復讐の系譜(2 ホンコン・コネクション)

 幾重もの「身体検査」を経て二人の使者が紫月との面会に辿り着いたのは、香港の五つ星ホテルの最上階に位置するスイートルームだった。身長一八〇センチほどの細く引き締まった長身に贅肉はほとんど無く、身体をなぞるように包む黒の開襟シャツからは覗く右の鎖骨には、星のような奇妙な形をした痣が見えていた。ジャケットは羽織っていない。赤茶色く日に焼けた顔の顎と口元には短く髭が切り揃えられていた。赤毛の髪は腰まで伸び、首の後ろで束ねられていた。

「初めまして。紫月です」

 拍子抜けするほどに紫月は丁重に物腰柔らかく会釈した。口元には穏やかな笑みさえ浮かべている。だが、眼は決して笑うことは無く、冷たい光をにわかに放っていた。

「ウルフ商事社長の今井です」

「同じく営業課長の田中です」

 習慣で名刺を出そうとする二人を紫月は片手で制し、ソファへ座るのを促した。

「弊社は日本JXに電子部品を卸しているのですが、代金のサイトを六〇日から一二〇日に一方的に延ばすと通告してきたのです。このままでは、資金がショートしてしまいます」

「納期も品質も守っているのに、有る事無い事を言って理不尽な値下げを何度も要求してきました。消費税の価格転嫁にも全く応じてくれません。公正取引協議会に相談しましたが無駄でした」

「なるほど、それは許し難い話ですね」

「はい。もう何人もの社員が鬱になって会社をやめました。私どもももう限界です」

「そこで、日本JXを懲らしめて欲しい、ということで、よろしいですね?」

 それは事前の遣り取りで何度も確認したことでもあった。だが、契約書を交わすわけにはいかない以上、何度も真意を確かめざるを得ない。とにかく、日本JXに不正行為を起こさせて制裁を加えて欲しい、ということに相違のないことは疑いの余地は無かった。

「では、約束の品を…」

 二人がそれぞれ手にしたジュラルミンのキャリーバッグには、手付金として合わせて一億円相当の金塊が詰められていた。敢えて現金ではなく金地金で用意させるのが紫月の指示だった。紙幣であれば記番号が記載されているため、そこから足が着く恐れがある。それを避けるため、複雑な金融取引を介して資金の出処をカモフラージュするのが、所謂マネーロンダリングという。

 金塊であれば記番号に当たるものとして製造番号が刻印されており、正規の金融機関や貴金属取扱店では、これがないものは売買できない。もちろん、正規のルートであれば、である。香港のみならず韓国など複数のマーケットで分散して換金する術を、紫月は心得ていた。

「信用取引口座も新設しました。あとは約束通り、来月中には日本JX株式を四百万株を借り入れます」

「わかりました。手続が終わり次第、証明書をメールして下さい」

 それは発行済株式総数の一%に当たる。紫月の工作が成功して株価が下落すれば、空売りによって利益を得ることが出来るが、失敗して株価が逆に上昇すれば損失となる。空売りとは外部から株式を借りて売却し、一定期日後に買い戻して返却する取引である。損するからと言って、買い戻すのを止めることは出来ない。依頼者にリスクを取らせるのが、紫月の流儀である。

 紫月からすれば、同じように空売りで利益を得られればそれがそのまま成功報酬になるので、それ以上依頼者から直接金品を受け取る必要はない。これは、必要以上に依頼者と接触することで自らを危険に晒すのを避ける意義もあった。報酬を出し渋るがゆえに、あるいは口封じのために依頼者に警察にリークされたり、あるいは命を狙われたりするのは何ら珍しい話ではない。

 商談は三十分ほどであっさり終了した。紫月も必要以上のことは二人に尋ねなかった。ターゲットである日本JXのことは、彼らから根掘り葉掘り質問したところで、役に立つ情報は大して得られないだろう。紫月にとって有意義なのは、ターゲットの内部の、さらに会根幹に関わる情報である。外部者に過ぎない彼らが関知しているとは紫月には思えなかったし、本当に大事な情報を握っているなら彼らの方から話すだろう。

