復讐の系譜(4 ブレイクスルー)

 日本JXの決算月は九月である。一般的なスケジュール通りであれば、十月中旬から監査が始まるはずである。早ければ十一月初頭には決算短信が公開され、最終的に有価証券報告書が出来上がるのは十二月中頃だ。会社の規模から言って、およそ三週間にわたって監査チームは現場に張り付くことになるだろう。

 紫月はスマートフォンを取り出した。画面には、九月九日十八時〇五分と表示されている。前橋の本社工場の駐車場の片隅で、小一時間じっと待ち続けていた。

「もう帰ったはずだ。用意はいいか?」

 宮田重樹はシートの隣の紫月に囁いた。宮田も紫月も、明るい薄緑色の作業服姿である。宮田は紫月が維維とともに日本に来るのに先立ち、本社に出入りする清掃業者の臨時社員として潜入していた。紫月の仕事仲間としては、維維よりも古い付き合いである。六〇歳手前で禿げ上がった頭と百六十センチそこそこの瘦せ細った体躯からは、一見何の変哲も無い貧相な初老の男でしかない。しかし、これといった特徴のない人物ほど味方にすると頼もしく、敵に回すと危険なのだ。

「ああ。行こう、宮さん」

 二人は制帽を被ると、同時に四トントラックを降り、荷台を開けてキャリーカートを下ろした。キャリーカートは紙屑などのゴミで半分満たされていた。

「すいません。ちょっと忘れ物がありましたんで」

 通用口の警備員も、いちいち訝しんだりすることはなかった。二人はキャリーカートを押しながら、まっすぐに経理部を目指す。宮田がルートを事前に調べたものであることは、言うまでもない。エレベーターの三階を降り、経理部のドアの前に立った。ドアはフレームと把手以外は強化ガラスで出来ていたが、ドアの向こうは非常出口の緑の灯りだけが薄暗い部屋の中で光を放っていた。本来であれば月初月末が多忙だが、前月末の締め業務も既に一段落したのだろう。

 宮田は首に下げていたICカードをドアの脇にかざす。カチャっという無機質な音と共にロックが解除された。部屋の隅には、二台の大型スーツケースが置かれていた。スーツケースには、送り主にPKP有限責任監査法人と印字された宅急便の伝票が貼り付けられていた。二人は無言で頷くと、キャリーカートのゴミをまさぐった。ゴミの間から出てきたのは、色も形も大きさも全く同じ二台のスーツケースだった。中にはブロックを重りに入れてある。伝票を剥がし偽のスーツケースに貼り替えると、「本物」をキャリーカートに入れてゴミで覆い隠した。

 スーツケースを積んだトラックが出るのを待っていたかのように、本社工場のゲートは閉まった。本社が遠ざかるのを見届けた紫月は、深い溜息をついた。口の中はカラカラだ。

「何度やっても、これだけは心臓に悪いよ」

「ははは、わしらと違って頭のいい人のやる仕事じゃないさ」

 トラックはショッピングモールの駐車場に入り、ステーションワゴンの隣に停まった。車体は白い無地で、営業車でよくあるタイプである。トラックの荷台からスーツケースだけ降ろすと、ステーションワゴンに手早く積み替えた。宮田は会社へ戻ってトラックとICカードを返却しなければならない。紫月は荷台の中で作業服から背広に着替えると、ステーションワゴンを運転して駐車場を去った。

 宮田がカブに乗って、紫月が投宿しているビジネスホテルに合流したときには、夜八時を過ぎていた。紫月がドアを開けるなり、上機嫌に白いレジ袋を見せた。

「久々の大仕事なんだから、パーッと景気良く行かなきゃ。ね?」

 宮田の手土産は、特上の鰻丼が二つだった。これも経費のうちだが、もちろん事後承諾である。相変わらず調子のいいおっさんだと、紫月も苦笑いする。

 鰻を手っ取り早く平らげると、早速仕事の続きに取り掛かった。宮田は古いくたびれたバッグから板状のプラスチックケースを取り出して開けた。ケースには、様々な形状の細い金属の棒が何本も揃っている。その中から、二本ほど選んだ。

「まあ、こんなの使ってやるほどでもないんだけどね」

 宮田の手にかかるとスーツケースは二つとも、ものの十秒で解錠してしまった。鍵だけでなく三桁のナンバーロックもあるのだが、やはり鼻歌混じりに陥落した。スーツケースを開くと、どちらもA4サイズのファイルがぎっしりと詰まっていた。PKP有限責任監査法人も開明社のソフィア有限責任監査法人と同じく国内の大手監査法人の一つであったが、ソフィアに比べ監査調書を紙で残すという文化が色濃く残っていた。

