第5灯 罹災の村

 霧の晴れた森の小道は、それは気持ちの良いものだった。木々の隙間から射し込む光のベールが幹の間に張り巡らされ、土の匂いを運ぶ風が、そのベールを優しく撫でて行く。

 新緑の苔と草木は、一度照らされると辺り一面に若葉色の空気を踊らせ、虫や小鳥の優雅な舞いが、幻想的な自然の調和を生み出す。

 古代より「精霊の住処」と謳われるこの場所は、まさに混沌と秩序の象徴だった。


 そんな景色には目もくれず、大司教は切り開かれた小道を進んでいった。時折、険しい顔で振り返り、必死に着いてくるマーガレットを待つ。


「大司教様、もう少しゆっくり歩いていただけますか?」


 マーガレットは息を切らしながら言った。大司教は無情にも、険しい表情でこれをたしなめた。


「グズグズしている暇はないぞ。日が傾くまでに森を抜けなければ、もうお前の命も保証出来ん。」


 マーガレットは機嫌を損ねた。自分だけに聞こえる声で、そっと呟いてみる。


「何よ……。命なんて。」



 小道を進み続けると、その先は深い茂みに遮られていた。微かに水の流れる音が聞こえる。マーガレットは最初行き止まりかと思ったが、大司教は迷い一つ見せず、生い茂った草木を掻き分けて中へ潜り込んでいった。


「うっそ。あの中に入るって訳?」


 マーガレットは疑りながらも、後に続いて深い緑に入り込む。


 やがて、光を漏らす木の葉を払い除けると、そこには小さな村があった。周囲を森で囲まれ、川のせせらきが涼やかな音色を生み出している。緩やかな丘の先には小さな教会が立ち、その下にはささやかな家々が並んでいる。


 ──はずだった。


 風にそよぐ草原に、ぱっくり割れた木材や、乾いたチーズのようにボロボロに砕けた漆喰の壁が転がっていた。そこに家はほとんどなく、その残骸らしきものが村中に見受けられた。

 畑だったであろう場所は、瓦礫で埋もれてしまい、作物のみならず周りの木々も悲惨な目に遭っていた。

 村人たちは、総出で瓦礫の撤去に勤しんでいる。


 マーガレットは息を飲み、この惨状を呆然と見つめた。大司教は顔をしかめるのみだったが、きっと結んだ口の中で歯のぶつかる音が聞こえた。

 大司教は村の奥へと進んでいき、教会の周りをうろついている司祭に近づくと、怒鳴るように呼びかけた。


「レイカー!」


 司祭は声を聞くなり肩を震わせ、恐れおののいた様子で近づいてくる男を見つめた。


「だ……大司教様。いやぁ、実にお見苦しいものでございまして。大司教様のようなお方が来られる所ではございません。それに──。」


「何があった?」


「えぇ、まぁその……。」


 レイカー神父は周りに人がいないことを確認すると、大司教に向かって囁いた。


「悪魔でございます、大司教様。一昨日の夜。強力な奴です。守りの像をまるっきり無視して村に侵入し、剛腕をもって暴れ回っておりました。教会は無事でしたが、家はご覧の通り無残な有り様……。」


「被害の程度は?」


「幸い死人は出ませんで、重症を負った15人を教会内で治療しております。」


「しまった、対処を早めるべきだった。……ところで昨日、スウィーニーと婦人が馬車に乗ってきたはずだが。」


「それでしたら、また悪魔めが現れるといけませんので、早々にご出立いただきました。幸運にも、昨日は何もなかったのですが。ゴティークから手紙を預かっております。」


 大司教は手紙に目を通すと、鳥を借りると言って歩き出した。マーガレットも着いていく。


「あの、大司教様。シルキーは?」


「二人はこの先のゴティークで待機している。馬車で行けばすぐだが、この状況で持っていく訳にはいかんな。歩いていく。明日の早朝に出るから、今日は手紙を書け。」


「手紙……?」


「お前からのだと、彼女も喜ぶだろう。」


 大司教は、村外れの池のほとりにある一軒の小屋を訪ねた。ここも襲われた形跡はなく、古く薄汚れてはいるが、形は綺麗に残っている。

 中に入ると長い通路が一本続き、その周りには無数の怪鳥の石像が飾られていた。一つとして同じものはなく、まるで生きているかのようにも見える。像の首には全て、大司教やマーガレットがしているような教会の紋章のペンダントがかけられている。

