第1章

第1灯 悪夢の冒頭

 実に気味の悪いことだ。


 もし君が人を殺めたとして、人生を終えた君が向かうのは奈落の懺悔室である。もし君が人に殺められたとして、君が向かうのは虹の着地点に広がる大きな街である。

 では、もし人を殺そうとし、不幸なことに逆に殺されてしまえば、君はどこに向かうだろうか。そんな者の行き場などないのである。その場限りの処刑人であり、死刑囚──。苦痛まみれの檻以外に、その4分の3オンスの居場所はないのである。



 森は、重く冷たい夜に覆われ、黒々とした美しい闇が木々の合間を縫うように走っていた。陽光とたわむれる生命は眠りにつき、月光に集う生命が目を覚ます。しかし、こんもりと生い茂った木の葉の屋根によって、月の光は森に届くことがない。闇とは、広大な世界の中にぽつりと置かれた、小さな箱のようなものである。


 黒い森の中の少女は、虫唾が走るような純白のドレスを来て、一歩ずつ踏みしめるように歩いていた。青い瞳は濁り、金色の髪は夜に混じって汚らわしい。柔らかい足を出すたびに、無惨にも踏み潰された小枝の悲鳴が響き渡る。

 そんな身のほど知らずの少女を、影となった木々は両手を高く上げながら待ち構え、地中の亡霊たちは笑いながらもがき苦しみ、吸い込まれそうな茂みの向こうからは真っ赤な目がジッと見つめている。笑い声、悲鳴、唸り声──、美しい合唱は、時とともにその声を厚く大きなものにしていく。


 突然、少女の目の前に一つの小さな炎が現れた。炎は青く輝き妖艶で、少女を誘い込むようにゆらゆら揺れてみせると、弾むように上下に動きながら離れていった。愚かな少女は、魂を奪われたような顔で追いかける。


 しばらく追いかけていると、炎は動きを止めた。そこは木の少ない開けた場所で、黒い天井には、月とともに星たちが、かかった獲物を見てニヤニヤと笑っている。追いついた少女は、静かに燃え続ける炎を間抜けな表情で見つめながら、そっと手を伸ばした。少女の手が炎に触れると、炎は青い手をパッと開き、少女の体を包み込んだ。ごうごうという音が周囲に広がり、少女の視界は、真っ青な揺らめきに支配され、何も目に映らなくなった。


 

 すると、背後から──!



 ──小鳥の歌声が聞こえた。少女は、自分が薄暗い部屋の小さく粗末なベッドに、半開きの窓を背にして横たわっていることに気づいた。外があまり明るくなく、起床のリズムが乱れていないことを確認すると、ホッと息をつく。

 少女は古い木製の窓を開けた。まだ太陽が顔を出さない朝の野原には、銀色の濃い霧がどっしりと腰を下ろしていた。窓から吹き込んでくるひんやりとした風が、カビた木の匂いと混ざり合う。少女はぼんやりと霧の世界に入り浸っていた。


 誰かが部屋の扉を軽く叩いた。ハッとして入るよう声を掛けると、白い服を着て髪をきっちり結わえた、小太りの女が入ってきた。


「おはようございます、マーガレット様。昨夜ゆうべはよく眠れなかったのですか? 汗をかいておられますが。」

 

 女がそう言うと、少女──マーガレットは慌てて額の汗を拭った。濡れた手を見つめ、彼女は自らに呆れて首を横に振る。


「恥ずかしいわね。嫌な夢を見たわ。」

「それは大変。さ、お顔を洗って不吉なものを流してしまいましょう! 今朝はちょうど雨が止みましたので、魔物除けの朝露がよく採れましたよ。」

 

 女は和やかに笑って、ベッドの脇の小テーブルに水の入ったたらいを置いた。マーガレットは髪をかき上げると、冷たい《美貌の薬》に手を浸した所で、思い出したように口を開いた。


「ねぇ、シルキー。朝のお祈りまで時間あるわよね?」

「はい。お散歩ですか?」

 

 シルキーが心を見透かすように言うと、マーガレットは少し驚いて頷いた。


「ええ。今日は1人で行きたいの。いいかな?」

「そうですね……。あまりよろしくはありませんが、仕方ないでしょう。お気をつけて。」


 シルキーは不本意であったが、マーガレットが止めても聞かないことは分かっていたので、承諾せざるを得なかった。マーガレットは礼を言うと、簡単な祈りを済ませてから顔を洗い始めた。シルキーはその間に部屋を出て行った。顔を洗い終えると、泊まっていた宿から出たマーガレットは、マントを翻しながら、まだ薄暗い広場を歩き出した。



 虹の橋を渡って到来せし精霊たちが造り上げたこの地は、古来より「橋のたもとニグテジア」と呼ばれる。すなわち、この世である。

 マーガレットがいるのは、南のタチフェン地方。かつての精霊と悪魔の戦い、霊魔戦争を生き抜いた占い師ダイアードは、精霊とも悪魔とも異なる「神」の存在を提唱した。その神を崇拝する「ダイアード教会」が、占い師の遺志を継ぐ代行者として、タチフェン地方での活動を続けているのである。



 マーガレットは、とある広場を抜けた先の、なだらかな坂が続く草原を歩いていた。つい先程まで降りしきった雨は、透き通った美しい宝石を葉の上に置いて去っていった。息を吸う度、冷たく湿った空気が胸を満たす。マーガレットはひとしきり坂を下っていくと、霧で遮られた坂の上を見つめた。悶々と立ち込める濃霧が冷たい手で自分を抱きかかえて、二度とかえしてくれないような気がした。

