第4灯 扉の悪魔

 大司教は刀身に傷が入った剣を強く握りしめると、木の陰に身を隠した。扉の悪魔は姿勢を低く構えて、人間の肩を持つ愚かな悪魔の動きを待つ。

 辺りを闇と静寂が支配し、二人は互いに相手の様子を伺っていたが、美しい怪鳥の声を合図に、扉の悪魔は隙間から触手を伸ばし、大司教の潜む木をなぎ倒した。大司教は素早く別の木の上に移る。彼は何かを探すようにして、忙しなく目を動かしていた。


「どうした? あの小娘が気がかりか?」


 扉の悪魔はそう言うと、こんな状況でも目を覚まさないマーガレットの方を向いた。少女は大司教の投げたランタンの光に照らされ、森の中にぼうっと浮かび上がっている。愉快なことだが、非常に目立つ。


「あのランタンのせいで、娘を見失わなくて済む。お前はあの子を囮にするつもりなのか?」


 扉の悪魔の言うことは正しくなかった。実際、光を目印に霞のような悪魔たちが集い、マーガレットに襲いかかろうと近寄るのだが、ランタンの光に触れた途端、ジュウという音を立てて消えてしまう。彼女に近づいた悪魔は、彼女に触れることすら叶わず消滅してしまうのだ。


「忌々しい……。」


 扉の悪魔は冷たく言い放つと、自らマーガレットを殺しに向かった。しかし、彼は他の悪魔のように消えはしないものの、光の中に入ることが出来なかった。


「俺だけだ。」


 大司教はそう言うと、木から飛び降りて背後から近づく。


「俺だけなのだ。代弁者がお許しくださった。……テメェは光に入れない。その子に手出しはさせない。」

 

 大司教は扉の悪魔に斬りかかった。悪魔は再び扉を少し開け、その隙間から触手を伸ばす。触手は大司教の左足を掴み、彼は宙吊りの状態になった。扉の悪魔は、覗き窓から男を睨みつける。


「邪魔立てするな。まずは、お前を殺そうか。」

「そう言うな。」

 

 大司教はそう言うと、自分を見ている扉の下に剣を刺し入れる。そして、こう呟いた。


「こっち出てきて遊ぼうぜ。」


 大司教は剣をめいっぱい下に押し込む。すると、扉は耳障りな音を立てて、回転しながら空に放たれた。それは、無情な戦いを見守る木の葉を掠めると、重い音と共に地面に打ちつけられ、ぱっくりと縦に割れた。

 飛び散った木の破片が振りかからない内に、扉の悪魔は右側に取りつけていた扉を正面に持ってきていて、その正体が晒されるのを防いだ。大司教は挑発するように扉の残骸を踏みつけ、剣で空を切ってみせる。新しい正面扉の窓から目が覗いた。扉から来る声に感情はなくとも、恨みを込めていることは明らかだった。


「ドアの中で遊べばいい。」


 扉の悪魔はそう言って触手を伸ばすが、大司教は剣でそれを切り落とす。この衝撃が悪魔の注意を逸らし、大司教が踏んでいたはずの扉が消え失せていることに気づかせなかった。大司教は後ろ向きに飛び跳ね、間合いを取って、こう言った。


「ドアは叩いていいものだよな? お前も一緒にぶっ叩くがな。」

 

 大司教は近づいて再度扉の破壊を試みるが、悪魔はこれをかわし、後ろを向いて森の奥へと逃げ込むことにした。すると、大司教は片膝を着いて、悪魔の吸い込まれて行く暗闇を見据えた。


 その時──。


 何かが闇の中から勢いよく飛び出し、逃げ惑うか弱き悪魔の行く手を阻んだ。その隙をついて、大司教は悪魔の背中の扉を蹴り破った。

 だが、舞い落ちる扉の破片の合間を縫って、大司教の腕を見事に触手が捕らえる。悪魔は左の扉を背後に移動させると、覗き窓から辺りを見渡した。足元にある扉だったものは、扉一つ分ではなかった。


「最初に壊された俺のドアが、俺に飛びかかってきた。お前がやったのか?」


 焦りを見せる口上に対して、悪魔の語り口は感情を含ませてはいない。大司教は、掴まれた腕で惨めに抵抗しつつ、冷静さをつくろって答えた。


「俺がやっていようが、いなかろうが、そんなもんは関係ないだろ。テメェ、自分を見てみろよ。お前の扉は後二つだぜ。まぁ、全てを壊す必要はないがな。」


 大司教は目の前の扉を蹴り飛ばした。悪魔は思わず触手を離してしまい、蹴られた勢いで前に倒れていった。残っていた扉は倒れた際に全て折れてしまい、腹を天に向けた悪魔は、木片の山の上で脚をだらりと垂らしたまま動かなくなった。


