第2章 ペアレンティング・スタート ⑩初めての判定

 あっという間に空を返却する日になった。

 その日は流も休みで、家にいた。美羽は朝から返却するものを玄関先にそろえていた。

 空は、今日は機嫌がいい。美羽が朝ご飯を作っている間は、流がガラガラを鳴らして、空をあやしていた。

 おむつを替え、ミルクをあげながら、「今日でお別れか」と、ふいに寂しい気分になった。何度電車で寝過ごしたのか覚えていないぐらい大変だったけれど、別れたくない。このままずっと一緒にいたいと、美羽は何度も空に頬ずりをした。

 10時ピッタリに業者がやって来た。空を届けに来た日と同じ二人組だった。

「こんにちは、レンタルベイビーをお迎えにまいりました」

 女性が笑顔で挨拶をした。

「えーと、ベビーベッド2台と、哺乳瓶と、おむつ5枚と……」

 二人がレンタルしたものをチェックしている間、美羽は名残惜しくて腕の中の空に何度も「元気でね」「忘れないで」と囁いた。流が「ちょっと抱かせて」と言ったので、空を渡す。

「お前、重くなったよなあ」

 流が言うと、「いえ、レンタルベイビーの重さは変わりませんよ」と女性がにこやかに否定した。

「でも、別れ際には皆さん、そうおっしゃるんです。不思議ですね」

 女性は美羽にクリアファイルを渡した。

「これが昨日までのレンタルベイビーの判定結果になります」

「えっ、もう出たんですか? 早いですね」

 ファイルから書類を出すと、1ページ目に「1回目総合判定結果 C」と印字されてある。

「えっ、Cって……」

 美羽は絶句した。あれだけ頑張ってクタクタになりながら育てたのに、Cとは。

「総合がCなんですけれど、個別の判定結果は、Aもたくさんあります。奥様の関わり方はほとんど問題なくてAなんですけれど、ご主人の関わり方が少なくて、C判定になったようですね」

「えっ、でも、オレも後半は結構世話をしましたよ!?」

「そうですね。後半もおむつ替えはしてないようですし、泣いたらすぐに奥さんに渡したりして、お世話をする努力が見られないと、判定結果では出ています」

「そんなあ」

 流は情けない声を出した。

「C判定だったらどうなるんですっけ?」

 美羽の問いに、「不合格はDなので、ギリギリセーフというところですね。2回目のレンタルベイビーでAかBを取るように頑張っていただくしかないかと思います。ただ、3回ずっとC判定だったご家庭もあります。その時は講習会をご夫婦で受けていただいて、改善が見られたら出産認定証をもらえるということになっています」

 美羽は書類に目を通しながら唇を噛んだ。美羽のおむつの替え方やミルクのあげ方、一日の抱っこの回数や長時間ぐずった時のあやし方はAだ。夜泣きした時に何回か起きられなかったので、それはBになっている。

 ――完全に流が足を引っ張ったってことじゃない。

 流は気まずいのか、目をそらしている。

 女性はその場の雰囲気を変えようと、「最初からAを取るご家庭の方が少ないですよ。大体20%ぐらいで、Bが40%。Cは30%ぐらいですね。2回目から頑張って、AやBを取る家庭はぐんと増えるんです。これからですよ」と慰めた。

「はあ……」

 男性は一言もしゃべらずベビーベッドを解体して、美羽たちの脇をすり抜けて外に運び出している。

「今回の判定結果のデータは、クラウドでも見られるようになっています。こちらでレンタルベイビーを回収した後に気付いた点があれば、そこで判定結果が変わることもあります。レンタルベイビーが不当に汚れていた場合とか傷ついていた場合ですね。それは稀なケースですけれど。2回目を申し込むかどうかは、お二人で話し合って決めて、サイトから申し込んでください」

「はあ……」

 女性はにこやかに手を差し出した。

「それでは、空君とは、これでお別れです」

 美羽は我に返った。

 ――空とはこれでお別れなんだ。もう二度と会うことはないんだ

 美羽は流から空を受けとり、最後にギュッと抱きしめた。このやわらかい感触。腕に伝わってくる温もり。

「名残惜しいとは思うのですが、早く持って帰ってメンテナンスをしなくてはならないので……」

「ハイ」

 空を渡せずにいると、流が「ホラ、困ってるから」と肩を叩いた。それでも空を離せない。流がやや強引に空を取り上げて、女性に渡した。

 美羽の目から、思わず涙がこぼれ落ちる。

「情が移ってしまって、なかなか離れられない方も大勢いらっしゃるんですよ。そういう方は、3回目まで行って、必ず合格できます。リアル・ペアレントになれます」

 女性は空の手を取って、「ホラ、ママとパパにバイバイね」と軽く手を振った。

「バイバイ、空」

 美羽は泣きながら手を振った。

「それでは、ご利用ありがとうございました。これで失礼いたします」

 女性がドアを閉めようとした時、「私、エレベーターまで見送る」と、美羽はサンダルを履いて後をついていった。

 エレベーターを待っている間、美羽はガマンできずに、女性の腕の中の空に「バイバイね」と言いながら、頬や手に触れた。やわらかい。温かい。この感触を忘れないようにしよう。

「ママにいっぱい愛されてよかったね、空君」

 女性は優しく空に話しかける。その言葉を聞いたら、余計に涙が止まらなくなってしまった。

 エレベーターが来て、男性が荷物を積んだ台車と一緒に乗りこむ。美羽も乗ろうとすると、「申し訳ありませんが、キリがないので、ここまでということで」と男性に止められた。

「えっ、そんな」

「そういう決まりなんです。すみません」

 男性は早口で言い、頭を下げた。女性は気の毒そうな表情をしている。

 エレベーターのドアがゆっくりと閉まる。

「バイバ~イ」

 女性が空の手を振ってくれる。美羽は「空あ、元気でねえ」と声をかけた。

 エレベーターは階下に降りていった。しばらく動けないでいると、流が「戻ろう」と腕を引っ張って促した。美羽は嗚咽を漏らしながらついていく。隣の部屋の母親がドアから顔を出し、何事かという好奇の目で美羽を見ている。美羽が睨みつけると、慌ててドアを閉めた。

 部屋に戻り、リビングに入ると、そこには静かな空間が広がっていた。この一カ月間、泣き声が響き渡っていた部屋に、やけに時計の音が大きく響く。

 美羽は力なくソファに座り込んだ。涙が太ももに零れ落ちる。

 ――空が大泣きしている最中は、あんなにテンパって、何度も借りなきゃよかったって後悔したのに。いなくなると、こんなに寂しいなんて。

「寂しくなるね」

 流が隣に座って、頭をなででくれる。美羽はそっと頭をよけた。流のせいでC判定になったので、今は慰めてもらう気にはなれない。

 流は美羽の気持ちを察したのか、黙ってリビングから出て行った。

 美羽はスマフォを取り出し、空の動画を開いた。機嫌がいい時に何回か撮影したのだ。

「空あ……」

 動画を見たら、ますます泣けてきた。膝に顔を埋めて、美羽はしばらく涙に濡れた。




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