第三十一譚 《春》をご覧にいれましょう

 町の広場には、凍りついた樹木があった。

 樹氷じゅひょうに覆われた幹は痩せ細っていた。樹氷とはいっても、繰りかえされる冬が幾重にもまとわりついているようなもので、他の地域の着氷ちゃくひょうとは質が異なる。ほうきではたこうが、嵐をともなった氷雪ひょうせつさらされようが、剥がれることはない。

 枝は葉を残らず落として、有刺鉄線のような有様だ。これらの枝はいつから、芽をつけていないのだろうか。広場にあるということは町の象徴として植えられたはずだが、由縁ゆえんは雪に埋もれて、いまはただ、久遠くおんの冬の象徴だ。

 死の季節に眠り続けるその樹木が、いかなる葉を繁らせ、いかなる実を結ぶのか、町の者は覚えていない。まして、どんな花を咲かせるのかなど、誰も想像したことすらなかった。


「皆さま、《春》をご覧いれましょう」


 樹木の側にたたずむ旅人は外套がいとうを着ていなかった。

 上質な燕尾服えんびふく紳士帽しんしぼうをかぶっている。正統な礼服だが、小雪が舞い散る町の広場では夜会服を着こなしても、場違いだ。ただひたすらに異様だった。


 隣には、雪の妖精がいた。

 いや、妖精などは実在するはずがない。だが、童話から抜けだしてきたのではないかと疑うほどに、綺麗なかおだった。少女は霜で織ったような白絹の衣裳をまとい、裸足の裏で凍てつく石畳を踏みつけていた。指は赤みを帯びることもなく、ちいさなつまさきが毅然と霜を割る。ふわりと、微風びふうにはためく衣裳は、夏の季節にはおるような薄い生地でしつらえてあった。彼女は寒さなど気にも留めず、挑むような光を瞳に滾らせて、民衆を睨んでいた。


 旅人は丁寧に辞儀をして、歌うように繰りかえす。


「《春》をご覧にいれましょう」


 意味もわからぬ呼びかけに町の者が振りかえってしまったのは、彼らが異様なほどに奇抜だったからだ。よそ者を遠ざける本能にも勝り、興味を惹かれた。

 徐々に、されど確実に、人が集まってくる。

 群衆になったのをみはからって、旅人は腰に提げていた革袋を掲げた。


「ここには《春》が詰まっています」


 春だと、春とはなんだと、民衆が首をかしげながら、騒ぐ。


「《春》は綺麗なものです。《春》は暖かいものです。これをこの凍りついた樹木に振りかけ、樹木の季節を《冬》から《春》に変えてみせましょう」


 旅人は革袋を相棒たる少女に手渡す。少女は頷いて、とんと、つまさきで石畳を蹴った。

 人の群がどよめく。少女が地上から浮かびあがったからだ。なめらかな背に羽根はないが、優雅に飛びまわる姿はまさに妖精だ。なにか危険なものではないかと革袋を疑っていた者も、あ然と言葉を失った。危機を覚える暇もない。浮遊する少女は樹木の頂まで舞いあがると、袋からなにかを取りだす。

 てのひらに乗せられたそれに、彼女は息を吹きかけた。

 雪に紛れて、きらきらと輝きながら舞い落ちてきたものは、黄金の粉だった。それが、凍った枝の先端に触れたのが早いか、霜の結晶が散った。樹木の枝から、はらはらと霜が剥がれる。   


 群衆はただ、呆然としている。


 樹氷が落ちて、幹があらわになった。

 横縞模様の幹から生えた枝には、冬芽がついていた。樹木は永遠にとけそうもない厚い氷に覆われても、諦めずに息づき続けていたのだ。


 冬芽は微睡みを経ずに膨らみ、新緑がぱっと弾けた。

 歓喜の産声をあげるように若葉が繁る。

 新緑は、この土地の風景にはなかったものだ。野菜はあっても、寒さに強張った深緑の葉ばかりだった。これほどまでに、たおやかな緑はなかった。


 枝先の緑にかこまれて、ひとつ。

 薄桃色が綻んだ。


「わっ」「なんだ、あれは」「綺麗ね」「咲いた」「《春》だと」「綺麗だ」

 

