夏もさかり、いくら寂れたゆうかげ商店街と言えど気温の上昇は免れない。

 蝉の鳴き声が追いかけてくる中、祈は逃げるようにユーフォリアに辿り着いた。


 店内はすっかり夏仕様になり、竹で編まれたランチョンマットや涼しげな硝子雑貨が目立つ。

 メインスペースを陣取るのは海や魚、貝をモチーフにしたアクセサリーだ。

 窓越しに見る商店街は熱で歪んでいる。

 ユーフォリアはまさしく砂漠の中のオアシスだった。


「――あれ、俺だけ?」

 祈はカウンター内の椅子で寛ぐイヴを見つけて訊いた。

「ええ。月乃は夏期講習、シノちゃんは残業で来れないって」

「そっか」

 今日はあの先生が透明人間事件の顛末を話しに寄るはずだった。

 キャンセルの連絡が無かったのは代わりにイヴが聞いているからだろう。

 どのみち祈がここに来て時間を潰すのも既に周知の事となっている。

「で、透明人間の話だけど」

 アイスコーヒーを出すと早速イヴが切り出した。


 あの後、イヴは約束通り透明人間の特徴を聞かせたが彼の返事は「やっぱりそうか」だったらしい。



『実は気付いていたんだ』

『そうなの?』

『イヴの言う通り、言葉以外から読み取ったんだ。あの現場に飛んできたヘアゴムは北代のだった』

 ……言葉以外というのはそういう意味では無かったのだが。

 彼らしいと言えば彼らしい。

『よくそれが彼女のだって分かったわね』

『事件の後、北代は髪型がちょっと違った。その時思ったんだ。何となくあれは北代なんじゃないかって』



「平等を欲する子ども……か」

「……」

 イヴがこちらを見つめているのに気付いた祈は首を傾げた。

「何?」

「貴方、どうして嬉しそうなの?」

「え……」

 祈は揺れるアイスコーヒーの水面に映る自分を見ようとした。

 俺が、嬉しそう?



『貴方はずっとこの家に居てくれるわよね』

『お前は好きな姓を名乗れ』

『母さん。俺この高校に行くから』

『……大学、ここに決まったから』

『すみません、祈さん。奥様は今日も――』



 カラン、と氷がグラスの底に落ちた。

 その音に呼び戻されるようにハッと瞼を開く。

「あ……悪い、今日は帰る」

 コーヒーの代金をカウンターに置き、出口へ急ぐ。

 イヴは何も言わなかった。



 ユーフォリアを出た祈はそのまま庭の前で立ち止まった。

 今更何だ。こんな事、大した事じゃない。

 平等なんて存在しない。

 他の人と違っても、羨ましくても、もうとっくの昔に諦めただろ。

 考えるな、忘れろ――。


 汗がじっとりと首筋を這い、顎の先から玉になってアスファルトに落ちる。

 蝉の声がわんわんと鳴っている。

 うるさい。煩い――……

 顔を上げるとユーフォリアの看板が目に入った。


『私と同じように誰かが求める居場所のようだった』


 祈は力無く看板に近付いた。




 再び開かれた扉の前に佇む祈を見てもイヴは驚かなかった。

 察しの良い彼女の事だ、祈が口を開くまで待ってくれるのだろう。

 祈は手近にあった丸椅子に腰を下ろし、遣りどころのない視線を店内に彷徨わせた。

 外の鋭い日差しが磨り硝子の窓を通して柔らかな光になり、店内を照らしている。

 群青や紺碧色のガラス小物たちにも光が反射し、キラキラと愉しげな燦きとなって影と遊ぶ。

 不思議だ。この店に入った途端、時の流れが変わる。

 ゆっくりと、何人なんぴとをも受け入れる、川のような時間。

 ふと、カウンター横のキャビネットが見えた。

 使用頻度の高い物が入れられているそこに自分専用のマグカップが片付けられているのを知った祈は顔を背けた。

 嬉しかった。そして不安にもなった。

 いつか、ここに来れなくなる日が来るのだろうか。

「……ここ、いつまで開いてる?」

 ようやく口を開いた祈にイヴは微笑んだ。

「必要とする人がいなくなるまで」



 緩い冷房が次第に汗を乾かしていく。

 祈はカウンターに戻り、いつもの席に座った。

 イヴになら、話してもいいだろうか。


「……くだらない話をしてもいいか」

「お代わりは追加料金よ」

 イヴがスッとグラスを置き、祈は思わず笑った。

「イヴの言うように俺、無意識に喜んだのかも。同じような人がいるんだって……俺の母親も俺を見ることはないんだ」

 こんな話、興醒きょうざめするだけだと思っていた。だから誰にも話さずにきた。

 笑い飛ばせる自虐話ならまだしも、聞かされた方が反応に困るような話だ。

 それに大の男が情けないと思われるのも嫌だった。

 でもイヴは――この魔女だけは違う。

 でなきゃ「何が苦で何処が地獄かは人それぞれ」なんて言葉、出てこない。

 祈はその言葉をずっと覚えていた。

 イヴの言葉はどれも鮮烈に残っている。


「俺の両親は見合い結婚だけど、実際はお互いがお互いに利用する為でさ。父親は母親の持つ土地と人脈が、母親は父親の権力と金が欲しかった」

 イヴは黙って聞いている。

「そのうち父親は母親を必要としなくなり、淡い期待を抱いていた母親は心を病んだ。土地があっても世話してくれる人間がいない母親と、妙な事を言いふらされたくない父親は離婚してからも変わらず一緒に暮らしてる。俺があの家を出ないのは、出る必要が無いからだ。一人で暮らしてるようなもんなんだから」

