第3灯 森の惨劇

 若い男に連れられたマーガレットは、陽の光の差す広間に通された。そこにはシルキーが待っており、彼女は心配していたのか、マーガレットを見ると胸をなで下ろした。


「改めて、お会いできて光栄だよ。アンブローズだ。」


 老人が手を差し出し、マーガレットとシルキーもそれぞれ挨拶を交わしながら握手する。アンブローズは一緒に来た若者にも挨拶をさせたがったが、彼は忙しない様子で部屋から出て行ってしまったので、やむを得ず目の前の客に話し出した。



「君のお父上には、とても世話になったんだ。権力争いや反乱や──当時だと疫病か──そんなものが絶えなくてね。よく知恵をもらったものだよ。お父上は元気かな?」


「ええ、元気──だと思います。」


「そうか。いや、話せてよかったよ。教会がご帰宅に協力するというのでいい機会だと思ったんだ。突然呼び出してしまって申し訳ない。実は、第一司教がちょうど同じ方面へ向かうので、同行させたいと思っていたんだ。あぁ、ほら戻ってきた。」


 若者が再び部屋に入ると、一緒に別の人物も入ってきた。頭に黒いヘアバンドをつけた目つきの悪い男だ。この男と若者は、厳しい顔つきで部屋の隅で話をしている。


 やがて、若者はアンブローズの方へ歩み寄ると、僅かにマーガレットを見ながら話し始めた。


「アンブローズ様。教区長が承諾してくれたので、同行を承ります。スウィーニーを同伴しますが、やはり他の兵を連れるのは危険です。御者くらいしか……。」


 アンブローズは頷きながら深く息をついた。


「そうだな、仕方がない。マーガレットさん、第一司教が一緒に行ってくれるそうだから、後のことは彼に任せるとするよ。送ってもらいなさい。」


「ありがとうございます。心よりお礼申し上げます。」


 マーガレットは感謝の言葉を述べたが、正直に言えば不安があった。当の第一司教が、心底不服そうな表情でマーガレットを見つめ、時々目を逸らすのだ。嫌われてしまったようにしか思えなかった。


 マーガレットとシルキーが部屋を後にすると、アンブローズは悲しい顔で祈り始めた。


「アンブローズ様?」


 大司教が声をかけると、枢機卿は穏やかでない声音で若者に語り出した。


「いいか、よく聞くんだ。スウィーニーもな。馬車は一台につき二人乗るんだ。四人、一緒に乗っては行けない。スウィーニーはシルキーと、お前はマーガレットと乗りなさい。」


 大司教と、スウィーニーと呼ばれた部下は顔を見合わせた。


「……それは何故ですか?」


 大司教が尋ねるが、枢機卿は首を振った。

「今は言えない。だが、ゴティークに着いたら一度手紙をくれ。そこで、話をしよう。」




 マーガレットとシルキーは、大聖堂近くの広場で待っていた。そこには、既に6人乗りの馬車が幽霊のように静かに停まっており、時折馬が鼻を鳴らす音が響いた。しばらくして、大司教とその部下がやって来た。大司教は暗い青色の服に着替えており、手を背中で組みながらキビキビとした足取りで石畳を鳴らす。部下の方も動きやすそうな黒い服装に変わっていたが、二人の元へ辿り着くと、突然魂を抜かれてしまったかのような表情を浮かべた。


「行き先はザイバのメトウィットで間違いないな?」


 大司教が尋ねる。しかし、彼があまりに鋭い視線を放つので、少し怖気づいてしまったマーガレットはすぐには言葉が出せなかった。慌ててシルキーが答える。


「はい、その通りです。」

 マーガレットは小声でシルキーに礼を言った。大司教は御者に行き先と伝えに行き、再び二人の元へ戻って話を続けた。


「では、乗車について補足する。馬車は二台に分けて、二人ずつ乗り込む。シルキー・キャントニーはコイツと、マーガレット・スターミルは俺と一緒に乗れ。異論はなしだ、いいな? ……返事ッ!!」


