第2章 ペアレンティング・スタート ⑨離れたり、歩み寄ったり。

 その日、美羽が帰宅すると流は先に帰って来ていた。リビングのソファに寝転がりながらゲームをしている。

「空は?」

 開口一番に尋ねると、「起こしてないよ。声をかけなければ、起きないんでしょ」とコントローラーをいじりながら流は答えた。

 水野の言葉で幸せな気分に浸っていたのに、一気に怒りのボルテージが上がった。美羽はコントローラーを取り上げる。

「ちょっ、何すんだよ!?」

「ねえ、流、子育てする気、まるっきりないの?」

「だから、忙しいからあんまり手伝えないって言ったっしょ?」

「そうじゃなくて、これが本当の子育てだったら? 仕事から帰って来ても、自分の子供を全然構わないでゲームしてる気?」

「そんなの、その時になってみなくちゃ分かんないし」

「レンタルベイビーって、子育てするための予行演習だよね。本番になってから困らないようにって練習するためにあるのに、何もしなかったら本番でも何もできないよ。相手は生身の赤ちゃんなんだよ。どうするつもり?」

 流は面倒くさそうに体を起こした。耳たぶをいじり出す。

「だからさ、オレは最初からそんなに賛成してないじゃん。美羽がレンタルベイビーだけでもやってみようって言うから、やっただけでさ」

「そうだけど、こんなにも何もしないとは思わなかったから」

「オレに何かしてほしいなら、オレの都合をもっと聞くべきじゃない? オレの会社、今、中国の会社に買収されそうで大変なんだよ。もし買収されたら、オレがいる部署もどうなるか分かんないし」

「えっ、そうなの?」

 美羽の怒りはみるみる萎んでいった。パソコンの画面では流が操っていたキャラクターは車ごと壁に激突して、ゲームオーバーになった。

「心配かけたくなくて言わなかったってのもあるんだけどさ。だから、転職も視野に入れて、今は色々動いてんの。外で遊んでるわけじゃないんだから、家で少しぐらいゆっくりしてもいいっしょ?」

「……それなら、そう話してくれればよかったのに」

「話したら、レンタルベイビーを今はやめとこうってなった? 美羽は、いつも自分の都合を優先させるから、それでもやりたいって押し通したんじゃない?」

 流の棘のある言葉に、美羽はとっさに言葉が出てこなかった。

「そんな……それはあんまりだよ」

「そうか? だって、オレの都合も何も聞かずに、大和君に連絡させたじゃん。いきなりスカイプが来て、どうしようかって思ったよ。大和君とは2、3回しか話したことないしさ。向こうも、何を話せばいいんだかって感じで、困ってたよ。すんげえ気まずかった」

「それは、流のためになると思って……」

「どこがオレのためなの!? とにかく、オレは今仕事のことでいっぱいいっぱいで、何も協力できないから。ご飯作るぐらいならやるけどさ」

 ――ご飯だって、ちゃんと作ってくれないじゃない。

 美羽が反論する前に、流に電話がかかってきたので、「もしもし?」と言いながらベランダに出てしまった。

 いつまでも空を起動させないでおくわけにはいかないので、寝室で「ただいま。今帰ったよ」と声をかけた。空はゆっくりと目を開き、「あー」「だー」と手足をバタバタさせる。

 空の小さな手に人差し指を当てると、キュッと握りしめてくれる。

 ――あと2週間。最後まで、育てよう。私一人でも育てよう。

 美羽は静かに決意した。


*********************************


 翌朝、目覚まし時計の音で目が覚めた。

 アラームを止めて、時計を見ると9時。今日は中番なので、ゆっくりできる。

 しばらく布団の中でまどろんで、ふと、「あれ、目覚まし時計に起こされたのって、久しぶりな気がする」と気づいた。ここのところ、ずっと空の泣き声に起こされていたのだ。

 飛び起きてベビーベッドを見ると、空の姿が見えない。

「えっ、嘘っ」

 流がどこかに連れて行ったのだろう。

 ――まさか、泣きっぱなしなのに苛立って、黙らせようとしてるとか……まさかね。

 寝室のドアを開けると、リビングから流が「ホラ、あれ、なんだろうね~。動いてるね」と話しかけている声が聞こえてきた。

 リビングに入ると、流が空を抱っこしてソファに座り、パソコンで幼児向けの番組を見せていた。画面には、大きな着ぐるみが映っている。

「あれは、ペンギンって言うんだよ。ペンギン。かわいいね~」

 空はどこまで見えているのか分からないが、目を大きく見開いている。

「ああ、起きたんだ」

 流が美羽に気付いた。

「空、どうしたの?」

 美羽が尋ねると、「泣きっぱなしだったけど、美羽、全然起きなかったでしょ。だから、オレがこっちに連れてきて、あやしてたんだよ」と言う。

 明け方までに2・3度起きたのは覚えているが、それ以降に起きた覚えはない。疲れが出て、泣き声に気付かなかったのだろう。

「えっ、流、ミルクをあげたりできたの?」

「まあね。マニュアル見ながらなんとか」

 サイドテーブルの上には、美羽が何度も読み返したマニュアルが置いてあった。

「そうなんだ、全然気づかなかった」

「だろうね。疲れが出たんじゃない?」

 美羽は隣に腰を掛けた。空は「ぶー」「あぶー」といいながら手をばたつかせて、流の顔を見上げている。

「ホラ、おひげ痛いぞ~」

 流は顔を近づけて、ひげを触らせた。空は驚いたのか、手を引っ込める。

「流、あやすのうまいじゃん」

 美羽が素直に言うと、流は「そうだね。自分でも、こんなにできると思わなかった」と答えた。

「確かに、こんなに毎日夜泣きしてちゃ、寝不足にもなるよね。美羽がどれだけ大変か、分かった気がする」

 ――でしょ、でしょ?

と言いたいのを美羽はグッとこらえた。

「じゃ、朝ご飯作るから、後はよろしく」

 空を手渡され、美羽はちょっと感動した。

 昨日はあんなにもめたのが嘘のように、流は協力的になった。言葉であれこれ言うより、実際に行動するしかない状態に追い込めばいいのだと、美羽は悟った。

 ――私がやっちゃうから、流は何もしなかったんだな。これから、あまりやりすぎないようにしよう。

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