第四章 夕影に融かせよ空言


「――イヴ。イヴ、しっかりしろ」

 祈は畳に横たわるイヴを揺さぶった。

 触れた指先に濡れた肌の感触が纏わり付く。

 幸い、部屋の電気は付けてないのでよくは見えないが、彼女はバスタオルしか身に付けていない。そして返事も無い。


 時刻は二十一時半、外は真っ暗だ。

 困り果てた祈は嘆息と共に手で顔を覆った。

 ――何でこんなことになったんだっけ?





「行きましょう、夏祭り!」

 祈の提案に真っ先に乗ったのはやはり月乃だった。

「座長さんたちもいるでしょうから、会えたら挨拶しておきましょ」

 イヴも頷く。

「シノちゃんさんはまた残業でしょうか?」

「そのうち来ると思うわよ。お祭り大好きだもの」

 そんな具合に三人は夕方までユーフォリアで寛ぎ、夏祭りへと繰り出した。

 仮に浮かれていたとすればこの時くらいだ。



 美古都の夏祭りは規模は小さいが知名度は高い。

 会場となる河川一帯は観光名所の一つであり、川の両向かいに並ぶ旅館はこの時期になるとどこも満室になる。

 そのお目当ては川上にせり出した縁側から臨む花火で、風流この上ない事に加えて席取り争いをしなくても済み、更には冷房の中で見物出来る。

 現に一般客の祈たちは熱した人混みの最中にいた。

「う……」

 そうだった。

 祈がこういう催し物に行かない理由、それはこの人混みである。

 あっという間に服を濡らした汗と酸素の薄い空間が熱くうねる。

 温泉でもないのに蒸気すら見える気がする。

「祈さん、大丈夫ですか?」

 月乃が心配そうに声を掛ける。

「なんとかな」

「何か買いましょう。月乃、何か欲しいものある?」

「あります!」

 イヴの甘言に月乃が目をキラキラさせた。


 そこからはあまり覚えていない。

 月乃が先導し、イヴと祈は人混みを掻き分けながら追っていた。

 ……筈だった。

 気付いたら月乃を見失っていた。



「いないな……電話にも出ないし」

 人混みに撒かれたのか、どんなに目を凝らしてもあのふわ毛は見当たらない。

「困ったわね。もしあの子に何かあったら連れ出した人間の責任になってしまうわ」

 今から責任の在り処を問うな。

 そして俺のせいにしようとするな。

「とにかく探そう。行きそうな場所の心当たりはないか?」

 イヴは黙って辺りを見回した。

 出店はどこも盛況で避難できそうな場所は無い。

 花火を見る場所も特に決めて来なかったので後で合流するのは不可能。

 電話が繋がらないのは電波が悪いか、充電が切れてしまったからだろう。

 そうなるとこちらから見つける方が得策だ。

「貴方から見て、綿飴屋はどれくらいある?」

「え?」

 祈はイヴを見下ろした。

 すらりとした白のトップスにデニムのスキニーを履いたイヴは至って真面目な顔でこちらを見上げている。

「えっと……いち、に、さん……四つか?」

「じゃあ、その中で可愛いパッケージなのはどこ?」

「えっえっ」

 祈は面食らった。

「可愛い」ほど自分から遠い言葉も無いだろう。

「さっきからどういう……」

「月乃が買いそうなものを特定するのよ」

 ああ、そういう事か。

 そうは言っても祈に可愛いの基準は分からない。

「ほら、月乃が好きそうな感じの」

 イヴが助言する。

 祈は素早く四件の屋台を見比べた。

 祭の字が印字されたシンプルな店とヒーローなどキャラクターの絵が貼られた店は除いて、残り二つは動物系とふわふわ系だ。

 月乃の普段の服装から考えると後者か。

「よし、行くぞ」

 勢い良く歩き出した祈は「あっ」という声に振り向いた。

 そして子どもを肩車した家族の後ろで立ち止まっているイヴを見つけた。

「……」

 祈は戻ってその細い手首を掴んだ。

「さすがに二人は探せないからな」



 並んでいた六、七人程の客をやり過ごして祈たちは最前列に出た。

 年季の入った機械から白くてふわふわしたものが吐き出されるさまは少し面白い。

「へいらっしゃい」

「すみません、ここに女の子が買いに来ませんでした?」

 若い男は手を止めずに言い返した。

「そりゃ、何人も来たよ。迷子か?」

 祈はすぐに言葉が足らなかったと気付く。

「ええ、そうなんです。えっと、背はこのくらいで、水色のワンピースで、髪の毛がふわふわの」

 男は一瞬宙を見ると閃き顔をした。

「ああ、ちょっと前に来たよ」



「……あれを探せばいいんだな」

 月乃が購入したというパステル調の花が描かれたパッケージ。