「意外にあっさりと終わりましたね。本当にあの男なんでしょうか?」

「いっぺんに疲れがどっと来たよ。こんな体験は最初で最後だろうな」

 すっかり緊張から解放された二人は、周囲も憚らず大声でホテルの廊下を歩く。

「極秘の社長命令と聞いたときは、心臓が止まる思いでしたよ。それで香港まで行けるのだから、むしろラッキーですね」

「おすすめの店もちゃんと聞いてきたぞ。どうせ帰りの飛行機は明後日だし、今夜はパーッと行こうや」

「待ってました!」

 やがて正面エントランスからホテルを出た二人は、一台のタクシーに乗った。わざわざ紫月が二人のために手配したものだ。

「田中君、香港は初めてかい?」

「はい、中国自体が全くの初めてです」

「こっちのカラオケクラブはびっくりするぞ。二十人ぐらいの娘が出てくるんだよ、まるでファッションショーみたいに。そこから一人を選ぶのさ」

「噂では聞いたことあるんですが、本当にあるんですね」

 タクシーの中でも、運転手のことなどお構いなしに盛り上がり続ける。

「そんでもって、みんなすげぇ別嬪だぜ。一応日本人向けの店だから日本語もペラペラなんだけど、あの独特の訛りで話すのが可愛いったら・・・」

 話に夢中になっているうちに、タクシーが彼らの宿とは逆方向に向かっていることにはう全く気づかなかった。幹線道路を外れ、人気がみるみる失せていく。道の左右は崩れかけた平屋が居並び、その間に廃墟のような雑居ビルが点在する。まばらに行き交う住民は虚ろな目で怪訝な目線を窓ガラス越しに遣り、裸体に引っかけたシャツの間から浮き出た肋骨を覗かせていた。道端に散乱するゴミを、痩せ細った野良犬が漁っていた。

「お、おい、どこ走ってるんだ!」

「と、止まれ、ス、ストップ! ストップ!」

 小姐(シャオジェ)の妄想から現実に引き戻された二人は半狂乱に後部座席から運転手のシートを叩く。運転手はぶすっとした表情で二人を睨み返すだけで、一向に止まろうとしなかった。彼らは最低限の広東語も全く話せず、英語も運転手にはてんで通用しなかった。

 耳をつんざくブレーキ音ととともに、タクシーがいきなり急停車した。今井はフロントシートに胸から全身を叩きつけられ、田中は勢い余って頭を天井にぶつけてしまった。彼らの命令が運転手に通じたのではない。フロンガラス越しに目を遣ると、いつのまにか真正面にはおんぼろのワゴン車が停まっており、頭にストッキングを被った男が三人ほどこちらへ歩み寄ってくる。手には鉈やら金属バットやらを持っていた。

 男たちが後部ドアを開けると、力づくで二人を引きずり出した。広東語で何やら早口で怒鳴り立てているが、もちろん意味など全くわかるはずがない。しかしわからないが故に、恐怖は何倍にも増幅する。二人を押し込めたワゴン車は、そのまま再開発地区を走り去った。

 今井と田中の二人にとっての香港出張は羽を伸ばすどころか、一生思い出したくもない悪夢に終わった。その後二人は市中をさんざん連れ回された挙げ句、身ぐるみ剥がされて明け方にようやく解放された。日本総領事館に保護されたとき、彼らは肌着姿で泣きべそをかく有り様だった。

 翌朝のことである。秘書室に一本の電話が鳴った。発信元は常務の今井だった。応対した秘書室長は声の主を聞くなり、血相を変えてフランセンに取り次いだ。

「一体何のつもりだ! よくもふざけた真似を!」

 既に事件の一部始終は報告を受けていたフランセンだったが、当初は騙されたか全くの偽者だったかと考えていた。

「こちらと真剣にビジネスを望んでいるのなら、下手な猿芝居などやめて頂きたい、ミスター・フランセン」

 ちなみに、オランダ語における男性の敬称は英語と同じである。

「貴君が本物かどうか確信が持てなかった上に、我が社の社名が下手に漏れると日本どころか世界中がひっくり返ることになる。やむを得ないことは理解してくれると思うがね」

「貴社が世界的企業だろうが零細企業だろうが、私の基本方針は変わらない。信頼関係の築けない相手とは契約は出来ない。遺憾ながら、お引き取り願おう」

「待て!」

 電話は途切れた。かと一瞬フランセンは思った。受話器からは信号音も鳴らない代わりに、沈黙が幾秒と続いた。

「こちらの非礼は詫びよう。正直に答えて欲しい。いくら欲しい?」

「言ったはずだ。金額以前に信頼関係の問題だ」

「ではもう三億円用意しよう。私自ら出向く」

「だめだ」

 紫月の返答は至ってつれないが、フランセンは次第に確信を強めていた。

「ミスター・シヅキ、お断りを入れるためだけに、わざわざ電話をよこしてきたのかね?」

 紫月は再び沈黙した。やはりだ、とフランセンはほくそ笑んだ。紫月がどんな人物であれ取引の意思が無いのなら、律儀に呼び出してまで電話するはずがない。まして、長く話し過ぎれば逆探知の危険だってあるやも知れない。