 大司教は、それでも剣を構える。


 しばらくすると、扉の悪魔は唸り声を上げ始め、長い触手を伸ばしてぶら下がっている脚に絡めるとそれを左右に引っ張った。脚に引かれて、蜘蛛の腹のような体は、大司教と向き合っている側が裂けて開き、その断面から無数の赤い目と、巨大なハサミのような牙が現れた。見ているだけで心が洗われるような美しさを備えており、夜のおぞましさを一層引き立たせている。

 この美しい悪魔は甲高い雄叫びを轟かせた。体の下から覗く触手を脚にして大司教に攻め寄り、噛みつこうと牙を鳴らす。大司教は視線をチラチラと動かしながら、後ろに跳んで悪魔の攻撃を避けて行く。だが、悪魔の動きは一段と素早くなっていた。大司教はとうとう避けきれなくなり、人間の子供程の大きさもある牙の餌食となった。


「何──!?」

 

 大司教の体は分断され、愚かな彼は、絶望の表情を浮かべながら息絶えていった。


 ところが。


 そうは行かなかった。何かがぶつかる音がすると、悪魔の体は大きく後ろに吹き飛ばされた。大司教が蹴り飛ばしたのである。なんと言うことか、大司教の体は全く切れていなかった。傷はおろか、服が破れた形跡もない。彼は無傷だった。痛みも感じていない素振りだ。忘れてはならなかった。


 彼は確かに、


 大司教は殺気立った目で切られたはずの体を見ると、地面の小石を蹴って飛ばし、混乱している悪魔の目の一つに直撃させた。悲痛な叫びが響き渡り、その目からは緑色の涙が零れた。大司教は身構えるようにしゃかむと、人差し指を口に当て、シーっと息を鳴らす。ほんの少しの間、辺りに静寂が生まれた。大司教は立ちながら話し出す。


「いずれ気づくだろうから教えてやるよ。今のテメェなら、あのランタンの光に触れられる。そしたら、あの子を殺せるぜ。だから俺はここでダウンできない。分かるよな?」


 悪魔は未だ悲鳴を上げているが、大司教は構わず話し続け、悪魔に向かって歩み寄る。


「夜が明けるまでそう長くない。テメェの命もだ。だからこそ──。」


 大司教は立ち止まって剣を構え直した。


「懺悔しろ! 今が夜である内に。」


 大司教が手を振りかざすと、どこからか木の破片が三つ飛び出し、星のように散りばめられた赤い目を次々と潰していった。悪魔は顔を振り乱してかわそうとするが、次に向かってきた木片は、意思を持っているかのように軌道を曲げて真っ直ぐ目に向かっていった。

 この猛攻によって目が全てなくなってしまうと、悪魔は高らかに引きつった声を上げ、顔の中央に巨大な目を一つ開いた。目は光り輝き、優しく脈打っているようにも見える。大司教はそれを見つけると、剣を握って走り向かった。そして、剣先が目に届きそうな所で悪魔が牙を振りかぶり、大司教の手から剣を叩き落とす。


「なっ……!」


 大司教は息を飲んだ。今なら、この悪魔の面汚しを叩きのめすことが出来る。今が絶好のチャンスだ!


 ──しかし。


 大司教が弾かれた手首を内側に曲げると、弾き飛ばされた剣が空中で回転し、悪魔の体を切りつける。悪魔がこれに注意を逸らされていると、大司教は彼に向かって突進した。

 使用者のいない剣は悪魔から離れると、宙で弧を描き、大司教の手に戻った。大司教の剣先は、悪魔の目に向かっている!


 世界が張り裂けそうな叫び声が、夜の世界に響いた。闇も、星も、木々も、影も──。全てが絶望に包まれた。

 扉の悪魔は、触手を振り乱して暴れていた。その目には、一振りの剣が刺さっていたが、やがてそれも独りでに持ち主の所へ帰って行く。

 大司教は悪魔の断末魔を笑うことなく、ただ醜い表情で黙って見つめていた。扉の悪魔は遂に地面に転がると、その動きを完全に止めた。その体は、灰となって夜の風に運ばれていき、その場には青白い光の玉が現れた。


 マーガレットのそばに転がしていたランタンが、大司教の手へと飛んで行く。それを光の玉にかざすと、ランタンの隙間から真っ赤な炎の腕が伸び、光をランタンの中へ引きずり込んでいった。悪魔のいた場所に何もなくなると、大司教の手から剣とランタンが消えた。彼の赤い目も、元に戻っていた。


 既に、夜の深い闇や悪魔の気配はなくなっていた。森は銀色の霧に覆われ、木の葉や花びらをひんやりと濡らす。大司教は眠っている少女の近くでしゃがみ込むと、手を合わせて祈り始めた。


 やがて、マーガレットが重いまぶたを擦りながら起き上がる。マーガレットは、朝の肌寒さを感じてマントにくるまると、祈りを捧げる大司教を見つけた。


「……あら、大司教様。私も朝は早い方だと思っておりましたけど、大司教様には敵いませんわね。よくお眠りになれましたか?」

 

 大司教はマーガレットの方を向くと、少し戸惑った様子でこう答えた。


「まぁな。」

 

 花びらに乗った朝露が、そっと零れ落ちた。

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