケットマネーから支出するのが通常だが、担当した会計事務所の職員がたまたま入社して間もない新人だったため、担当者の名前まで摘要欄に記載していたのだ。

 顎を拳に当てて紫月はうーん、と小さく唸った。企業の内部統制は、良い方面でも悪い方面でも企業を取り巻く経営環境に最も左右される。経営環境は社風や経営理念といった内部環境と、法規制や市場の状況などの外部環境に大別されるが、前者を決定づけるのは何よりも経営者の基本姿勢や人物像によるところが大きい。内部統制が強固と言うことは、事務処理ミスによる誤謬が生じにくいだけでなく、意図的な不正が生じる土壌も小さいことを意味している。

「例えば、子会社で問題のありそうなところはありませんかね?」

「子会社は材料のサプライヤーと中間製品のメーカーが中心ですからね、よそをM&Aして拡大とか言うのはありません。社名が違うだけで親会社の延長線上と考えた方が良いでしょう」

 紫月は腕を組んだ。一点の隙間も無いと言うのか? いや、どこかにあるはずだ。僅かでもあればそこから侵入して黴のように菌糸を伸ばし、内部から朽ちさせることが出来る。

「ところで、見たことがありますか? 覚えている人はほとんどいませんが、当時は大々的に宣伝してたものですよ」

 梶谷がいつの間にか取り出していたタブレットを紫月に寄越した。映し出された画面では、美少女がガラケーを手に微笑んでいる。ガラケーからは木が生え、伸びた枝や葉は花や地球やハートマークに変化している。地球の中心では、アフリカの幼い子どもがはにかんだ笑顔を見せていた。見出しには、

「みんなに優しいケータイは、あなたとJXが創ります ネクスト・ピース・モバイル・プロジェクト」

と書かれていた。

「山崎はるかじゃないですか。懐かしいですね」

 十年近く前にドラマで人気を博した少女だ。後に覚醒剤の所持で逮捕され、芸能界からも完全に姿を消して久しい。

 だが、一見するとただのCSR広告にしか見えない。

「ほら、ここをよく読んでみて下さい」

 梶谷が親指と人差し指で画面を押し広げると、片隅の説明文が拡大された。説明文を、紫月は食い入るように読んだ。

「読む限りでは、相当本気の投資みたいですね。携帯電話の常識が根本的に変わるとか」

 もちろん、現在知る限りでは、ここに書かれているような携帯電話の常識を覆す事態は全く生じていない。

「梶谷さん、当時の記事とか何でもいいんで、後でメールしてもらえませんか? それじゃ、飲み直しましょう」

 紫月は、泡のすっかり消えたビールの残りを、一気に飲み干した。

 あくる日、梶谷から送られてきたのは、当時の藤田会長にインタビューした新聞や雑誌の切り抜きのスキャンだった。総括すると、携帯電話の製造に欠かせないレアメタルの市場価格が鰻昇りに上昇する昨今において、いかに効率良くリサイクルできるかが大事という内容だ。もちろん、原料相場は当時ほど高騰していないし、大なり小なり勝手は当時とは違う。問題は、これらの投資が今も生きているのかどうかである。午後になって紫月は都立図書館へ足を運び、リサイクルあるいは携帯電話の生産技術に関する研究論文を読み漁った。

 その晩、紫月は印刷した過去十期分の有価証券報告書と向かい合い続けていた。今回のアジトは前回の私鉄沿線のボロアパートではなく、九段下の雑居ビルの一室である。一見すると、普通の零細企業のオフィスだ。ホワイトボードには日本JXの連結子会社及び関係会社の名称と、十期にわたる売上高、純利益、純資産、総資産といった財務数値の推移がびっしりと書かれていた。維維もオフィスの中央におかれた会議机の前に座り、ホワイトボードを眺めている。

「これだけの規模で自己資本は四十%台。足腰相当強いの会社ね」

「ざっと数値を見る限り、不自然なところは見られない。架空資産で膨らましている様子もなさそうだ」

 これに対し、コーヨー電子の自己資本比率はぎりぎり二十%。経営危機で債務が膨らんでいたことを差し引いても、この規模では決して低い数値ではない。だが日本JXの株価にインパクトを与えるには、生半可なダメージでは不十分だろう。

「あとは、例の『ネクスト・ピース・モバイル・プロジェクト』の投資がまだ生きているのかどうかだ。当時のニュースによると一千億円を注ぎ込んだというが、その後追加の出資があったかも知れないし、撤退した形跡も確認できなかった。有報だけでは、今の残高まではわからないな」

「もしB/S (貸借対照表)にそのまま残ってているとしたら、どうなるの?」

「現時点で利益で生んでいるのなら必ずニュースになるし、直近の有報ではネクストのネの字にも触れていない。おそらくモノになっていないから、減損は避けられないだろう」

 現行の会計制度において、投資した事業や設備が業績不振や行政処分などの事情により、投資額の回収が不可能であることがほぼ確実となった場合、当該資産の評価を引き下げなければならない。投資が会社の出資であれば、当該会社の純資産と出資割合に基づいて実質的な価値を算出するが、固定資産の場合は当該資産がもたらすキャッシュ・フローを基礎に評価額すなわち回収可能額を算定することとなる。