 目印さえ分かれば簡単だ。

 思ったよりすんなり見つかりそうだな。

「待って」

 イヴが制止した。

「買ったって事は自分で払ったって事よね」

「そりゃそうだろう」

 月乃は真っ当な子だぞ。

 考えている事を読まれたのか、イヴは眉をクイっとあげた。

「分かってないわね」とでも言いたげだ。

「聞いてたでしょ。最初、私がお金を出すつもりだったの。だから逸れた事に気付いたのはきっと注文した後よ」

 ふむ。振り返った時に逸れた事に気付いたが既に注文してしまった月乃は自分で払った、と。

「それが?」

 イヴがビシッと指で祈の顔を指した。

「月乃なら折り返す筈って事!」

 今度は祈が手を引かれ、また人混みの中を逆走した。


 月乃が迷子に気付いたであろう時間から折り返した距離を計算し、二人は屋台通りの入口近くで待つ事にした。

 散々歩いたせいで汗だくだ。

 イヴもぱたぱたと手で顔を扇いでいる。

 結った髪の毛が溢れ、うなじに張り付いているのが見えた。

 思わず視線を逸らした祈はその先に月乃と同じ高校の制服を着た集団を見つけた。

 学校終わりに来たらしい女子生徒が四人。

 ぺちゃくちゃと大盛り上がりしている。

「てか花火そろそろ始まるんじゃない?」

「マジ?どこで見る?」

「あっねぇあれ新堂さんじゃない?」

 女子生徒に倣って人混みを凝視する。

 ……いた。

 月乃だ。心細そうにキョロキョロしている。

 祈は急いで近付こうとした。

 月乃はまだ祈にも女子生徒にも気付いていない。

「てかさー」

 なんとなく、冷えた笑いの入り混じった言い方だった。

 お祭り騒ぎの夏の夜、誰も彼もが饒舌じょうぜつになる。

 次に祈の耳に入ったのはやはりそんなたぐいの言葉だった。

「新堂さんの私服初めて見たけど、すごいね」

「ホントだ。個性強っ」

 我ながら大人気ないとは思いつつも、祈は女子生徒の後ろから大声で呼んだ。

「月乃!」

 気付いた月乃が安堵したように肩を下げ、手を振った。

 祈は颯爽と――出来たかどうかは分からないが人を掻き分けて月乃に辿り着いた。

 視線を感じたので振り返ってやると女子生徒たちは気まずそうに離れていった。

「すみません、逸れてしまって」

「いや、見つかって良かった。な、イヴ」

「ええ。さ、もうすぐ始まるわ。行きましょ」

 屋台から離れて川沿いへ向かう道すがら、イヴが祈にだけ聞こえる声で囁いたのだった。

「かっこつけ」




     *




 河原はどこも花火見物の人で埋まっていたが、座れないほどでは無さそうだ。

「さすがに喉乾いたな……」

 屋台で何か買っておけば良かった。

 喧騒の中、一際陽気な声を掛けられたのは祈がそんな後悔をしていた時だった。

「よう、イヴちゃん!」

 河原にビニールシートを敷いた、やんやと宴の最中らしき老人が手招きしている。

勘吉かんきちさん」

 イヴが歩み寄り、月乃も会釈する。

「こんばんは。皆さんいらしてたんですね」

 そこには声を掛けた男の他に同年代の老人が五人いた。

 皆すっかり出来上がっている。

「こちらゆうかげ会の皆さんよ」

 ゆうかげ……あぁ、商店街の。

「どうも」

「おっイヴちゃんが若ぇ男連れてる」

「月乃ちゃん、こっちへおいで。なんか食べたか?」

「ありゃ、あの馬鹿はどうした」

 老人たちが好き好きに言うので祈はイヴに助けを仰いだ。

「この人は常連さん。シノちゃんは残業よ」

 イヴが腕組みして嗜める。

「盛り上がるのは結構だけど、飲み過ぎないでよ」

 まるで孫のようだな。

「おい、そこの缶を三つ寄越して」

 どうやらこの勘吉という男がリーダーらしい。

「ほい、持ってって」

 イヴと月乃、祈に一つずつジュース缶を渡す。

「ありがとうございます。じゃあ、また」

 祈はゆうかげ会に見送られるイヴを暫し眺めた。

 人の繋がりの中にいる彼女が、なんだか眩しく見える。

 ずっとあの小さな店で独りだと勝手に思っていたが、こうやってあの店を守ってきたのだと分かり、じんとした。

 だから祈はこの時気が付かなかった。

 イヴの手にある物がジュースなどではなかったという事に。




     *





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雑貨屋ユーフォリアの魔女 琦月 きゐ @cafenoisu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