 人の群が一斉に声をあげた。綺麗とばかり繰りかえす。これまで視界の端に置きこそすれど、気にもとめてこなかった樹木を、みなが競うように仰いだ。


 小輪の花が、続々と咲き群れる。

 少女は蝶のように飛びまわり、樹木の頂から黄金の鱗粉を散らす。

 一陣の風が吹き渡る。風は暖かく、微かにあまい香りを漂わせていた。


 旅人は垂れていた小枝を折る。


「冬を患っているお方はいらっしゃいますかぁ?」


 群衆からは、時折だが、咳の声があがっていた。人が集まりすぎていて、特定はできないが、昨今冬を患った者はめずらしくはない。声をかけられたことで群衆が我にかえり、困惑の波紋が拡がる。

 旅人は構わずに続けた。


「はなびらをめば、冬患ふゆわずらいの咳は、すぐにとまります。《冬》には《春》が特効薬となります。ご家族に冬患いのお方がいれば、是非とも渡して差しあげてください」


 受け取ろうとするものはいない。当然とも言えよう。

 奇抜で綺麗なものを見せられて毒気を抜かれていたが、相手はよそ者だ。閉鎖した土地で暮らしてきた町の者が、そう簡単に旅人を信頼できるはずがなかった。まして、彼らは風貌からして胡乱うろんだ。なにか魂胆こんたんがあるに違いないと考えたのは、ひとりやふたりではなかった。よそ者は遠ざけなければ、という意識を取り戻して、群衆が退すさる。

 だがそのなかで、ひとりの老婆だけが動かなかった。


「おばあちゃん、はやく」


 若者が老婆の腕をつかんだ。されど老婆はがんとして留まり、声をあげた。


「あたしゃ、この旅人がくれた薬で冬患いがなおったんだよ」

「なにいってんだ。お医者さまのところにいったんだろ」

「いんや、お医者様の診察を受けていたら、この旅人が来たんだよ。あたしゃこの年だからね、咳もとまらんで、段々と指の爪が青くなってってね、死ぬもんだと思ったさあ。だがねぇ、この旅人の薬を飲んでもいいとお医者さまが仰って、すっかりと咳もとまったんだ」


 老婆が言った。それにあわせて、続けて町の子どもが名乗りをあげる。


「旅人のおにいさんと、妖精さんがお薬をくれたんだよ。飲んだら、お咳がとまったんだあ」


 ざわりざわりと、動揺が拡がる。


「あ、あの、それをいただけるんですか」


 旅人のもとまで進んできた若い娘がいた。相当な勇気を振りしぼったに違いない。

 群衆の視線が、その若い娘にそそがれた。


「老いた父が、冬患いに……死にかけていて」

「もちろん、差しあげますよぉ。これは町のものですからねぇ」


 旅人が微笑んで、枝を差しだす。


「ありがとうございます」


 若い娘は拝むようにそれを受け取り、走り去っていった。

 それがきっかけだったのか、枝を欲しがるものが群衆から幾人も名乗りをあげる。相手が不審な旅人だということは分かっていても、家族が冬患いに侵されているものは、希望にすがらずにはいられないのだ。その場で確かめてやろうと、はなびらを呑んだものもいたが、あれだけ続いていた咳がすぐにとまり、遂には群衆が旅人のもとに殺到する。


 旅人は腕を拡げ、晴れやかに笑った。


「ご覧あれ、これが《春》だ」


 それは、賛美だった。

 春にたいする、賛美と畏敬と。


 町の広場にわあああと声が満ちる。

 声の波をかきわけて。


「セツさん!」


 旅人が――セツが、振りかえる。

 群衆に埋もれそうになりながら、ハルビアが懸命に手を振っていた。車椅子から身を乗りだして、彼女は叫んだ。


「ご無事でよかった! ほんとうに!」


 セツは「ありがとう」というかわりに、辞儀をする。


 ハルビアの側には、エンダがつき添っていた。

 エンダは旅人が死んでおらず、事も無げに振る舞っていることに驚愕してあんぐりとなっていたが、ほっと安堵したように相好を崩す。エンダの隊に襲われ、セツが死のふちを彷徨ったことは事実だが、エンダの本意ではなかったのだと、それだけでも理解することができた。

 セツはクワイヤに視線をむける。

 飛びまわるのに飽きて樹木の枝に腰かけていたクワイヤは、すでに髪をとがらせて攻撃体勢になっていたが、セツが首を横に振ると、不満げに髪をほどいた。


 長さま、長さまと人々が騒めいた。ざっと人の群が割れて、セツはそちらに視線をむける。

 頭巾をかぶり、織物の服を着込んだ老婆がこちらに進んできた。

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