 現場ではどうしても過去の記録が必要になるため、被監査会社へ往査するときは必ず過去の監査調書を現場に送ることとなる。しかし記載されている内容は極めて重大な機密情報であるため、漏洩を防ぐため、堅牢でかつ施錠可能なスーツケースを用いるのが監査業界では一般的である。監査担当者自ら運ぶこともあるが、運送会社を使って事前に送り届けることが多い。

 紫月は医療用のゴム手袋を両手にはめた。指紋を残さないためである。固定資産と表紙に書かれたファイルを手にして、ぱらぱらとめくる。果たして、『ネクスト・ピース・モバイル・プロジェクト』に関する記述があるだろうか。続けて、連結調書と書かれたファイルを取り出す。本社以外の連結の対象となる子会社の情報が、ここに集められる。『ネクスト・ピース・モバイル・プロジェクト』が本社によるものなのか、子会社におけるものなのか、現時点では判別がつかない。その次は、表紙の色の異なる『永久調書』と題されたファイルを開いた。定款や経理規程・就業規則などの諸規程に続いて日本JXのパンフレット、さらにずっと遡った契約書が綴じられていた。

 本当はじっくりと読み込みたいところだが、それは時間が許さない。二人はめいめい、監査調書を一枚一枚デジカメで撮り始めた。スーツケース二台分の資料を写すのだから、気が遠くなる作業だった。かと言って、給紙機能のあるスキャナーは使いたくなかった。サイズの異なる用紙も混じっている上に、下手にばらしたりすると、何処でどんな形跡が残るか分からないからである。幸い、鰻の力のお陰で二人とも最後まで集中力を切らすことなく撮り切ることが出来た。全ての監査調書を撮り終えたとき、午前四時を僅かに過ぎていた。

 ところで、まだ決算が終わっていないのに、なぜ監査調書が送られて来たのかと疑問に思うかも知れない。もちろん、翌月の期末監査まで一ヶ月以上放置されるわけでもない。よほど小規模な会社でない限り、決算前の余裕のある時期に既に判明した範囲に対して監査手続を行うものである。売掛金や借入金など資産・負債の残高は決算日になるまで確定しないが、それまでになされた固定資産の取得や借入、あるいは発生した売上や経費を確かめることは出来る。最終的な期末の数値を検証する期末監査に対して、これを期中監査と言う。維維がイントラネットのハッキングで得たスケジュールによると、明後日の九月十一日より期中監査が始まるとのことである。

 あとは昼まで寝て、夕方になって再び宮田と二人でスーツケースを元に戻せば良い。ところが、九時頃に突然紫月の携帯が鳴った。見知らぬ電話番号だ。

「紫月様のお電話ですか? こちら前橋市民病院ですが…」

 宮田はいつも通りカブに乗って清掃会社へ出勤する途中、視界の悪い交差点から突然飛び出してきた車に撥ねられた。まさか何者かの妨害工作か?と紫月は一瞬疑ったが、相手方も出勤中だった三〇代の女性であり警察の事情聴取にも応じているし、ブレーキ痕も路面にはっきり残っていた。故意に宮田を狙ったのではないことは明らかだった。

 一方、宮田の方は命に別状こそないものの左大腿骨を複雑骨折しており、最低でも一ヶ月は病床から動けない。

「よぉシヅちゃん、すっかり死に損なったわ」

 顔面蒼白になって病室に駆けつけた紫月を、声こそは弱々しいがカラカラと笑って出迎えた。

「相変わらず、食えないじいさんだよ」

 宮田の無事を知った紫月は、思わず片目を親指で軽く拭った。

「じゃが、本当にすまんかった。お陰で、とんだ誤算となったな」

 紫月は咄嗟に病室を見回した。宮田の部屋は個室ではなく、四人部屋だ。患者の一人はイヤホンを挿したベッド脇のテレビの方をずっと向いたままで、もう一人は横になって文庫本をめくっていた。残りの一台は空いている。

「あとは俺に任せてくれ。あんたは治療に専念するんだ」

 口ではそうは言うものの、居ても立ってもいられなかった。明日監査法人が会社にやって来る。それまでに監査調書のスーツケースを戻さなければならないと、すり替えているのがばれてしまい万事休すだ。紫月と宮田に、さらには維維にも足が着くのは時間の問題だろう。作戦失敗と諦めるのなら、直ちに三人とも国外へ脱出するしかない。あくまでスーツケースを元に戻すか、逃げるのか。紫月は今ここで決断しなければならなかった。