 最後は荒い語気になった。

 平静を装おうとして二杯目のアイスコーヒーに口を付けると、今度はイヴが話し始めた。

「――あのね。例えば貴方が今みたいに私に悩みを打ち明ける。私は思う。その程度の苦しみはとうに経験している。今の貴方よりもずっと幼い私はって」

 予想外の言葉に祈は動きを止めてイヴを凝視した。

 グラスを握る手が冷えていく。

「するとその幼い私に誰かが言う。『でも貴女よりも不幸な人間はいくらでもいる』ってね。そうよ。私は戦争を経験しているわけでもなければ明日着るものや食べるものに困っているわけでもない。生きようと思えば明日を生きることができる身」

 イヴが真っ直ぐにこちらを見る。

「だから、何が不幸で何が幸福かは誰にも決められない。貴方が悲しいと思うのなら、それは悲劇よ。誰も悲しむ者を責めたりは出来ない」

「……」

「目に見えるものばかりじゃないから孤独を感じるし、逆に見えた時に安心するんじゃないかしら」

「……でもあの先生は見ようとしたんだな」

「そうかもね。私や貴方、月乃にシノちゃん。同じ場所に居てもみんな違うものを見ている。見えるものが違う。だけど見えぬものこそ――例えば貴方に見えて私に見えないもの程、価値があると思うの」

 イヴが店内を見回す。

「ここに居る雑貨たちもそうよ。ここには作った人の顔は載っていない。作った人の想いも書いてはいない。けれど皆、とっても誇らしそうじゃない?」

 まるでイヴを肯定するかのように雑貨たちが胸を張る。

「私が雑貨を好きなのはね、色が付いてるからなの」

「色?」

「そう。例えばこのマグカップ……底に傷があるでしょう。これ、作った人がわざと付けているの」

 イヴは祈がよくホットコーヒーを飲んでいた濃紺のマグカップを取り出した。

「ここにあるものには人のこだわりと強い意志が秘められているし、ここに来る人たちは宝探しをするようにして心に響くものを見つける」

 それは分かる。祈だってそれが好きでここへやって来た。

「普通のお店に並んでいる商品は綺麗で、まっさらでしょ。誰にでも受け入れられるようにこんな色は付いてない。人で例えるなら完璧超人の優等生ってとこね。でも実際そんな人いないし、誰だって傷を持ってる。私たちはその傷を、色を、どうにかこうにか愛していくのよ」




「……ありがとう」

 二杯分の代金を支払い、祈は店を出た。

 閉店の為にイヴも一緒に外に出る。

「私、今日は魔女に近付けたみたい」

「えっ?」

 イヴは意味ありげに笑い、看板を裏返した。

『closed』の文字が「おかえり」と言っている気がして、祈は小さく「ただいま」と呟いた。




     *




「北代ー」

「何ですか」

 今日も外は暑い。

 なのに職員室の設定温度は一度も下がらない。

 陽太は開き直って資料室に直行するようになっていた。

「先生、それ絶対涼みに来てますよね」

「まあな」

 千世といると夏が遠ざかる気がする。

 ずっと寒月のような、イヴとはまた違う涼やかさが放たれている。

「……お前あんま笑わないよな」

「またその話ですか。普通です」

 先の告白を機に本人は「上手く付き合っていく」と言っていたが、未だにその笑顔が見れないのは残念だ。

 何より、これでは目標が達成出来ない。

「正直に聞くけど、どうしたら笑うんだ?」

 千世は呆れた顔をしたが、少しいたずらっぽく口元を緩めた。

「先生がテストの答え教えてくれたら」

 陽太は目を丸くした。

 なんだ、そういう事も言えるんじゃねぇか。

 冬来たりなば春遠からじ。

「俺がクビにならない方向で!」




     *




 八月三日は恐ろしく快晴で、珍しく空気が乾いていた。

 夏という季節を異常な程に待ち焦がれる子どもの気持ちが、今だけは少し分かる。

 手で陽を遮りながら空を仰ぐと絵みたいな入道雲が遠くに黙座しているのが見えた。


 結局、当日まで夏祭りの事は話さなかった。

 元々は颯のからかいが発端であるし、月乃はともかくイヴが興味を示すかは分からない。

 けれどお陰で妙な気を回す必要が無くなり、祈は寧ろ晴れ晴れとした気分だった。

「眩し……」

 まっさらな青に数時間先の情景を思い描いてみた。

 祈はどこか高い場所に座っている。

 イヴがいて、横には月乃も先生もいる。

 肝心の花火の色は想像出来なかったがきっと綺麗だ。

 いつかこの夏を思い出す時、一番に心を染めるであろう喜びが泉のように湧き出るのを感じながら祈はユーフォリアへ向かった。




 同じ頃、ユーフォリアに一人の客の姿があった。

 高校生くらいの女子だが、真っ直ぐに揃えられた黒髪とその顔立ちがぐっと大人に見せている。

 彼女はカウンター近くの棚に近付いた。


「すみません、こちら現品限りですか?」

「はい。この間入荷したばかりです。実際に使う事も出来ますが、植物を飾ったりしても良いと思いますよ」

「じゃあ、これ下さい」

「かしこまりました」

 イヴが包装した商品を手渡す。


 棚の上、新入りの商品があった場所には何かを縁取るように陽の光が降り注いでいた。








 I'll love your wounds.

【Balance】

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