「前金はもう十分だ。当方の指定する口座を通してJX株を揃えて欲しい。大量保有報告書の発表をもって、取引成立とみなす。私が求めているのはキャッシュより、貴社の背負うリスクだ」

「無理だ! 相手方にバレれば全てが台無しだ。それに、いくら我が社でもそんな莫大な資金を株には回せない」

 上場株式の保有割合が五%を超えた者、あるいは既に超えている者で一%以上の増減があったときは、報告が義務付けられている。このときに提出する報告書を、大量保有報告書と言う。しかし五%と言っても、日本JXの時価総額は一兆円以上もある。コーヨー電子はJX株を一切保有していないので、五百億円は必要な計算になる。信用取引を用いても三倍が限界だから、いくらコーヨー電子のような大企業でも非現実的過ぎる。そんな事をすれば、日本JXを買収する前に株主総会で吊し上げられるどころか、世界中で笑い者になるだろう。

「ならば、これでどうだ。八十億円ベットする。会社の資金ではなくて、私の退職金を元手にレバレッジを掛ければ、どうにかなる。会社ではなく、私自らリスクを負うのだ」

「ありがとうございます(フェール・ダンク)」

 電話はその直後に切れた。


 紫月は今井の携帯電話を机に置くと、ソファに深く身を沈めて溜息をついた。先刻のホテルではなく、市内のとあるマンションの一室である。前の住民が自殺したなどいわくつきの物件をいくつか安く買って、自身の根城としていた。

 前日とは変わって、Tシャツに短パンというラフなスタイルだった。腰まであった長髪は三センチ程の短さに切り揃えられ、髭も全て剃っていた。コーヒーのように焼けた肌の色も、わざわざ日焼けサロンに通ってまで焼いたものだ。一週間も待たずに元の色に戻る。

「シヅさん、あなたらしくない。珍しいよ」

 キッチンから茶のポットと茶碗を載せたトレイを持って入って来たのは、徐維維(ツイ・ワイワイ)。パスワードの解読から外部サーバーへの不正アクセスなど、IT関係のスキルには全幅の信頼をおく紫月の仕事仲間の一人である。日本のアニメの大ファンで、日本語のみならず違法サイトへの無断アクセスを繰り返していくうちにスキルをも殆ど独学で学んだ変わり種だ。もっとも、アニメーター達の薄給ぶりにショックを受けて以来、今では必ずと言っていいほどDVDや正規のオンデマンド配信でしか見ることはないが。

 紫月は維維の淹れたジャスミン茶を一口で飲み干した。確かに今回のように、素性を偽ったり手の内をあからさまに出し惜しんだりする相手方は珍しくない。相手が何者なのか、具体的に何が目的なのか注意を払わないと、知らないうちに主導権を握られかねない。場合によっては命さえ危ない。と言うより、自身に納得のいかない仕事をするのは彼のポリシーに反するのだ。彼女の知る限り、紫月は絶えず細心の注意を払っていた。少しでも違反する者に対しては、毅然と依頼を拒否した。決して金だけで動く人物ではないからこそ、維維は彼を尊敬し、深く信頼していたのだった。

「正直、迷ったんだ。こいつは、今までにない大掛かりな仕事になるぞ」

 ビスケットをぼりぼりとかじりながら、テーブルのノートパソコンを開いた。これも携帯電話と同様に例の二人組からせしめたものだが、本体はもとより保存されていたファイルのパスワードを解除するのは、維維には朝飯前だった。ちなみに、パソコンと携帯電話以外の殆どは、襲撃犯達の取り分なのは言うまでもない。彼らにとって一番値打ちがあるのは、現金とクレジットカードとパスポートで、紫月には興味のない代物なのだから。

 パスワードで保護されていたPDFファイルに記載されていたのは、コンサル会社が作成したインド進出にあたってのパートナー候補に関する報告書だった。なぜ、コーヨー電子が日本JXを標的に狙ったのか、紫月にはこれだけで十分だった。少なくともフランセンは、日本JXを喉から手が出るほど欲しがっている。本気なのは今しがた確かめた。

「すごい。私、ワクワクする。今回も楽しそう」

 いつもこんな調子だ。常にマイペースで、まるで他人事のような態度。だが、一度やると決めたら絶対に諦めない。才能だけでなく、紫月が相棒として維維を高く買っているのには、ちゃんと理由があった。

「でも正直言って、決め手となったのは、もっと別のところにあったんだよ」

「えっ?」

 紫月は顔を曇らせて、別のPDFファイルを開いた。EDINET(有価証券報告書などを開示する専門サイト)からダウンロードした、過去三期分の日本JXの有価証券報告書のデータだ。データの一番最後のページを出すと、紫月は拳をぐっと握り語気を強めた。

「復讐…さ」

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