第2章 ペアレンティング・スタート ⑧両立はつらいよ

「秋津さん、秋津さん!」


 誰かに肩を揺さぶられて、美羽はハッと目を覚ました。見ると、水野が目を吊り上げている。


「村松さんのマニキュア、終わったみたいよ。チェックしなくていいの?」


 どうやら、ヘアマニキュアが髪に浸透するまで待っている間に、バックヤードで居眠りをしていたらしい。タイマーが鳴っていることに気付かなかった。


「すみません!」


 美羽はバックヤードを飛び出して、個室に入った。空が我が家に来て、二週間になる。状況はほとんど変わらず、夜泣きのたびに美羽が起きて世話をしているので、慢性的な寝不足になっていた。流はリビングで寝ていて、夜中は絶対に起きてこない。今朝は朝ご飯も作っていなかったので、また口論になったのだ。


 電車の中では寝過ごさないようにと立つようにしているが、立ちながら眠ってしまうこともしばしばあった。客の髪をカットをしている最中に、猛烈な眠気に襲われることもある。香奈に強烈な眠気覚ましのガムや栄養ドリンクをもらっても、効果は続かない。いっそレンタルベイビーを体験している間は、店の近くのアパートでも借りようかと、美羽は真剣に考えていた。


 その日の朝は、美羽は遅刻直前に店に飛び込んだ。


 空に早めに声をかけてスリープ状態にしてから出かける準備をしていると、急に目覚めて泣き出したのだ。


「えっ、どういうこと? スリープ状態になってなかったの?」


 結局、あやして再び寝かせてスリープ状態になったのを確認してから家を出ると、ギリギリの時間になってしまった。電車の中で、掲示板に「今日、スリープ状態になったから、安心して出かける準備をしてたら、再び起動して泣きだしちゃった。こんなことってあるの?」と投稿した。


 すると、「早めにスリープさせて、のんびり出かける準備する人が増えたから、スリープの最中に物音が聞こえてきたら、再び起動することがあるんだって。だから、あんまり早くに声をかけるといけないみたいよ」と常連のユーザーがすぐに返してくれた。


「何、その設定。いらないんだけど」と、美羽はつぶやいた。


 ――出かける直前まで全力で面倒見ろってこと? なんで、そこまで苦労しないといけない設定にするかなあ。ホント、プログラムを作った人はアホだわ。


 水野は何か言いたそうな顔をしていたが、美羽が忙しくしていると、小言を言うのを諦めたようだった。だが、仕事が終わってから呼び止められた。


「ねえ、秋津さん、最近ちょっとミスが多くなってない? どうしたの? 疲れてるみたいだし」


「はい……すみません」


 美羽はうなだれるしかなかった。


「最近はハサミを何回も落として、研ぎにしょっちゅう出してるじゃない。もう新人じゃないんだから。そんなミスをすることはなかったじゃないの」


「はい……」


「プライベートで何かあったの? ご家族が病気とか?」


「いえ、そんなんじゃないんです」


 香奈は片づけをしながら心配そうにこちらを見ている。香奈も精一杯カバーしてくれているが、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。


 美羽は意を決して、水野に伝えることにした。


「あの、私、レンタルベイビーを借りてるんです」


 その言葉に、水野は目を見開いた。


「そうなの!? どうして言ってくれなかったの? 大事なことじゃない」


「はい、なんか、言いづらくて……」


「いつから?」


「2週間前からです」


「道理でね」


 水野はこの2週間の美羽の行動を振り返って、合点がいったようだ。


「私もレンタルベイビーをしたことあるから、どんだけ大変か分かるよ。言ってくれればよかったのに」


 ――あれ、想像してたのと反応が違う。


 美羽は拍子抜けする気分だった。


 水野は40代だと聞いているが、髪を明るい茶色に染め、ジムに通ってスタイルを維持しているので、30代後半ぐらいに見える。美容師としての腕もよく、20年ずっと通っている昔からの顧客も多い。性格はサバサバしているが、言いたいことはハッキリ言うタイプなので、敬遠しているスタッフもいる。


「じゃあ、中番のシフトを増やしたほうがいい? 早番は入れないほうがいいよね。遅番だと、帰りが遅いからツラいかな」


 水野はタブレットでスタッフのシフト表をチェックした。


「2週間だと、一番キツイ時期だよね。毎晩夜泣きして眠れないから、疲れがたまっていくんだよねえ。電車の中でも立ったまま眠っちゃったりして」


「そう、そうなんです」


 美羽は何度も何度も頷いた。


「うちは、レンタルベイビーがあまりにも大変すぎて、仕事との両立はムリって分かったから、出産は諦めたの。あれはあれで、いい経験だったと思う。実際に産んでからムリだって分かっても、どうしようもないもんね」


「そうですか……」


 香奈も片づけをしながら水野の話に耳をそばだてて、「あれ?」という表情をしている。


「あの、私が新人の時に面倒見てくれていた堀先輩は、レンタルベイビーをしたらヒマなお店に飛ばされちゃったって聞いたんですけど。産休の最中は戦力にならないから、左遷されたって……」


 思いきって聞いてみると、水野は驚いた表情をして、「え、何それ。そんな話になってるの?」と言った。


「あの子はね、不倫しちゃったの、本部の社員と。それで赤ちゃんができちゃって、レンタルベイビーをやってないし、奥さんにバレて修羅場になっちゃったし、二人とも左遷になったんだよね、確か。その後、奥さんとは離婚したのかな? 二人とも、今はどこで何をしてるのか、全然知らないけど」


「そうなんですか」


 美羽は全身から力が抜けていくような気分になった。


 ――なんだあ。店長にばれないようにしてたの、意味なかったじゃん。


「なんだ、それで私に言えなかったの? レンタルベイビーを借りたら左遷されるって」


 水野はケラケラと笑った。


「うちのお店は、産休取っても復帰する人は多いんだから。長く働いてほしいって社長も思ってるから、あれこれ考えないでどんどん相談して。こういうのはね、お互い様だから。みんな経験することなんだから、一人で抱え込まないでね」


「ハイ」


 美羽はちょっぴり涙ぐんでしまった。この2週間で、一番温かい言葉をかけてもらった。


 ――思いきって話してよかった!

 美羽は心から水野に感謝した。


 その後、香奈は「いい加減なこと言って、ごめんね」としきりに謝った。

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