 マーガレットは真っ白に塗り潰された視界に呆然としつつ、自分を吸い込もうとしてくる霧の魔力に必死になって抗っていたが、突然どこからか鐘の音が聞こえた事で、彼女は我に返る事が出来た。朝の祈祷の為に聖堂が開放される時間である。マーガレットは急いで来た道を引き返した。だんだんと霧がクリーム色に染まっていき、それも少しずつ晴れて行く。


 先程の広場から丘を上ると、タギテンシチェ大聖堂がある。

 ここはダイアード教会領に存在する7つの大聖堂の内の1つであるが、これらは全て、かつてダイアードが偉業を成し遂げた地に存在する為、聖地として度々巡礼者が訪れる。マーガレット・スターミルもその1人であった。

 大聖堂の入り口付近の壁には、教典である『ダイアードの叙事文』の一部が刻まれていた。字を読むことができなくても、その神聖な言葉を一目見ようと訪れる者も多い。


 マーガレットとシルキーは、その大聖堂の荘厳な空気に圧倒された。直線的な構造と高い天井が生み出す張り詰めた音の響き、教典の内容を描いた色つきのガラス窓、冷たくも強かな石の質感と色味は、神に祈りを捧げるに相応しい、静かな神々しさを醸し出している。

 だが、ダイアード教会の聖堂を語るにあたっては、それと同時に存在する恐ろしげな面も取り上げなければならない。切り立った壁に沿って、ズラリと並んだ怪物の石像。建物をみすぼらしく彩るクモの巣。苦痛に歪む顔が浮かび上がった壁につけられた窓は、牙を剥いて不気味な笑顔を浮かべる顔のような形をしている。この聖堂の建設にあたって、多くの人の屍が壁に埋め込まれたという噂まである。もちろん、そのようなことは決してないのだが。

 これらは全て、教会の教え──魔に扮する事で、悪魔からの襲撃を避けよという教義に沿ったものである。神々しさと禍々しさをあわせ持つこの建物は、人々にとっては揺るぎない救いの場であった。


 やがて祭壇まで辿り着くと、恐ろしい矢で人間を射殺す巨大な怪物の像が目に入った。司祭の1人がよく通る声で解説している。


「ここ、ヌボトゥム・タンフェ第一教区の名の由来となるのが、この怪物の石像です。我らが祖の友であった死神のうたに描かれる怪物の1人で、このような石像が7つの大聖堂に1つずつ安置されています。」

 

 怪物像の台座には、ダイアードの友であり、悪魔退治の先駆者であった「死神ソルヤ」の詩の一節が刻み込まれていた。


《──殺したさ、私の矢ヌボトゥム・タンフェが》

 

 2人は他の信徒と共に祭壇の前で祈りを捧げると、朝食をとりに宿へ戻る為、大聖堂の出口へ向かった。


 すると突然、大聖堂の入り口から金属の擦れ合うような鳴き声が聞こえた。その場にいたものは驚いて、けたたましい声の正体を確かめようとする。大聖堂の高い天井に吸い付くようにして、何かが勢いよく飛んでいる。

 それは鳥だった。不気味な仮面を着けた黒い鳥の石像で、足には一通の手紙が括りつけられている。それはざわめく人々の頭上を荒々しく通過すると、マーガレットの目の前で浮遊し始めた。

 マーガレットが慌てて手紙を外すと、鳥はまるで天敵を威嚇するようにおぞましい鳴き声を浴びせて飛び去って行った。残された二人に、周囲から冷たい視線が向けられる。


「あの鳥にマナーを教えてさしあげたいですね」

 

 マーガレットはシルキーの言葉に頷きながら、手に取った封筒に目をやる。手紙は蝋で封をされており、スターミル家の紋章が押し付けられていた。中の手紙は達筆な走り書きだったが、慌てていたのか、所々にインクの染みが見受けられた。



 緊急


 花香の18日目

 マーガレット・C・スターミル


 なんじが祖母、エリザベス・レドラ・スターミルが、花香の17日目に容態を悪くされた為、メトウィットの邸宅にて親族を揃え療養を願うべく祈祷の儀を行いたく思うことを、書にて伝達する。故に、この書が汝の元へ届けば、早急さっきゅうに帰宅するように。この手紙を聖職者に提出し、馬車にて帰宅せよ。


 H・U・スターミル




「お父様だわ。困った、急に帰れるものかしら?」

 

 巡礼の旅を中断する事は心苦しい事であるし、容易に帰れるものでもない。いつ野盗や猛獣、悪魔などに襲われてもおかしくない。

 聖なる土地を巡るにも命の危険を冒しているというのに、父親はまるで近所に遊びに行った子供を呼び戻すかのような語り口で、娘の旅路を案ずる言葉もなく帰宅を命じたのだ。

 最も、マーガレットは祖母が大好きだったし、病気の祖母が心配でならなかったので、帰る決断をしない理由はなかった。


「馬車に払うお金はそんなに持っていませんものね。とりあえず、司祭様にお話ししましょう。何かお力を添えてくださるかもしれません。」

 

 シルキーが落ち着き払った様子で言うと、マーガレットは険しい顔つきで頷いた。この時、彼女は封筒の底が切り開かれていることに気づいていなかった。

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