 紫月は監査調書のスーツケース二台を載せたステーションワゴンを本社工場に向けた。正門の受付簿には石原省伍、面会相手は経理部・中尾と書き、車を中に進めた。本社事務所の受付でしばらく待つと、Yシャツに作業服を羽織った四〇代半ばの職員がやって来た。両手には、二つの大きなスーツケースを持っている。

「お世話になります。経理部の中尾と申します」

「この度はとんだ手違いで、ご迷惑をおかけ致しました」

 本社を訪れる直前、紫月はソフィア有限責任監査法人の石原と名乗り、宅急便の伝票に記載された経理部の外線番号に電話した。応対したのが、中尾だった。要約すると、以下の通りである。

 コーヨー電子の前橋工場に往査するため調書を配送したが、どうも鍵が合わない。運送会社に問い合わせたところ、担当ドライバーによるとスーツケースに貼っていた伝票が剥がれてしまい、貼り直しはしたが見た目が同じで中身も確認できないため、入れ替わってしまったのではないかとの話だった。もう一組のスーツケースの相手先は日本JXなので、そちらへ直接聞いて欲しい旨の連絡を受けた。

「しかし、漫画みたいな話があるんですね。驚きました」

 中尾はニコニコと笑う。

「やっぱり。一回剥がれて貼り直しているから、弱くなってますね」

 紫月は中尾が運んできたスーツケースの前に屈み、伝票をわざとらしく少し剥がしてみた。それを剥がした本人であることなど、中尾は夢にも思わなかった。続けて紫月はスーツのポケットから、親指の先ほどの鍵を取り出した。スーツケースに挿して回すと、何の抵抗もなくスッと四分の一回った。ボタンを押せば、パチッと音を立ててストッパーが起き上がった。もう一つの鍵穴を回してストッパーを押し、あとはナンバーロックを回せば完全に開く。無論、実際に開けて中身を見せるわけにはいかないが、そこまでしなくても説得力は十分だった。もう一台についても、同じように鍵を開けて見せた。

「ああ、間違いない。いやぁ、本当に助かりました。最初は首でも吊るしかないと本気で覚悟しましたから」

「機密情報を扱う仕事ですからね。やっぱり大変ですね」

 紫月は「本物」のスーツケース二台を中尾に渡す。こちらにはコーヨー電子前橋工場並びにソフィア監査法人の住所が書かれた伝票が貼られている。紫月は何食わぬ顔で二つのダミーのスーツケースを曳いて玄関へと歩いた。突然、強い力で紫月は引きずられた。何者かが横から上腕の袖を掴み、続いて胸倉を掴んで廊下の壁に押し付けた。完全に不意を突かれた紫月は、抵抗する術もなかった。その相手は、憎しみの形相で紫月を睨みつけている。紫月も見覚えがある。コーヨー電子の交渉人として最初に現れた、田中だった。

 日本JXは完成品としての携帯電話の国内シェアは僅かだったが、携帯電話の部品も生産しており、コーヨー電子を含む各完成品メーカーに供給していた。田中はこの日たまたま、部品の価格交渉のために日本JX本社を訪れていたのだった。

 紫月は知る由もなかったが、田中は高校時代は柔道部に所属し全国総体の出場経験もある。凶器を持った複数の暴漢相手にはなす術が無かったが、一対一なら大抵の相手には負けない自信がある。もちろん、社長のフランセンが紫月を正式に雇い日本JXへの工作を進めていることも、知っていた。そんなことは百も承知だ。彼には、あのときの屈辱の方が遥かに勝っていたのだから。

 最初に顔を見たときは、まさかと思った。しかしコーヨー電子という単語を小耳に挟んだとき、もしやと感じた。確かに髪も髭も切っているし、日焼けも褪せてはいるが、人の顔は容易に忘れるものではない。どんなに変装しても、隠しきれない証拠がある限り…

 気づいた社員たちが四、五人、田中を囲むようにどよめいている。田中は、彼らを向いて訴えた。

「皆さん、こいつはーーー」

 叫ぶなり、胸倉を押さえている方の反対の手で、紫月のYシャツの襟をはぐった。この時期の日本JXはクールビズ推奨のため、紫月はネクタイをしていない。

「…?」

 紫月の首元に目を凝らした田中は、呆気に取られた。確かに、右の鎖骨に星型の奇妙な痣があったはずだ。それだけは、しっかりと目に焼き付いている。田中の両手の力が緩むと、紫月は無言で会釈し、スーツケースを持って立ち去った。続いて、群衆たちも去って行った。