 通路には、厚手の手袋をつけた一人の少年が立っていた。


「安心と速さにご定評いただきまして誠にありがとうございます。バンベガン郵便へようこそ! 誰宛ですか?」


 少年は慣れた文句を早口で言い切ると、小屋を見渡しているマーガレットを見つけた。


「おろぉ? もしかして大司教、いいオンナってのを見つけちゃってますね。」


「勘違いするなよ。彼女は巡礼者だ。敬意を払え。」


 大司教が通路の脇にある台で手紙を書いている間、少年はマーガレットに話しかけた。


「こんにちは、巡礼者のお姉さん。巡礼する人ってイカしてるよね。旅の思い出、聞かせてよ。」


「そうしたいけど、私に詩の才能はないのよ。」


 マーガレットがそう答えていると、大司教が口を挟む。


「そうだ。彼女が書くべきなのは、詩ではなく安否報告だ。邪魔をするな。」


 大司教の語り口はいくらか優しかった。マーガレットは少年に微笑みかけながら、大司教にならって台の前に立った。

 マーガレットは自分の手帳からページを切り離すと、台に備え付けられたペンで文字を綴り始めた。


 書き終わると、マーガレットは手紙を四つに折り畳んで少年に渡した。大司教は既に書き終え、少年に預けていた。

 少年は二通の手紙を紐で括り、その手紙を並んでいた石像の一つに固く結びつけた。


「行き先は?」


 少年が尋ねる。


「ゴティークのスウィーニー・パッカーと……。」


「シルキー・キャントニーへ。」


 少年は石像のペンダントを外した。石像は本物の鳥のように翼を広げ、金属を擦り合わせたような不快な叫び声を上げると、勢いよく風を切って飛び去った。


 大司教とマーガレットは、教会の一室で寝泊まりすることとなった。レイカー神父が二人を案内する。


「こ、こんな状況ですが、ゆっくりしていってくださいね。バンベガン村は腰抜かす程いい所なので、復興作業が落ち着いたら、またいらしてください……。」


 マーガレットは途中、教会内で運ばれる患者を目にした。軽い怪我を負った者から、大量に出血している者、意識を失っている者まで──。


 その悲惨な状況に、マーガレットは悪魔への憎悪と、神への懇願を抱いた。



 太陽が沈みかける時、マーガレットは既に眠りについていた。大司教の部屋には、誰もいなかった。彼は、夕日で赤黒く染まる村を歩きながら、注意深く空を見ていた。


 ──やがて、空が真っ黒に塗り潰され、美しくなった。


 大司教はランタンを握りしめ、赤い右目を光らせながら、陰となった村を見渡した。獲物を探す醜い猛獣のように。


 雲の多い夜更けもとっくに過ぎた頃、彼は闇の中に何か動くものを見つけた。ランタンで照らそうとしてみるが、距離があって光が当たらない。

 大司教は目を凝らした。それは、なんとも無様な人のようだった。インクのような黒い川に映る月を見つめている。大司教はすぐに正体に気づいた。


「レイカー……? 何してる。」


 彼は呟くと、臆病な司祭に近づいていった。


 その時、もう一つの影が見えた!


 その影は、小さな家よりひと回り小さい程度の巨体を持つトカゲのような外見で、太い腕をしっかりと大地に突き立てていた。しかし、トカゲの長い尾はなく、腹の辺りでプツリと体がなくなっている。腹の終わりは、反り返るようにして天を向いている。

 その影は川の対岸にいる司祭を見つけると、素早い動きで飛びかかっていった。それは優雅な舞いであった。力強い『狩りの舞い』である。

 司祭は不運なことにその攻撃をかわし、悲鳴を上げて教会へと逃げていく。


 大司教は駆け出した。


 レイカー神父は、楽しい悲鳴を上げながら死にもの狂いで逃げ惑っていた。空は夜の帳に包まれ、木々も雲も影と化し、星たちはニタニタとした笑顔を浮かべて、怯える男の叫び声を楽しんでいた。無様な男は、みすぼらしい教会の廊下を死にもの狂いで駆けていく。扉は開かれたまま夜の風が入り込み、逃げる男を嘲笑う歓声を運び込んだ。


 汚らしい教会を悪魔の影が追い詰めた。ステンドグラスを月明かりが照らし、建物は魔物のふりを始める。雨樋の怪物は牙を剥き、門の柱に止まっていた鳥の石像は、縄張りへの侵入者に向かって翼を広げ、警告する。

 しかし、悪魔がひと度大地を震わすような雄叫びを上げると、人間の下僕に成り下がった魔物たちは、抗うのをやめた。


「き、きた──きた、な……!」


 愚かな男は必死に声を出してみせるが、僅かな言葉を絞り出すので精一杯だった。

 やがて、悪魔の影は教会に足を踏み入れようとした。しかし神の加護か、この悪魔が臆病だったのか、忌々しいことに彼は教会に踏み込むことが出来なかった。床を踏もうとする度に、弾かれるようにして足を戻してしまうのだ。


 悪魔はたくましい腕を振り上げて、教会の破壊を試みた。その時、彼の背後に赤い目を持つ人影が現れた。大司教はおぞましい表情で目の前の悪魔を睨むと、いつの間にか手にしていた剣を握りしめ、閃光のように向かっていった。


 悪魔は振り上げていた手を返し、大司教の剣を受け止めた。瞬間、剣は歪んで消滅し、大司教は悪魔を踏み台にして大きく飛び上がると、教会と悪魔の狭間に降り立った。彼は再び剣を構えながら相手の動きを伺い、影は堂々たる佇まいを見せていた。


「二日前に来たってのはテメェのことだな。何か用か?」


 大司教が問う。冷たい月が、その悪魔の美貌を銀色の光で照らし出した。腹を切られたトカゲのようなその外見は黒檀の色をしていて、首元まで裂けた口が、黒いドロドロの液体を滴らせている。上顎から頭部にかけて、猿轡を噛ませるようにして包帯のような布が巻きついており、そのたるんだ隙間から、緑色の目が鈍く光っていた。

 何より目を引くのは、彼の持つ三本の剛腕である。どんな鋼の肉体を持つ鍛冶師でさえ、その腕を見れば、姿なき恐怖のパワーを目に焼きつけられることだろう。普通のトカゲの前脚部分に二本、その背後の腹に一本生えている。


 悪魔は、低い唸り声を上げながら大司教を見つめた。寡黙な悪魔に対し、大司教は更に言葉を続ける。


「おい、お前。俺の腕を見て、いま勝利を確信したな? 俺のことを華奢な奴だと見下したろう。」


 悪魔は唸るのみ。大司教は醜い嫌悪の目を向けた。


「と、理不尽ないちゃもんをつけた所で、死んでもらおうか。」


 刃が月光に煌めいて、鋭い一閃となった。

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