 たとえば、減価償却を差し引いた設備の簿価が二千万円だが、これを活用しても現在価値に換算したキャッシュの総額が千五百万円しか見込めない場合、差額の五百万円は回収不能額として減額しなければならない。このプロセスを、固定資産の減損という。ちなみに、同じ施設を売却すると千七百万円のキャッシュ・インになる場合、当該固定資産の価値は千五百万円ではなく千七百万円あることとなり、減損損失は三百万円になる。

 ちなみに当該設備は南アフリカにある。現地のベンチャー企業に出資するとあるが、社名までは当時の記事には詳しく書かれていなかった。ただでさえ地球のほぼ反対側に近いのに、現時点の情報だけでは、現地に赴いても空振りに終わりかねない。

「まいったな、こうなったらあの手を使うしかないか」

 維維も無言で頷いた。


 日本JXの本社は前橋市にあり、登記上だけでなく本社機能もすべてここにある。日本橋の東京支社はその日の朝からぴりぴりした空気に包まれていた。

「支店長、先程外環道を降りられたそうです」

 三村陽一支店長は、一階の玄関で直立したまま報告を受けた。額には冷や汗をにじませている。立っているのは三村だけではない。課長クラス以上の上級職員がエントランスを挟んで十人ずつ雁首を揃えていた。

「会長がいらっしゃいました!」

 自動ドアが開くとともに、一人の黒服が叫びながら走ってきた。本社より同行してきた露払いである。男が素早く最前列に立つと、全員が一斉に四十五度頭を下げた。

「お疲れ様です!」

 出迎えた社員たちの間を、藤田剛会長は足早に歩き去った。頭は真っ白な髪に覆われ顔には皺が深く刻まれているが、百八十センチを超える身長と百キロを超える巨体を、上品なグレーのスーツに包んでいる。決して肥満体ではなく、筋骨ともに引き締まった肉体は、大学時代に相撲部で鍛え抜かれたものだった。

 会議室でのブリーフィングを経て、藤田は各部署を一つ一つ視察に回った。行く先行き先で、全社員から直立不動での出迎えを受けた。現場が緩めば会社全体が緩む。会社の土台が緩めば、会社は倒れる。それが藤田の経営哲学であり、東京に限らず全国の営業所に対して目を光らせることを絶やさなかった。

 その後、販売戦略会議が執り行われた。これは藤田の視察よりも前に決まっていたことであり、当然藤田の同席を想定していなかった。そもそも今回の視察自体、二日前に本社より一方的に告げられたものだった。会議自体は定例的なものであり特別な内容を話し合う予定もなかったのだが、自分も同席すると藤田は言って譲らなかった。いや、譲るも譲らないも、藤田に対してもの申せる者など、誰一人としていなかったのである。およそ二十人ばかりの会議室は、重く重く張りつめた空気に包まれた。

「・・・自治体向け防災無線は今期も順調に成約しています。一方、タ、タクシー用無線の受注は・・・」

 何度も噛みながら、起立して資料を読み上げる三上は、否が応でも奥に鎮座する藤田を意識せざるを得なかった。藤田は険しい表情のまま、腕を組んで机に置いたレジメをじっと見下ろすままだった。三上の声以外は、レジメをパラパラとめくる紙の音だけが時折淡々とするばかりだった。

 会議は現状の報告と今年度の計画の再確認だけで時間が経過した。藤田は、終始押し黙ったままだった。

「えーと、ほかに連絡等はありませんでしょうか。なければ本日の会議はこれで終了致します」

 司会進行役の係長が告げ、出席者たちが半ば腰を上げたときだった。

「おい」

 決して大きくない、しわがれているがバリトンの効いた声が、ぼそっとあがった。藤田だけは、椅子に深く座ったままだ。

「君、最後にタクシーに乗ったのはいつだ?」

 三上の背中から太股にかけて、ゾクッとしたものが駆けめぐった。

「昨夜、東方商事との接待が終わって戻るときです」

「個人かね?」

「いえ・・・あすなろタクシーです」

 血色を失ったのは、三上だけでなかった。会議に居合わせている全員が、一様に震えていた。あすなろタクシーを含む都内の大手タクシー会社五社のうち日本JXの無線機を採用しているのは、新宿交通一社だけだった。

「ドライバーはどのぐらいしゃべっていたかね?」

「二・・・二、三度ほどセンターと行き先を話していました」

 しどろもどろに応える三上だが、藤田の方は加速度的にボルテージが上がる一方だった。

「センターの応答はすぐ来たか?」

「えーっと・・・普通だったと思います」

「雑音の具合は?」

「あ、はい、ありました」

 藤田の言わんとしていることは明らかだったが、無茶といえば無茶でもある。だいいち、接待の得意先が大の酒豪で三軒も付き合わされたのだから、タクシーは乗ってすぐに眠りこけていたのだ。しかも、この日の資料づくりのために、まともに寝られたのは三時間ぐらいでしかなかった。