 香港で田中に見せた星型の痣は、完全なフェイクだった。人は、分かりやすい特徴ほど記憶に残りやすい。それを逆手に取って偽の特徴を作るのが、紫月の変装術だった。


 九段下のアジトに戻った紫月は事務机の前に座り、パソコンのディスプレイと向き合っていた。日本JXの監査調書の画像データだ。紫月の後ろには、維維も立ったまま画面に食い入っている。

「単体の方には、それらしき設備はないな」

「本当に撤退したの可能性もあるね」

 単体とは、株式会社日本JX、すなわち親会社本体のことを指す。親子会社間の取引であっても売上や費用となってしまうため、親会社本体の財務諸表だけではグループ全体の経済実体や業績が把握できない。そこで親会社を核にグループを構成する子会社・関係会社を合算しグループ間の取引を相殺した連結財務諸表が作成される。

 紫月は続いて、連結監査調書を開いた。日本JXの子会社は国内外合わせて百社を超えるが、中にはグループ全体に照らして微細がゆえに、連結を省略するものもある。連結の対象となる子会社からは、連結パッケージと呼ばれるひな形を統一した財務諸表の情報が親会社に送られ、これをベースに連結手続を行う。同じ子会社同士でも、会社によっては科目の名称や集計方法が異なることもあるし、在外子会社であれば現地通貨で計上された財務諸表を日本円に換算しなければならない。

 子会社の連結パッケージの中に、JX Bastiaans Future Investments、略してJBFIという会社があった。単体の財務諸表は南アフリカの現地通貨ランドで作成され、日本JXの出資割合は五十一%と書かれている。バスティアーンスというのは、現地の合弁パートナーだろう。南アフリカにあると思われる子会社は、他には無かった。

「新聞では一千億円を出資するとあったけど、資本金は三千億円以上あるよ」

「あれから数回に分けて増資したのか。それなりに本気だったみたいだな、当時は」

 もっとも、元の資本金はランド立てであるため、国内企業のようにきれいな数値にはならない。換算前の資本金は二百億ランドだった。

 紫月はすぐに大手都銀のホームページをブラウザに表示した。ここには、主要通貨の一日ごとの為替レートの推移がCSVファイルで置かれており、自由にダウンロードすることが出来る。そのスパンも二〇〇二年四月から現在までの膨大な範囲に及ぶ。

「資本金三四五二億円を二百億ランドで割ると…十七.三か」

 子会社の貸借対照表を換算するときは、資産・負債は決算時のレートを用いるが、両者の差額に相当する資本については、元本の部分は出資時のレート、利益の蓄積である利益剰余金は各年度ごとの利益の計上に用いたレート(事業年度の平均レートが一般的)の合計に基づく。したがって、資本金の円換算額と、外貨建の資本金の額に決算時のレートを乗じた額の間には、必ず差が生じる。これは為替市場の外的要因による差額なので、企業の業績とは直接関係ない。だが、そうは言ってもマイナスの差が生じていれば、その分だけ純資産が毀損していることを意味するので、無視して済むものでもなかった。

 この日の時点で、一ランドは七円前後である。一時はFXの有望株として持て囃され、ピーク時には十九円を超えることもあったが、もはや見る影もなかった。日本JXが出資したのは、まさにランドが上昇し続けていた時期だった。

 続いて損益計算書を見てみると、費用は諸々合わせて五百万ランドに対して、売上高は二百万ランドにも及ばなかった。減価償却費を差し引いても、まともなキャッシュを稼げていないのは明らかだった。

「維維、どう思う?」

「十年もかけて一千七百億円をドブに捨てちゃったね。B/Sにはあっても実はないの資産」

 紫月はニヤリとほくそ笑んで頷いた。

 とは言っても、この事実を掴んだだけでは、何も変わらなかった。紫月が日本JXの監査人であれば、JXバスティアーンスが保有する設備の減損損失を計上すべきだと主張し、日本JXがこれに応じなければ「連結財務諸表は不適正」である旨の意見を明示した監査報告書を表明するか、監査報告書そのものを出さずに監査を降りる形となるだろう。しかし、監査人のPKP有限責任監査法人がこの問題点に気づかないか、あるいは気づいた上で意図的に無限定適性意見を表明し、なおかつ全く表面化しなければ、日本JXは全く無傷のままである。

 いや、紫月にとって本当のターゲットは、日本JXそのものではなかった。紫月がフランセンの依頼を受けるのを決意した目的ーーー復讐である。

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