第2灯 大司教の屋敷

 マーガレットとシルキーは、教会の外で向かい合って話していた。既に手紙を司祭に渡し、馬車の手配を待っているところだった。


「教会が馬車を貸してくれるなんて、よかったわね。」


 マーガレットが上機嫌で言った。シルキーも頷いて笑顔を浮かべる。


「何か騙されているのかと疑ってしまいますけれど。──あら、司祭様がお見えですよ。」


 二人の元に、タギテンシチェの司祭の1人が歩み寄ってきた。司祭は苔のような髭を生やした丸顔の男性で、道端に転がる石が歩いているように見えた。


「おはようございます、司祭様。馬車をお貸しくださるということで、本当にありがとうございます。」


 シルキーの挨拶に司祭は朗らかな表情で応じ、落ち着いた声音で話し始める。


「いえいえ。ところで、いや突然で大変申し訳ないのですが、お二方に会いたいという方がいらっしゃいまして、是非ともご同行いただきたいのです。」

「我々にですか?」

「いえ、お二方というより、スターミル家のご令嬢にご挨拶したいと……。」

 

 シルキーと、黙っていたマーガレットは目を見合わせるが、シルキーは再び口を開いた。


「そういうことでしたら構いませんが、そのようなことをおっしゃるなんて、どなたですの?」

「枢機卿のアンブローズ司教です。」


 二人は驚いた。


「枢機卿……。そのようなお方が何故──?」

「それは分かりかねますが、いささか上機嫌でいらしたので、悪いことではないかと。いかがですか?」

 

 二人は、再び目を合わせた。断る理由はないのだが、あまりにも唐突な上、怪しさが否定できない。しかし、これから馬車を貸してもらおうというのに、怪しいから嫌だとは言えたものではない。


「承知致しました。」

 

 シルキーが言うと、司祭は振り返って着いてくるよう告げた。


 タギテンシチェ大聖堂の祭壇の奥にある扉を出ると、広々とした広間に出る。そこからさらに外に出ると、心地よい風が吹き抜ける草原に辿り着き、三人は、その先の高台に敷かれた階段を上がった。

 頂上から眺める景色は素晴らしいものだった。第一教区は多くが森に覆われ、その黒い影が草原の至るところを埋め尽くしていた。東の彼方には鋼色をしたニケヴェー山脈が、厚い雲を纏って鎮座している。珍しいことにこの日はよく晴れ、青空を駆ける風が、昨夜の雨に濡れてキラキラと光る草の匂いを運んできた。

 しかし、マーガレットの目を奪ったのは、この美しい景色ではなかった。高台を上りきった先に、広々とした庭園が待ち受けていたのである。色とりどりの花で作られたアーチや小道を抜けると、繊細な彫刻を施した噴水を目にすることができる。外れの方に行けば、先程の絶景をベンチに座ってくつろぎながら楽しめるようだった。一日では到底歩ききれないであろうその庭は、暖かな陽の光に照らされつつも、清々しい空気に満ちて涼しさを感じさせた。

 そして、その奥に存在するのが、美しい庭園にはまるで似合わない不気味な屋敷だった。窓は歪な笑顔を浮かべ、黒ずんだ石の壁が敵意を剥き出して唸っている。近づくと、雨樋の水を吐き出す怪物がギョロリとした目でこちらを睨みつけ、門の隅に止まっている鳥の石像が縄張りに入った人物を監視する。大聖堂の不気味さとはまた違った、純粋な恐怖を煽るものが、その屋敷には存在していたのだ。少なくともマーガレットはそう思っていた。


「こちらが、第一司教──大司教様の邸宅です。」

 

 司祭の説明も納得だ。屋敷の中は外観に比べると穏やかなものだった。もちろん、奇妙な怪物の像がずらりと並べられ、蜘蛛や鼠がチロチロと這いずっていそうな雰囲気はあるものの、壁や床は磨かれ、芸術性のある家具が置かれており、住居者の格式の高さをうかがわせた。


 マーガレットとシルキーは神父に案内されるまま、長く複雑な廊下を進んだり曲がったりしていた。しばらくすると、廊下の行き止まりに辿り着き、二人は一番奥の部屋に通された。しかし、ここでマーガレットが重要なことに気づく。


「あら? やだ、誰かに盗られたかしら? 財布がないわ。」

 

 マーガレットは腰元を探るが、身につけていたはずの財布が見当たらない。屋敷に夢中で、落としたことに気がつかなかったのだろうか。


「我々の方で探してきましょう。」

 

 司祭はそう言うが、マーガレットは手を振ってこれを断った。


「いえ、私のことですので、どうぞお構いなく。ご迷惑をおかけ致しますが、探して参りますわ。」

 