「ドライバーは機嫌よく運転してたか?」

「あ、えーっと、うーん・・・はい」

 とうとう藤田の堪忍袋の緒は限界に達してしまった。

「はいじゃないよ! いつだって、そんなボケッとしかまま動き回ってるのか? えッ!」

 藤田の剣幕が雷となって三上を直撃した。バスの効いた怒声は、三上の内蔵さえも激しく揺さぶる。

「お客様の方から売ってくださいって来るとは限らないんだから、普段からアンテナぴんと張ってなきゃダメだろ! 何年やってもそんなままだから、わが社はいつまでもトップになれないんだろうが」

 三上は動くことすら出来ず、立ったまましょげてしまった。

「聞いてるのかコラ! お前ら全員、お前らだよ!」

 三上だけに留まらず、その場にいた職員全員が生贄となった。曰く、部下の責任は上司の責任と、独演会は十五分にわたって続いた。

 ひとしきり説教し終えた藤田は、その足で前橋の本社へと戻った。東京の後には横浜支社を視察する予定となっていたが、ドタキャンされた横浜の社員たちが胸を撫で下ろしたのは言うまでもなかった。

 東京支社と幹線道路を挟んだ向かい側のビジネスホテルの一室で、三上はノートパソコンを開いていた。終電を逃して泊まっているわけではない。この部屋が彼の仮住まいである。その前までは仙台支社の勤務だったが、先週になって突然の異動命令を受けた。普段の業務に追われて新しい住まいの契約は目処が立たず、もう一週間はホテル暮らしが続きそうだ。

「ちくしょうめ、マジ死ねばいいのに、あんちくしょうめ!」

 三上がキーボードを叩いていたのも、仕事ではなかった。画面に映し出されていたのは、誹謗中傷から真偽不明な与太話に至るまで、何かと悪名高い匿名掲示板サイトだった。質と信憑性を問わなければ、善くも悪くもこのサイトではどんな情報でも揃っており、必ずと言っていいほど該当するカテゴリーのスレッドが立っていた。東証一部上場クラスの大企業であれば、だいたい企業ごとのスレッドが存在する。日本JXとて例外ではなかった。現役社員や元社員、出入り業者、あるいは全く無関係な人物が寄り集まって、珍妙な談義やら罵り合いやらで盛り上がる。すべてのスレッドに当てはまるわけではないが、仮面舞踏会ならぬ仮面黒ミサとも言うべき、猥雑でいかがわしい仮想空間だった。

 悪罵の限りを尽くして藤田の悪口を長々と書き連ねると、発泡酒の空き缶を一つまた一つと増やしていった。もはや三上にとって、「猥雑でいかがわしい仮想空間」は欠かすことの出来ないもう一つの日常となっていた。同じような「被害者」と同病相哀れみもすれば、自身の投稿に対してつまらない突っ込みを入れた相手に対して、現実世界ではとても憚られるような言葉でやり合ったりさえもした。ややもすれば、その相手が大学時代の同期とも、はたまた職場の目の前にいる直属の上司かも知れないが、三上は微塵も考えたこともなかった。

 投稿の反応(レス)を待ちながら、同時に同僚や得意先とのメールの遣り取りも欠かさなかった。パソコンを起動している間、メールソフトを常に開き続けているのも、もはや慣習であった。ブラウザを開きイントラネットにログインし、来週のスケジュールを確かめるのも、同様だった。仕事と並行しながら掲示板の与太を眺めるのは、人によっては不思議に思えるかも知れない。か、三上にはそれが当たり前であったし、決して仕事の手を抜いているわけでもなかった。

「へえ、かわいそうねぇ。私だったら一日でやめちゃうよ、こんな会社」

 三上と同じフロアの客室で、徐維維は素っ頓狂な感嘆の声を上げた。彼女が開いた二台のノートパソコンの一つには、東方商事から三上に宛てられたメールと、掲示板の三上に対する慰めと嘲笑の反応がそれぞれ映し出されている。三上のパソコンで実際に操作されている様子が、そっくり再現されているのだ。もう一台のパソコンの方には、三上のIPアドレスやIDがひっきりなしに現れては消えている。パソコンには、Wi-fiルーターを改造した特殊な受信機がつながれていた。

 地方支社から出張してきた、あるいは終電を逃した日本JXの社員がこのホテルを頻繁に利用するのは、予想通りだった。しかも、ホテルなどの公共Wi-fiは有線のLANに比べ、セキュリティが脆弱である。紫月はそこを狙って、一週間ほど前から維維をホテルに張りつかせていた。お蔭で、日本JX内部のメールの遣り取りもイントラネットのパスワードも、維維の手にかかれば取り放題だった。だが、そうは言っても『ネクスト・ピース・モバイル・プロジェクト』の情報はかすりもしなかった。

 いや、元々それが目的だったわけではない。紫月の狙いは、システム内部に入り込む鍵を盗み出すことと、それを手がかりに会計監査のスケジュールを探ることである。紫月の言っていた「あの手」とは、もっと荒っぽい手段だ。

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