 大司教が声を張り上げると、広場に着いてからずっと上の空だった部下の男が跳ね上がった。


「……あっ、はい! すみません。」


 四人はそれぞれ馬車に乗り込んだ。マーガレットは自分の後に大司教が乗り終わると、顔色をうかがいながら尋ねた。


「大司教様……、この乗り方は何故──」


「アンブローズ様の指示だ。黙って従え。」


 遮るようにして出された答えに、マーガレットが言えることはもう何もなかった。



 マーガレットにとって、この馬車の旅ほど苦痛に感じることはなかった。馬車は切り開かれた森の小道を進んでいった。夜は危険な森だが、日中は太陽の光に樹木が照らされ、神々しい輝きを放っている。

 大司教は出発してからというものの黙りこくって、眉間にしわを寄せながら背後へ流れていく景色を見つめていた。マーガレットが、天気のことやささやかな世間話を持ち出しても、目も合わせずに一言二言返事をするばかりで、呆れさえ覚えてしまったマーガレットは、遠く離れた前方に揺れるシルキーと部下の男が乗った馬車を、恋しがるように見据えた。

 ぬかるんだ道を馬車が通り、車輪に踏み潰された泥が彼女の服に跳ねてつく。それすらも、彼女を嘲笑っているようだった。


 しかし、静かな旅路はやむなく中断することとなった。


 突然、マーガレットたちを引いていた馬が高くいななくと、開かれた森を大きく外れ、鬱蒼とした草木が生い茂る森の中へと入り込んでしまったのだ。


「何!? どうしたのよ!」


 マーガレットは慌てながら、振り飛ばされぬよう必死に座席のへりを掴む。


「おい! 何が──。」


 大司教は御者に状況を確認しようとして話しかけるが、それは叶わなかった。御者は、静かに馬車に揺られていたかと思うと、突然馬車から飛び出すように落ちていったのである。このとき、大司教は彼の首に細い針のようなものが刺さっていることに気づいたが、それが前で暴走する馬にも深く突き刺さっていると分かると、急いで立ち上がり、マーガレットに向かって叫ぶ。


「降りるぞ!」

 

 マーガレットは焦燥のあまり、大司教の言葉が聞き取れなかった。


「えっ……!? なんて?」

「いいから降りるぞ! さもないと──。」


 大司教は前方を見て言葉を絶やした。暴走した馬は、行く手に巨大な木が待ち構えているにも関わらず、全速力で突っ込んでいった。馬車は轟音を立てて衝突し、バラバラになった残骸が、二人を上から押しつぶす。辺りは真っ暗になった。



 マーガレットは、静けさの中で目を覚ました。目の前には、赤い空を覆い尽くす深緑の影が見える。彼女は仰向けに横たわっていた。体中に痛みを感じるが、やっとの思いで起き上がることができた。

 少し離れた場所に、衝突で無残な姿になった馬車が散らばっていた。マーガレットは放心状態になりながらも、立ち上がって事故の現場に歩み寄る。すると、残骸の下から何かが漏れ出ているのが見えた。一面の草花が、赤黒く染められている。それは大量の血だった。まだ乾ききっていない血が、馬車の下から広がっていたのだ。

 マーガレットは、絶望的な予感を覚えた。周りを見渡しても、同席していた男が見当たらない。


「大司教様……? 大司教様!? 大司教様ぁ!」

 

 マーガレットは、目の前の鮮血を見つめながら悲鳴を上げた。


「あぁ、大司教様! そんな、そんなこと私は望んでないのに! ただ、優しくお話してくださればいいのにと思っていただけなのに。こんな残酷な運命なんて……!! ──大司教様ぁぁ!」

 

 その悲鳴に混じって、背後から声が聞こえた。


「なんだ。」


 大司教はそこにいた。


「え……あ、よかった。生きてた。」

 