 マーガレットは歩調を早めて来た道を引き返した。豪奢で気味の悪い屋敷を一人で歩くのは、なんとも気分がいいものではなかった。


「アヤッ! なんだ、普通に落としてるじゃない。」

 

 マーガレットは落ちた財布を見つけた。これといった事故もなく、単純な話をすれば、うっかり落としていたのである。しかし、マーガレットは財布を拾い上げた直後に絶望するしかなかった。この迷路のような廊下が、吹雪く雪山のように出口を分からなくさせているのだ。

 マーガレットはしばらくの間、勘を頼りに進んでいたが、どんなに進んでも一向に辿り着かないのでいよいよ不安になり、人を見つけ次第尋ねることに決めた。この屋敷は素晴らしいものであるが、それにしてはあまりにも人がいない。


 マーガレットは、ある一室を見つけた。扉の向こうから話し声が漏れている。マーガレットは戸を叩いて呼び出そうとしたが、会話の内容が気になったのでそっと耳を立てた。


「いえ、アンブローズ様。確かに可能ではあるのですが、せめて事前におっしゃっていただかないと……。これ以上二人の負担を増やすわけにも参りません。」

 

 若い男の苛立った声がした。それに続いて、年老いた男の穏やかな声が聞こえる。


「まぁ、その辺りは私の方でなんとかしておくとも。お前を頼りにしてるんだ、分かるだろう?」


「しかし、私が表に出るのはリスクが伴いましょう。教会全体の信頼に関わる問題です。下手をすれば我々は──。」


「そこはお前が上手くやってくれると信じているんだ。」


「あぁ、勘弁してください。私がそんな器用な男にお見えですか? それが出来ようものなら私はもっと祭壇に立ちます。見誤ってはなりません、アンブローズ様。」

 

 マーガレットはこの会話を食い入るように聞いていた。しかし、隠れて何かを行うと、多くの場合事故が起きる。マーガレットは耳を扉に押し付けようとしすぎたために、扉を足で蹴飛ばしてしまった。


「……なんだ!!」


 男の怒鳴り声が聞こえる。マーガレットは慌てて扉の横の壁際に身を寄せた。その直後、扉が勢いよく開かれ、腹を立てた様子の男が一人飛び出してきた。白い法衣を着た痩身の男で、まだ若いが重々しい目を持っているように見える。

 この若者は慎重に辺りを見渡して、音の正体を探ろうとしていたが、マーガレットは開ききった扉に隠されており、扉が思いきりぶつかってきたときも声をあげなかったので、見つかることはなかった。


「落ち着けよ。怖い奴だな、ピリピリしすぎだ。」


 部屋の中から老人の声が聞こえると、若者は訝しげな表情を浮かべながら部屋へと戻っていった。扉が閉まったことを確認すると、マーガレットは急いで立ち去ろうとする。その時──。


「待て!」


 背後から声が聞こえ、何者かがマーガレットの後ろ襟を掴んだ。首筋に冷たい風を感じる。マーガレットが焦りながら振り返ると、そこには先程の若者がいた。その顔つきは意外なものだった。この男は怒りの表情を浮かべているかと思いきや、酷く驚愕していたのだ。言葉を失ったようにして、マーガレットを見つめている。


「ど、どうか致しまして……?」


 マーガレットが話しかけるも、男は黙ったまま、目を泳がせている。マーガレットもどうしたら良いか分からず、黙り込んだ。二人が沈黙していると、部屋の中から赤い法衣を着た老人が現れた。顔を覆う白く長い髭の中から、潤んだ瞳が覗いている。


「やめろ、やめろ。怖い顔して、どうしたんだ?」

 

 老人の言葉に我を取り戻した若い男は、少女の襟から手を離して険しい表情に変えると、言葉を選んで噛み締めるように話し出した。


「この娘は? 何故ここに? お知り合いですか?」


 老人はマーガレットに目をやると、目を細めて優しく微笑みかけた。


「あぁ、会ったことはないがね、君のことはすぐに分かる。お父上にそっくりだ。特に目がね。……ところで、何故この部屋に?」

「えっと……、アンブローズ様にお会いしに参りましたのでございますが。その、道に迷ってしまってございまして……。」


 マーガレットはなんとも奇妙な言葉遣いで話してしまい、まずかったのではないかと考えたが、老人の笑顔で安堵することができた。


「それは失礼。急に呼び立てた私の責任だ。君と少し話したいと思ってね。さぁ、我々と一緒に行こう。」


 老人は、マーガレットの背中を優しく抱えると、唖然として立っている若者の方を振り返った。


「……ご案内致します。」


 若い男はそう呟くと、眉をひそめて廊下を歩き出した。マーガレットは、すれ違いざまに見つめられたような気がした。

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