 大司教は慎重に辺りを見渡しながら、マーガレットに歩み寄る。


「立てるな? ……血は馬のものだ。出血しながらどこかへ走り去ったようだが、もう追いつけないだろう。御者も見つからない──。」


 彼は大変不審がるような様子で、砕けた馬車を見据えた。


「これからどうしますか……? もう日も傾いていますし、ここがどこだかも分かりませんわ。」


 マーガレットが真っ赤な空を指差すと、大司教は上を向いて答えた。


「日が落ちる前に森を抜けるのは難しい。仮に抜けたとして、馬車で通った道も危険なことに変わりはない。森の中で場所を探すぞ。」


「場所?」


「そこで一夜を過ごす。眠れて、悪魔から身を守りやすい場所が必要だ。ここなんかどうだ?」

 

 そう言うと、大司教は空洞になった古い切り株を差した。相当な大樹だったらしく、身を屈めれば、おとな一人が横になれる空間があった。マーガレットは当初難色を示したが、大司教の視線と、それ以外にどうしようもないという状況から、渋々そこで眠ることにした。

 マーガレットが眠りに落ちた直後、太陽が沈みきった空は、インクをこぼしたように、一瞬にして闇に覆われた。


 ──愉快な時間である。


 大司教は、マーガレットのそばの木に寄りかかって座り、目を閉じていた。四方から、楽しげな叫び声や、美しい笑い声が飛び交い、夜のおぞましさを引き立たせた。地中からは亡霊の呻き声が響き、両腕を高々と掲げて脅かそうとする森の木々を震わせた。中でも今夜は、より不気味な足音が闇夜の世界で踊っていた。


「まずい……、“縄張り”だ。」


 大司教は目を閉じたまま、音に耳を済ませながら右手を上げた。すると、いつの間にやらその手には、木で造られた格子状のランタンが握られていた。大司教は注意深く目を開ける。どういうことか、彼の右目の強膜は真っ赤に染まり、鈍い光を発していた。緑色の瞳の中心に、白い瞳孔が見える。おおよそ人間のものではないその目は、足音の主を凝視した。


 それは、なんとも美しいものだった。耳心地の良い足音を奏でているのは、蜘蛛のように立派で巨大な八本脚だ。真っ黒な脚はびっしりと毛に覆われ、草花を踏みつけて精霊たちを侮辱する。その脚を辿っていくと、その体は前後左右の四方を様々な形の扉で囲まれている。どこかの家から引き剥がしたのだろうか。黒いミミズのような何かが、太い脚の合間を縫って扉を掴み、体に密着させている。

 大司教はランタンを持って立ち上がると、脚の生えた扉の塊に後ろから近づき、扉の一つをノックして、少し距離を置く。


「なんだ。ドアに触る間抜けな頭のクソ野郎がいるな。」


 扉の中から声がした。それは粗暴な語り口とは裏腹に感情がなく、冷酷で無機質なものだった。その声が聞こえると、叩かれた扉が僅かに開き、その隙間から素晴らしい触手のようなものが這い出て、ランタンで照らす大司教の左腕を掴む。扉を押さえつけるミミズの正体だ。覗き窓が開かれ、大きな赤い目が大司教を見つめた。


「誰だ。」


 扉の中の彼が問う。大司教は、落ち着き払った様子で答えた。


「ドアだ。」

 

 扉の彼は少し考え込むと、大司教の腕を解放した。


「俺の場所だ。消えろ。」

 

 そう言われた大司教は僅かに怒りの表情を浮かべた。悲しいことに、扉の彼はそれに気づかず、眠っているマーガレットを見つける。扉の彼は、危険も知らずに眠っているマーガレットに向かって歩き出した。当然のことである。しかし、背後の男はそれを許さなかった。


「知らないようだから教えてやるが、ここはテメェの場所じゃない。」


 大司教が声を上げる。


「俺たちが森を“悪魔の領域”として恐れるのは、本来おかしいことだ。何故、テメェみたいな悪魔に譲ってやらなきゃならない。自然はテメェらを必要としていないのに。」

「何が言いたい。」

 

 扉の悪魔が冷たい声音で尋ねると、大司教はゆっくりと歩み寄る。


「占い師と死神の代行をする。消えろ。」



 大司教はランタンを少女の方に投げ、その手には既に、一振りの剣が握られていた。

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